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Tony ADAMS トニ-・アダムス

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フルネーム トニ-・アレクサンダ-・アダムス
国籍 イングランド
生年月日 1966年10月10日
出身地 ロンフォード(エセックス)
ポジション DF
身長・体重 191cm・83kg
個人タイトル なし
ワールドカップ 1998年ベスト16
所属クラブ
1983-02 アーセナル

高さ、1対1の強さ、統率力と抜群の能力を発揮し、驚く程のスタミナも持つ。常に全力でプレーする姿はチームリーダーに相応しくプロキャリアをアーセナル一筋に活躍、「ミスター・アーセナル」と呼ばれるスタープレーヤー、元イングランド代表。

少年時代、自身がファンであったウェストハムでプレーした後アーセナルへ加入、1983年11月のサンダ-ランド戦にてチームデビューを果たしその2ケ月後にプロ契約を結ぶ。現リ-ズ監督オレアリー等と供にプレーする事で
著しい成長を見せ86/87シーズンにはプレミアリーグ新人賞を獲得、1989年にはチーム史上最年少でキャプテンを任され、このシーズンのリーグ優勝に大きく貢献した。その後90/91、97/98シーズンのリーグ優勝、93/94シーズンのカップ・ウィナーズ・カップ優勝など数多くのタイトルに貢献、晩年は年齢的なものや、怪我などに悩まされシーズンを通して活躍する事は出来なかったが、キャリアの最後をリーグ制覇、FAカップの2冠で有終の美を飾った。

代表としては各年代の代表チームを経て1987年2月18日スペイン戦にてデビュー。
当時の代表監督であったボビー・ロブソンにして「現代のボビー・ムーア」とまで称された。2001年1月に代表引退を表明するまで国際Aマッチ66試合出場、5得点。

余談ではあるが、その長き年月はアルコール中毒との戦いであった事でも知られ、1990年には酒酔い運転での大事故から4ケ月の禁固刑を言い渡された。
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Gary NEVILLE ギャリー・ネビル

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フルネーム ギャリー・アレクサンダー・ネビル
国籍 イングランド
生年月日 1975年2月18日
出身地 バリー
ポジション DF ・ MF
身長・体重 180cm・74kg
個人タイトル なし
ワールドカップ 1998年ベスト16
所属クラブ
1993- マンチェスター・ U

クラブレベル、代表レベル共に不動の右サイドバックとして活躍するスタープレーヤー。
右サイドを俊足で駆け上がる攻撃力も大きな武器であるが、そのディフェンス能力からセンターバックなどでもプレー出来る器用さも兼備える。また、得意のロングスローも持味の1つである。

1991年夏、マンチェスター・ユナイテッドとトレイニー契約、
育成機関で才能に磨きをかけると3年後となる93/94シーズン5月、コベントリー戦にてトップデビューを果たす。
リーグ終盤でのデビューという事もあり、このシーズンは1試合の出場に終わったが翌94/95シーズンには18試合出場、さらに95/96シーズンより不動のレギュラーとして君臨、現在までで6度のリーグ優勝に貢献している。
2001年5月にはチームとの契約を2007年まで更新、チームにとって、いかに重要なプレーヤーであるかが分る。

代表デビューは1995年6月に行われたアンブロ・カップ日本戦。
その後1996年欧州選手権、1998年ワールドカップなどで活躍、
2002年ワールドカップ欧州予選でも7試合に出場し出場権獲得に貢献し、2002年2月13日のオランダ戦(親善試合)にて代表50キャップを達成した。

エヴァートン所属のミッドフィールダー、フィリップ・ネヴィルは弟にあたる。
マンチェスター・ユナイテッドのユースアカデミー出身。1992年のFAユースカップ優勝メンバーであり、同じくユース出身のベッカムやギグス、スコールズなどマンチェスター・ユナイテッドの黄金期を築いたいわゆる「ファーギー・ベイブス」の一員である。その中でも彼のトップデビューは早く、1992年のUEFAカップでデビューを果たす。
以来、赤い悪魔の一員として、またイングランド代表の一員として、現在でも常にスタメンに名を連ねる不動の右サイドバックとして知られる。決してフィジカルやテクニックが傑出しているわけではないが、その抜群の安定感と豊富な運動量は、計算できるプレーヤーとして監督から重宝がられる。特に、ユース時代から共にコンビを組み、イングランド代表では現在でも一緒に右サイドでプレーするベッカムとの相性は抜群。センタリングの精度も高く、センターバックもこなせるというユーティリティー性も兼ね備える。近年は体力的な衰えが指摘されがちだがまだふけこむ年ではない。

ちなみにベッカムとはプライベートでも親友で、ビクトリアとの結婚式では新郎の仲介役も務めた。

Steve MCMANAMAN スティーブ・マクマナマン

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フルネーム スティーブン・マクマナマン
国籍 イングランド
生年月日 1972年2月11日
出身地 リバプール
ポジション MF
身長・体重 181cm・67kg
個人タイトル なし
ワールドカップ 1998年ベスト16
所属クラブ
1990-99 リバプール
1999-03 レアル・マドリード(スペイン)
2003-05 マンチェスター・シティ

抜群のテクニックを持ち、足下に吸い付いたようなドリブルによって
サイド付近から突破口を開いた元イングランド代表ウィンガー。

1990年12月15日シェフィールド・U戦にてプレミアデビューを果たし翌シーズンよりレギュラーとして活躍する。1992年のFAカップ優勝に貢献し94/95シーズンのリーグ優勝にも大きく貢献すると1994年11月16日のナイジェリア戦にて代表デビューも果たす。
1996年欧州選手権、大きな期待の中、初の国際大舞台でのピッチを経験し今後のイングランドを担うであろうと思われたが、多少安定性に欠けていたため1998年ワールド杯ではベンチから飛び出す事はなかった。
98/99シーズン終了後、ユベントスやミランなどのビッグクラブが獲得に乗り出す中、欧州屈指の強豪レアル・マドリードへ加入し2度のチャンピオンズ・リーグ優勝、2度のリーグ優勝に貢献、99/00チャンピオンズ・リーグ決勝のバレンシア戦での試合を決定付ける2点目をたたき出したシーンはファンの記憶に深く残った。

フィーゴやジダンなどのビッグスターの加入により多くの出場機会に恵まれず毎シーズン終了後に移籍の噂が絶えなかったが、レアル・マドリードで頑なにプレー、契約をまっとうし、2003年より母国プレミアリーグへ復帰、多くの出場機会を得る事でイングランド代表復帰も期待されたが怪我に悩まされた時間の方が多く04/05シーズン終了後に現役を引退した。

残念だったのは2002年ワールド杯メンバーに選出されなかった事・・
そのプレーが日本で見れなかったのは非常に寂しい所であった。

Bryan Robson ブライアン・ロブソン

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フルネーム ブライアン・ロブソン
Bryan Robson
国籍 イングランド
生年月日 1957/1/11
出身地 ダーラム
ポジション MF(OH,SH)
身長 175cm
体重 79kg
代表デビュー 1980/2/6vsIRL(通算90試合,26得点)
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1972-74 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン - -
1974/75 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 3 2
1975/76 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 16 1
1976/77 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 23 8
1977/78 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 35 3
1978/79 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 41 7
1979/80 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 35 9
1980/81 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 40 10
1981/82 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 5 0
1982/83 マンチェスター・ユナイテッド 33 10
1983/84 マンチェスター・ユナイテッド 33 12
1984/85 マンチェスター・ユナイテッド 33 9
1985/86 マンチェスター・ユナイテッド 21 7
1986/87 マンチェスター・ユナイテッド 30 7
1987/88 マンチェスター・ユナイテッド 36 11
1988/89 マンチェスター・ユナイテッド 34 4
1989/90 マンチェスター・ユナイテッド 20 2
1990/91 マンチェスター・ユナイテッド 17 1
1991/92 マンチェスター・ユナイテッド 27 4
1992/93 マンチェスター・ユナイテッド 14 1
1993/94 マンチェスター・ユナイテッド 15 1
1994/95 ミドルスブラ 22 1
1995/96 ミドルスブラ 2 0
獲得タイトル
マンチェスター・ユナイテッド
1982/83 イングランドカップ優勝
1983 イングランドスーパーカップ優勝
1984/85 イングランドカップ優勝
1989/90 イングランドカップ優勝
1990 イングランドスーパーカップ優勝
1991/92 イングランドリーグカップ優勝
1992/93 イングランドリーグ優勝
1993 イングランドスーパーカップ優勝
1993/94 イングランドリーグ優勝

いつの時代にも優秀なキャプテンを擁したイングランド代表の歴史の中でも一、二を争うほど優れたキャプテンで、ボビー・ムーアと双璧を成すほどのキャプテンシーでチームを牽引した伝説のプレーヤー。卓越したボール捌きでゲームを組み立てると共に得点能力も発揮し、代表通算26得点を挙げた。
80年代イングランド代表を支えたプレーメーカー。
高い戦術眼に卓越したパスセンスを備え、常に闘争心溢れるプレーでチームを鼓舞、長期に渡って偉大なるキャプテンとして君臨したスタープレーヤーであり彼に憧れて成長した現在のスタ-選手も数多い。

イングランド古豪ウエスト・ブロムウィッチ・アルビオンで育ちその才能を開花、1981年に当時リーグ優勝から見放されていたマンチェスター・Uへ引き抜かれる。
ここで3度のFAカップ優勝、1度の欧州カップウィナ-ズ・カップを制し強豪復活に大きな役割を果たすと92/93シーズンには実に26年振りのリーグ優勝を成し遂げキャプテンとしてこれ以上ない成功を収めた。
彼の存在が、現在華々しい活躍を見せるベッカム等に多大なる影響をもたらしたのは言うまでもない。
1994年よりプレーイング・マネージャーとしてミドルスブラに移り
1996年の現役引退後もチームの監督として活躍、2度のプレミア昇格とFAカップ決勝進出の功績を残した。

代表デビューは1980年2月6日アイルランド戦。
2度の膝の故障を経験するなどの不運もあったが、それでも3度のワールド杯にて活躍するなど代表通算90試合に出場、その内65試合はキャプテンとしてチームを牽引(歴代3位)し抜群の存在感を示した。通算26得点。また、初出場となった1982年ワールド杯緒戦フランス戦にて開始27秒でゴールを挙げる歴代3位の記録を持つ。
更に1989年12月13日に母国で行われたユーゴスラビア戦では
開始38秒のウェンブリー最速得点記録を持つ。
 
マット・バスビー監督が退き、ボビー・チャールトンを始めとするバスビー・ベイブスが現役を終えた後に低迷期を迎えたユナイテッドだったが、ロブソンの加入で一気に息を吹き返す。1982/83シーズンにカップ戦優勝を果たし、1986年にアレックス・ファーガソンが監督に就任後は、イングランドサッカーはユナイテッドを中心に回っていく事となる。ロブソンが選手として晩年にあった1992/93シーズンには念願のリーグ優勝を飾り、現在まで続く赤い悪魔の黄金時代の礎を築いた。

Stanley Matthews スタンレー・マシューズ

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フルネーム スタンレー・マシューズ
Stanley Matthews
ニックネーム ドリブルの魔術師
国籍 イングランド
生年月日 1915/2/1 - 2000/2/23
出身地 ヘンリー
ポジション FW(WG)
身長 174cm
体重 71kg
代表デビュー 1934/9/29(通算54試合,11得点)
所属クラブ
1930-47 ストーク・シティ
1947-61 ブラックプール
1961-65 ストーク・シティ
主なタイトル
1956年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

1956年、あのバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)が
フランス・フットボール誌によって創りだされた。
その初代受賞者となったのがこのスタンリー・マシューズである。
右サイドのスペシャリストであり、卓越されたボールコントロールと
素晴らしい加速から織り成されるドリブルから「ドリブルの魔術師」の異名を持つ。
彼が生み出した、左足の素早いステップで相手の注意を奪いその瞬間に
右足で一瞬にして抜き去るボールテクニックは「マシューズ・トリック」と呼ばれ、後にこれをもとに多くのフェイントテクニックが生まれることとなった。

1915年2月1日、プロボクサーの息子としてマシューズは生まれる。
彼の父親、ジャック・マシューズはフェザー級のボクサーをしながら
床屋も経営していたことから「戦う床屋」と呼ばれており、
幼いマシューズは土曜の朝に父親の床屋の床掃きを手伝うとわずかなお金を貰い、そのお金で後にマシューズが所属するストーク・シティのライバル、ポート・ヴェイルの試合に足を運ぶのを日課としていた。
14歳の時、週給1ポンドでストーク・シティのグラウンドスタッフとして働き始めたのをきっかけに、15歳で選手としてストーク・シティへ加入。
17歳の誕生日にプロ契約を結ぶと同年3月19日にはトップデビューを飾る。
デビュー後マシューズはそのドリブルの才能をいかんなく発揮し、ストーク・シティでレギュラーを確保すると1934年9月29日にはウェールズ戦で代表デビューも果たした。

マシューズがトップデビューを果たしてから7年後の1939年、第2次世界大戦の影響によりイングランドのプロリーグ中止が決定する。
これによりマシューズはキャリアの全盛期といえる24歳から31歳までの間、非公式の試合への出場を余儀なくされた。
戦時中は24試合に出場、代表戦でも4勝を記録した。

7年ぶりにリーグ戦が再開された46/47シーズンの翌年、ストーク・シティのファンの間に激震が走った。
なんとクラブが既にストーク・シティのシンボルとなっていたマシューズをブラックプールに1万1500ポンドで譲ってしまったのだ。
マシューズはすぐにこの値段が破格である事を証明してみせる。
ブラックプールはその後6シーズンでそれまで一度も成し遂げられなかったFAカップの決勝進出をなんと3度も果たすことになる。
最初2回は敗れてしまうが3度目の挑戦でクラブ初となるタイトルを獲得。
FAカップ初制覇となった1953年5月3日のボルトンとの決勝戦は
FAカップ史上最も素晴らしい試合の1つとして歴史に刻まれている。
この試合、ブラックプールは後半55分の段階で3ー1とリードされていた。
しかしロスタイム直前の89分、ブラックプールFWスタン・モルテンセンが
ハットトリックとなる3点目を決め同点に追いつくと、迎えたロスタイムの92分、右サイドを駆け上がったマシューズからのクロスをペリーが決めブラックプールは4ー3で劇的な逆転勝利を飾った。この試合で終始素晴らしいパフォーマンスを見せたマシューズの活躍に人々は敬意を表し、この試合を『The Matthews Final』と称して今でも語り継いでいる。
このときマシューズは38歳。ブラックプールでは1948年(33歳)に英国年間最優秀選手賞の初代受賞者になると、1956年(41歳)にはバロンドール初代受賞者に、そして翌年1957年にはOBE(大英帝国勲章)を受賞している。

14シーズンをブラックプールで過ごした1961年10月、マシューズが3500ポンドで再びストーク・シティに戻ることが決定した。
当時ストーク・シティはマシューズがいた14年前の活気は無くクラブは3部落ち目前の19位。
ところがマシューズの帰還が決定するとその活気は再び戻ることとなる。
彼が戻る直前のある試合の観客動員数は8409人。
しかしマシューズが戻ってきてからわずか2週間後には観客動員数は35288人を記録していたのである。
クラブもそのシーズンを最終的に8位で終えると1年後にはリーグ優勝を決め1部昇格を決めたのだった。
この年、マシューズは48歳にもかかわらず42試合中35試合に出場と驚くべき記録を残し、同年1963年に2度目となる英国年間最優秀選手賞を受賞。
そして1965年1月には英国女王エリザベス2世により、サッカー選手として、そして現役選手として初のナイトの称号を授かっている。

彼のキャリアの最終戦は1965年2月6日のフルハム戦。
この試合でマシューズは50歳と5日というトップリーグ最年長選手の出場記録を樹立し現役から退いた。
リーグ通算出場記録710試合ストーク・シティ通算記録(カップ戦含む)355試合62得点代表通算記録54試合11得点、イングランド代表歴代最年長勝利記録 ・・・42歳と103日

引退後はポート・ヴェイル、ハイバーニアンの監督を歴任すると共に
アフリカ、マルタ、カナダ等世界中でサッカーの指導に従事。
1989年にはストーク・シティの会長に就任している。
最後の最後までサッカーと共に生きたマシューズは2000年2月23日、85歳でこの世を去った。

マシューズの選手としての経歴は決して栄光に溢れていたわけではない。
しかしマシューズほど多くの人々に愛され、これほど評価され、
そしてマシューズほどサッカーに生涯を捧げた選手もいないだろう。
「サー・スタンリー・マシューズ」 サッカーの母国、イングランドで生まれた彼こそまさに真の伝説のプレイヤーと言えるかもしれない。

1956年に始まったバロンドールの初受賞者。そもそも同賞自体がマシューズに受賞させるために始まったと言われており、彼がバロンドールを獲得したのは41歳の時だった。1930年にキャリアをスタートし、1965年に50歳の高齢で引退するまで一度のファールも犯さなかった。サッカー史上最高のジェントルマンといえる。
皆はマシューズを褒め称えたが、マシューズが一番嫌ったのは甘い言葉と過度の賞賛だった。それを示すように、こんなマシューズの名言が残っている。
「誰かが私を誉めだすと逃げ出したくなる。チームには私の他に10人もの選手がおり、彼らなしにプレーすることは不可能なんだから」
1965年に現役を引退。その僅か3週間後にエリザベス女王からサーの称号を授与される。それはさながら戴冠式。その時、エリザベス女王はこう言ったという。「Mr.スタン、あなたは伝説ですね」
誰もがマシューズに憧れ、マシューズを愛した。彼女もまた、マシューズを愛していた。
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