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アンチェロッティ(僕)の日記

現在リーグ2位にいる我がミラン。
首位ユベントスが引き分けたため、今日の試合に勝てば首位に立つ。
対ウディネーゼ戦
今日の布陣は4-4-2
GKヂダ
DFマルディーニ、ネスタ、バレージ、ベルゴミ
MFボランチにピルロ、左にサビチェビッチ、右にプラティニ、トップ下にカカ
FWロベルト・バッジョ、ファンバステン

前半は終始押し気味に我がミランが攻め続けるも、なかなかゴールを割ることができない。焦って単調な攻撃ばかりを繰り返していた前半終了間際、ウディネーゼのカウンターが...
あっさりと先制を許してしまった。

後半サイドを広く使う作戦に変更。マルディーニ、ベルゴミにボールを預け、カカやプラティニらが中に切り込む動きを見せる。
後半20分一瞬開いた中央のスペースにサビチェビッチがボールを入れる。そこに走りこむのはピルロ。一か八かのロングシュートが見事にネットを揺らす。同点。
ここから波に乗る我がミラン攻撃陣。
後半31分にロベルト・バッジョの今期6ゴール目が決まりこれが決勝点に。
勝ち点1差でユベントスを抜き首位浮上であります。
ちなみにこの試合でサビチェビッチが7.5と高評価を頂きました。
昨シーズンチャンピオンズリーグ、カップ戦、の二冠を達成している我がミランは、今シーズン3冠へ向け邁進しております。

Zvonimir Boban ズボニミール・ボバン

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フルネーム ズボニミール・ボバン
Zvonimir Boban
ニックネーム ゾロ・ズボーネ
国籍 ユーゴスラビア,クロアチア
生年月日 1968/10/8
出身地 イモツキ
ポジション MF(OH)
身長 183cm
体重 79kg
代表デビュー 1990/12/22(通算51試合,12得点)

所属クラブ
1985-91 ディナモ・ザグレブ
1991-92 バリ(イタリア)
1992-01 ミラン(イタリア)
2001 セルタ(スペイン)
主なタイトル
1993/94 UEFAチャンピオンズカップ優勝

世界レベルの技術と共に最高のキャプテンシーを持つクロアチアの英雄。
研ぎ澄まされたパスセンス、的確な状況判断、献身的なディフェンス、
何をさせても常に世界最高と称するに値するプレーを披露するファンタジスタ。90年代クロアチア代表の象徴的存在であり偉大なキャプテンでもあった。
1985年にディナモ・ザグレブでキャリアをスタートさせその能力は年を追う事に開花し、18才の時にはキャプテンを任されるまでに成長する。
しかし、1990年に事件が起こる。
1990年5月13日、クロアチアとセルビアの代理戦争とも言えるディナモ・ザグレブvsレッドスター・ベオグラードの一戦は異様な雰囲気に包まれていた。案の定、両チームのサポーターは激突する。だが止めに入った警官隊のほとんどはセルビア人だった。ザグレブ・サポーターだけを抑圧した警官隊を見たボバンは、試合を忘れフェンスを飛び越えると警官隊に猛然と立ち向かう。その代償は9ヶ月の出場停止処分。それに伴いあと1ヶ月に迫ったワールドカップ出場(ユーゴ代表として)も絶望となる。イタリア・ワールドカップの出場権も失ってしまった。だが彼はこのことを全く後悔していないと言う。
それはボバンがクロアチアの英雄となった始まりである。
1991年、戦争で揺れる母国を後にしイタリアに渡る。するとミランでは栄光の時が待っていた。ロッソネロのユニフォームを身に纏ったボバンは、UEFAチャンピオンズカップ優勝と4度のスクデット制覇をミランにもたらした。
ボールを持ってドリブルを始めるフォームのエレガントな自然さは、誰に対 しても一目で強い印象を残す。ロングパスも蹴れれば、狭いゾーンをドリ ブル突破することもできる。チームメイトに送るアシストも、自らゴールに向 かうアクションも、常にクリーンでよどみがない。突然予想もできない方向 に向きを変えるその鋭いターンは、サッカーの技術マニュアルに載せるべき スムーズさだ。

クロアチア代表チームにおいても、その愛国心は精神的支柱ともなり、そして選手として最も成熟した状態で望んだ1998年のフランス・ワールドカップ。2勝1敗でグループリーグを勝ち抜くと、1回戦でルーマニア、準々決勝でドイツを破る大躍進を見せる。準決勝でフランスに敗れるものの、3位決定戦ではオランダを下しワールドカップ初出場で3位入賞という快挙をやってのける。この快挙はボバン無しでは考えられなかった事は言うまでも無い。
国の威信を賭けて戦った1998年ワールドカップでは初出場3位という好成績を記録する。
2001年、ボバンはユニフォームを脱ぐ事を決意する。彼は現役時代にこう言ったという。「私は100人の政治家に出来ない事が出来る。」
100人どころではない。彼はバルカン半島の全ての政治家が集まっても出来なかった事、戦争で疲弊したクロアチア人に再び誇りを抱かせる事に成功したのだ。

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ウイニングイレブンで...

皆さんご存知のPS2ウイニングイレブン9
マスターリーグの我がACミランが、まさにドリームチーム化してしまい、誰を使って良いものかアンチェロッティ(僕)は嬉しい悩みを抱えている。
それでは僕の夢のようなメンバーをご紹介しよう。
GKヂダ、ブッフォン、シーマン
DFネスタ、スタム、カフー、マルディーニ、バレージ、ジョン・テリー、
A・コール、ベッケンバウアー、カンナバーロ、ベルゴミ
MFカカ、ピルロ、ガットゥーゾ、ルイ・コスタ、サビチェビッチ、クライフ、ロベルト・バッジョ、プラティニ、ジーコ、ミカエル・ラウドルップ、ロナウジーニョ、グーリット、セードルフ、ジェラード
FWシェフチェンコ、F・インザーギ、ジラルディーノ、アンリ、オーウェン、ファンバステン

ターンオーバー制で選手起用してはいるのだが、これがまた悩んでしまう。面白いからいいけど...

今日はリーグ戦8節 対レッジーナ戦
前半29分にジーコからのスルーパスにアンリが鋭く飛び出し、左足で流し込み先制。
しかし、同37分に友人と電話しながらのプレーで集中力をかいたネスタが1対1の場面で抜かれ、同点に追いつかれてしまう。
このまま引き分けかと思われた試合は、後半12分1人の男の登場で大きく動き出す。精彩を欠くジラルディーノに代わり、F・インザーギをアンチェロッティ(僕)はピッチへ送り出す。
そのわずか6分後にサビチェビッチのクロスにダイビングヘッド!!
思わずジョン・カビラ氏も絶叫する。
「なんでいつもそこにいるんだ―――――」
まさにゴール前の稲妻。
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さらに後半33分にミカエル・ラウドルップとのワンツーから抜け出したアンリのシュートをGKがかろうじて弾く、そのこぼれ球に素早く詰めるのは、
「なんでいつもそこにいるんだ――――――――――」
フィリッポ・インザ―――――ギ
途中出場ながら2ゴールの大活躍。
ガゼッタ・デ・ロ・スポルトの採点は8点の高評価。
マンオブザマッチにも選ばれる大活躍。
こうして我らがミランはインテルを抜き2位に浮上、さらに首位ユベントスとの差もわずか2と首位奪還へ向け風向きは上々であります。



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Dejan Savicevic デヤン・サビチェビッチ

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フルネーム デヤン・サビチェビッチ
Dejan Savicevic
ニックネーム デーヨ,ジュニオ(天才)
国籍 ユーゴスラビア
生年月日 1966/9/15
出身地 ポトゴリツァ
ポジション MF(OH),FW(ST)
身長 181cm
体重 77kg
代表デビュー 1986/10/29(通算56試合,20得点)
所属クラブ
1981-83 OFKチトーグラード
1983-88 FKブドチノスト
1988-92 レッドスター・ベオグラード
1992-98 ミラン(イタリア)
1998-99 レッドスター
1999-01 ラピッド・ウィーン(オーストリア)
主なタイトル
1990/91 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1991年 インターコンチネンタルカップ優勝
1993/94 UEFAチャンピオンズカップ優勝

90年代、世界最高峰といわれたいた当時のセリエAで『ジュニオ』、すなわち天才。
こんな最高級のニックネームを頂戴したのが、サビチェビッチである 
調子に波はあるものの、ベストフォームのときには、懐の深い変化に富んだドリブル、相手の意表を突くパス、強烈なシュートなど、素晴らしいプレーを見せる。
ファンタジスタであると同時に、政治的背景によって全盛期にワールド杯の舞台に上がる事のなかった悲運の主人公でもある。
シュート力、パスセンスはもちろん、そのドリブル突破力は素晴らしく
いくつもの伝説を築き上げた。
レッドスター在籍時リーグ3連覇に貢献、さらにユーゴスラビアの
クラブとしては初のチャンピオンズ・リーグをも制する。
ミランに移籍した92/93シーズンからも絶大な存在感を示し92/93、93/94、95/96シーズンのスクデット獲得はサビチェビッチなくしては成し得なかったであろうと思われる。
ファンバステンら”オランダ・トリオ”を失った後、劣勢が予想された
バルセロナとの93/94チャンピオンズ・カップ決勝では、縦横無尽の働きで相手ディフェンスを翻弄、全ゴールに絡む4-0の完勝の立役者となった。バルセロナの中盤は彼のドリブルによって混乱に陥り、堅い筈の守備は彼のパスとシュートによって脆くも崩れ去った。ジュニオの本領が遺憾なく発揮された試合だった。
ユーゴスラビア代表では1992年欧州選手権、ユーゴスラビアは優勝候補筆頭に上げられるほどのタレント軍団で挑むはずであったが政治的制裁により出場権を剥奪、以後1998年ワールド杯予選大会の制裁解除まで世界の舞台に立つ事はなかった。
90年イタリア、98年フランス大会に出場するも、キャリアの全盛を極めていた時に、祖国はユーゴ紛争の制裁措置により、「国際試合禁止」となり、晴れの国際舞台で活躍することはできなかった。
もし、サビチェビッチが選手としてのピークである1994年ワールド杯に出場していたならば、あのマラドーナやファン・バステン等と同等の伝説を生んでくれたはずであったと思うと本当に残念でならない。






 

Manuel Rui Costa マヌエル・ルイ・コスタ

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フルネーム ルイ・マヌエル・セザール・コスタ
Rui Manuel Cesar Costa
ニックネーム マヌ
国籍 ポルトガル
生年月日 1972/3/29
出身地 リスボン
ポジション MF(OH)
身長 180cm
体重 74kg
代表デビュー 1993/3/31

所属クラブ
1990-91 フェフェ
1991-94 ベンフィカ
1994-01 フィオレンティーナ(イタリア)
2001- ミラン(イタリア)

主なタイトル
2002/03 UEFAチャンピオンズリーグ優勝

攻撃に関するあらゆるアイデアを持ち、それを実践できる天才プレーヤー。状況判断に優れ、ドリブル技術は世界有数、パスに至っては世界一との声も高い。
ポルトガルの2部リーグでプロとして活躍していた父の影響でボールを蹴り始める。その才能は早くから高く評価され、ポルトガルの英雄エウゼビオも舌を巻いたほど。1990年に3部リーグのファフェで本格的なキャリアをスタート。翌年には同国1部リーグのベンフィカに移籍し、すぐさまレギュラーに定着する。ベンフィカで3シーズンを過ごした後、フィオレンティーナに移籍。1シーズン目からすぐさま活躍し、既にフィオレンティーナに在籍していたガブリエル・バティストゥータとのコンビはセリエAでも最高のホットラインだった。1995/96シーズンには20年余りタイトルから遠ざかっていたチームにコパ・イタリア杯をもたらし、2000/01シーズンにも再び同杯を獲得している。
だが念願のスクデット制覇はならず、バティストゥータもローマに移籍した。更にチームの財政難もあって、いかに義理堅いルイ・コスタといえども移籍せざるを得なくなり、2001年にミランに新天地を求めた。ミランではまだ完全にフィットしているとは言えないが、同僚のアンドリュー・シェフチェンコに「世界最高のプレーヤー」と言わしめた能力は間違いなく世界最高峰のものであり、それに対してタイトルの獲得が余りにも少ないのは不運と言う他無い。
代表引退を明言して望んだEURO2004では、ワールドユースを連覇したフィーゴ、フェルナド・コウト等と共に、黄金世代を中心に臨んだ。緒戦でギリシャに1-2で敗れる波乱があったものの、続くロシア、スペインを撃破し、グループリーグを突破。波に乗るポルトガルはイングランド戦、スタメンにはルイ・コスタの名はなかった。前半早々にマイケル・オーウェンのゴールで先制を許してしまう。追う展開のポルトガルだがなかなか追いつくことができない。ルイ・コスタが登場したのは後半79分だった。後半83分にフィーゴに代えて投入したポスティガのゴールで追いつく。延長後半20分ルイ・コスタの素晴らしシュートがゴールを捕らえる。
逆転。雌雄決したかに思えたこの試合はその5分後更なるドラマを生み出す。イングランドMFフランク・ランパードの奇跡のような同点ゴールが決まる。
PK戦までもつれ込んだ熱戦はポルトガルが制した。
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準決勝オランダ戦はルイ・コスタはベンチを暖めたものの、ポルトガルは見事に決勝への駒を進めた。
決勝の相手は、緒戦でつまずいた相手、伏兵ギリシャ。
リスボン ルススタジアム 63000の大観衆が見守る中行われた決勝の大舞台。
しかし、結果はカリステアスの一撃によりポルトガルは涙を飲んだ。
若きエース、C・ロナウドは流れる涙を止めることはできなかった。
フィーゴは何度も首を横にふるばかり。ルイ・コスタはただ天を見つめるだけだった。こうしてルイ・コスタのポルトガル代表としてのキャリアは終わった。しかし彼のミランでの挑戦はこれからも続く。
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僕らのスーパースター

最近友人達と性懲りもなく誰が世界最高のフットボーラーかという事で議論になる。
S氏は毎度のことで、クライフ(彼のオランダびいきはすごいものがある。彼が審判だったら02年Wカップのスペイン対韓国みたいな試合が毎回繰り返されますね...)
Y氏はガスコイン M氏はマラドーナ T氏はジダン
そして僕はバッジョ毎回お決まりのパターンなのにいつも同じことを聞くS氏。
結局はそれぞれ好きな選手が一番だよ。ということで終わるのだが...
この議論はこの先何回続くのやら。

ミランについて

今日のニュースでもお伝えしましたけど、ミランのスクデットはもはやありません。さらにはコッパ・イタリアも敗退。
僕としてはチャンピオンズリーグ制覇。これしかないですね。
去年の決勝戦。思い出すだけでも胸が痛い...
今年こそは是非マルディーニにビッグイヤーを掲げてもらいたい。
切なる願いです。
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またこの光景が見たいものです。

ラツィオとミランがスコアレスドロー=セリエA

 オリンピコで行われたセリエA第23節のラツィオ対ミラン戦は0-0の引き分けに終わった。試合は後半に特にヒートアップしたが、前半は盛り上がりに欠ける内容だった。

 まず7分には、相手一人をかわしたシェフチェンコのシュートをクリバリが弾いてコーナーキックに逃れる。35分にもミランのチャンス。ジラルディーノのパスを受けたカカが絶好のポジションから狙ったが、ザウリが立ちふさがって決定的なピンチを防いだ。その4分後には左サイドからスピードに乗って中央に切れ込んだシェフチェンコがシュート。威力はあったが正面に飛んでしまい、GKペルッツィのセーブに阻まれた。

 後半は動きが激しくなる。まずはラツィオのムディンガイがミドルシュートを放ったが、GKジーダが落ち着いてセーブ。65分にはペナルティーエリア近くでシェフチェンコからパスを受けたカカの低いシュートをペルッツィが弾き出した。

 70分にもミラン。スタムの右からのクロスにシェフチェンコが頭で合わせたが、ペルッツィに触られたボールはクロスバーをたたいた。その1分後にもシェフチェンコのシュートをペルッツィがセーブ。

 74分にはザウリのシュートをネスタが阻んだ。終了間際にはマウリが決定的なチャンスを迎えたが、エリア内から右足で撃ったシュートは枠を捉えられなかった。
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Franco Baresi フランコ・バレージ

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フルネーム フランチェスキーノ・バレージ
Franceschino Baresi
ニックネーム フランコ,フランキーノ,ピッシニーン
国籍 イタリア
生年月日 1960/5/8
出身地 トラバリアート(ブレシア)
ポジション DF(CB)
身長 176cm
体重 70kg
代表デビュー 1982/12/4vsROM(通算81試合,1得点)
獲得タイトル
イタリア代表
1982 ワールドカップ優勝
ミラン
1978/79 イタリアリーグ優勝
1987/88 イタリアリーグ優勝
1988 イタリアスーパーカップ優勝
1988/89 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1989 UEFAスーパーカップ優勝
1989 インターコンチネンタルカップ優勝
1989/90 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1990 UEFAスーパーカップ優勝
1990 インターコンチネンタルカップ優勝
1991 イタリアスーパーカップ優勝
1991/92 イタリアリーグ優勝
1992 イタリアスーパーカップ優勝
1992/93 イタリアリーグ優勝
1993 イタリアスーパーカップ優勝
1993/94 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1993/94 イタリアリーグ優勝
1994 UEFAスーパーカップ優勝
1995/96 イタリアリーグ優勝
コメント
80年代から90年代のミランのシンボルにして、ミラン史上最高のリベロ。蒼々たるメンバーが揃ったミラン黄金期において、ピッチ内外を問わず絶大な存在感でチームを牽引、冷静に指示を出し完璧にバックラインを統率すれば次の瞬間には自ら激しいタックルでボールを奪いに行く。バレージによってもたらされた鉄壁のディフェンスによってミランは黄金期を迎えたのである。
ミラニスタにとってバレージは永久に不可侵であり、余りにも神聖な存在だ。彼は最高のリーダーであり、最高のミラニスタだった。ミランが2部に降格したときも、自身が病に倒れたときも、チームが黄金期を迎えたときも、彼はいつも変わらずそこにいた。
バレージとミランの物語は1974年まで時を遡る。彼はミランの入団テストを受ける前に2つのクラブチームのテストに落ちている。アタランタのテストを受けた際は背が低い事を理由に断られ、フランコの兄ジュゼッペが所属していたインテルのテストでも、同じ理由で断られた。そんな彼に手を差し伸べたのがミランだった。
ミランのプリマベーラに迎え入れられ、いよいよキャリアをスタートしたバレージだったが、突然の不幸が彼を襲う。最愛の父が交通事故によってこの世を去ってしまったのだ。幼くして母を亡くしていたバレージは、14歳にして両親を失い、深い悲しみに打ちひしがれていた。しかし彼は立ち上がった。現役生活を通じて決して折れる事のなかった鉄の精神は、この時期には既にバレージの内に存在していたのである。余談となるが、若くして両親を失った影響か、バレージの家族に対する思いは人一倍強く、20歳にして早くも結婚。そして後にエドアルドと名付けられた男の子を設け、ジャナンドレアという名の養子も迎え入れている。
1978年、当時ミランの監督を務めていたニルス・リードホルムによってトップチームに引き上げられ、同年4月23日のエラス・ベローナ戦でセリエAデビューを飾る。そして1978/79シーズンには早くもリーグ優勝を経験。願ってもない順調なスタートを切る。主力選手としてジャンニ・リヴェラの引退に華を添えた。
だがまたしても不幸が彼を襲う。チームの旗頭、リヴェラを失ったクラブは新しいバンディエーラにバレージを指名、彼はこの時からミランのシンボルとしてプレーをすることとなるがミランのシンボルとして改めてスタートを切った彼にいきなり災難が降りかかる。
79/80シーズンのラツィオ戦にてかけられた八百長疑惑によりチームはB降格、歴史に残る大事件に巻き込まれたのであった。
翌年すぐ昇格するも2年後にはチームの不調により再び降格。
彼のミランにおけるキャリアは苦しいスタートとなった。
すぐさまチームを1部へと押し上げたが、1981/82シーズンはカンピオナートで14位に終わり再び2部落ちを経験。またバレージ自身もウイルス性疾患を患い、車椅子での生活を数ヶ月に及び強いられた。彼にとって暗黒の時代だった。その間にも魅力的なオファーが次々とバレージの元へと届く。ミラニスタでさえ、バレージがミランの元を離れるのは仕方のない事だと思っていた。しかし彼は頑としてミランと運命を共にする事を選んだ。そして、その選択は最善の選択だった。
1987年に野心溢れる実業家シルビオ・ベルルスコーニがミランの会長に就任。チームの財政は一気に潤いオランダから2人のストライカーを獲得する。時を同じくして監督の座に当時無名だった後の鬼才、アリーゴ・サッキが就任した。バレージはサッキの掲げたゾーンプレスをピッチで見事に体現し、チームメートを鼓舞。バレージに導かれるように、マルコ・ファン・バステン、ルート・フリット、パオロ・マルディーニらも素晴らしいプレーを次々と披露した。そして1987/88シーズン、遂にミランはスクデットを獲得。翌シーズンにはUEFAチャンピオンズカップでも優勝を果たすまでに上り詰め、ようやく暗黒の時代は終焉を迎え黄金期が到来した。世界最強を誇ったミランには蒼々たるメンバーが歴史に名を残したがバレージこそが最大の功労者であったのは言うまでもない。

その間、バレージはアズーリの一員としても存在感を発揮し始める。1982年のワールドカップでは出場機会こそ無かったものの優勝を経験。1986年より不動のリベロ、キャプテンとしてチームを支える。しかし最も人々の印象に残っているのは1994年ワールドカップでのバレージの姿だろう。大会中に膝を負傷しこのまま大会を去るかと思われたバレージだったが、驚異的な回復を見せ決勝のブラジル戦で復帰。病み上がりということもあり周囲に大きな不安を与えたが、いざ試合が始まるとバレージは誰よりも素晴らしいパフォーマンスを披露した。PK戦での失敗は誰にも責める権利など無かった。
1997年6月23日、自身の衰えを察知したバレージは引退を発表。誰もがバレージの功績に対し惜しみない賛辞を贈った。彼がミランでの現役生活を通じて背負った背番号6は、今は誰も着けておらず、着ける事は許されていない。なぜならミランの6番は永久欠番となり、今ではミランの副会長として、相変わらずロッソネロの一員として戦い続けているのだから。20年間に渡りミランのバックラインの心臓として君臨したバレージ。リヴェラの引退、B降格、チャンピオンズカップ2連覇、90年代初頭の黄金期。良くも悪くもミランのあらゆる歴史に関わった彼はまさにミランの歴史そのものなのである。彼とミランの歴史に敬意を表し、背番号6が永久欠番となっているのも容易に理解出来る所である。


バレージの言葉
苦しくなった時いつも私のそばにミランがいた

「将来、ミランの選手になろうがなるまいがそんなことは関係ない。
ミランのユースで育った者には、どこへ行っても人として、選手として優秀であってほしいんだ。」
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Paolo Maldini パオロ・マルディーニ

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フルネーム パオロ・マルディーニ
Paolo Maldini
ニックネーム パオリーノ
国籍 イタリア
生年月日   1968/6/26
出身地    ミラノ
ポジション  DF(LSB,CB)
身長     186cm
体重     85kg
代表デビュー 1988/3/31vsYUG(通算126試合,7得点)

主なタイトル
1988/89   UEFAチャンピオンズカップ優勝
1989    インターコンチネンタルカップ優勝
1989/90   UEFAチャンピオンズカップ優勝
1990    インターコンチネンタルカップ優勝
1993/94   UEFAチャンピオンズカップ優勝
2002/03   UEFAチャンピオンズカップ優勝
1994    世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌)

 1980年代から90年代に掛けてのミランの栄光の歴史、それはマルディーニの栄光の軌跡と見事に一致する。ダイナミックな攻め上がり、1対1での圧倒的な強さ、状況判断の良さ、世界最高とも言われる戦術理解能力で10年近く世界最高のLSBの座を守り続けた。DF能力は言うまでもなく絶妙なタイミングでのオーバーラップは世界屈指、統率力にも優れ、クラブレベルでもミラン一筋に活躍するスタープレーヤー。


1968年6月26日、偉大なる父、チェザーレ・マルディーニの息子としてミラノの街で生を受け、1984年、生まれた時から運命付けられていたかのようにミランでプロデビューを果たす。19歳で代表初キャップ、20歳でスクデット獲得、更にはUEFAチャンピオンズカップ、トヨタカップまで制覇し、20代前半にして殆どのタイトルを取り尽くす。
イタリア代表として同国史上最多となる126ものキャップ数を記録し、UEFA.C.L.を4度、セリエAを7度制覇。2006年9月25日に行われたセリエA第5節トレビゾ戦でディノ・ゾフの持つセリエA最多出場記録を更新。マルディーニ家はトロフィーとメダルに溢れ、彼の偉業を上げれば枚挙に暇がない。その一方で苦渋も味わってきた。1994年ワールドカップ、2000年欧州選手権は共に決勝にて敗退。代表引退を明言して臨んだ2002年ワールドカップでは受け入れがたい結果に終わり、代表レベルではタイトルを獲得できず。2004/05シーズン、UEFA.C.L.決勝のリバプール戦では自ら得点を記録するも、3点のリードを追いつかれPK戦にて優勝を逃した。
PK戦の末敗れたのは残念であったが、年齢を感じさせない積極的な攻撃参加でファンを魅了、そのパフォーマンスに疑問を持つ者などいないだろう。
05/06シーズン9月25日トレビソ戦ではゾフの持つ570試合
セリエA最多出場記録を塗り替える571試合出場を達成、現役引退後は長きに渡り背負った背番号「3」の永久欠番も決定している。
90年、94年、98年、02年と4大会連続でワールド杯出場を果たし活躍、2000年10月7日に行われたルーマニア戦にて代表キャップ113の新記録を樹立する。
自身4度目となる2002年ワールド杯、ベスト16にて敗れたために
マテウス(ドイツ)の持つ最多出場試合数25を塗り替える事は出来なかったが最多出場時間の記録(2048分)は塗り替える事に成功した。その後代表を引退、通算126試合7得点と偉大なる記録を残した。

パオロ・マルディーニはイタリア・カルチョ史の生きる伝説だ。一時期は衰えを指摘されスピード不足を露呈したが、プレースタイルを変え再び世界トップレベルのDFとして復活した。2005/06シーズン第6節のレッジーナ戦では37歳にして自身初となる1試合2得点を記録。技術的にも、精神的にも未だにミランを牽引し続ける。ミランとの契約は2007年6月末までとなっており、2006/07シーズン一杯での現役引退を明言しているが、彼がピッチを去る姿は余りにも想像し難い。20年以上に渡る現役生活の中で彼はどれ程のものをフットボール界に与え、現役を去る際、フットボール界はどれ程の損失を被るのだろうか。
少年時代は偉大な父親の名前だけでプレーしていると思われるのが嫌で、それに伴った技術を磨くため、異常な程の厳しい練習をこなしていたと言う。そして、その血はパオロの息子、クリスティアンが引き継いで行くのであろう。


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Roberto Baggio ロベルト・バッジョ

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Roberto Baggio



サッカー選手

1967年2月18日生(18時15分)

174cm73kg

イタリア・ベネト州カルドーニョ・マルコニー通り3番地生まれ

好きな色:緑

好きな動物:アヒル

好きな食べ物:ポモドーロのパスタ、ピザ

好きな国:アルゼンチン、日本、カリフォルニア

好きな街:カルドーニョ、フィレンツェ、ボローニャ、ブレッシア

好きなクラブ:インテル

趣味:狩猟、音楽鑑賞

憧れの選手:ジーコ(ブラジル)



愛称
“ロビー”、“ラファエロ”“ディヴィン・コディーノ(聖なるポニーテール)”

比類なき創造力から“モーツァルト”と称されることもある

1990年W杯では“イタリアの新星”と呼ばれその後“イタリアの至宝”と呼ばれる

“ファンタジスタ”という言葉が最も似合うプレーヤーとしても有名



ファン
イタリア国内、国外に数多くのファンを持ち

熱狂的なファンを“バッジスタ”、“バッジーナ”等と呼ぶ



主な出来事
1983年 6月 5日、ヴィチェンツァ(セリエC1)でプロデビュー

1985年 5月 3日、セリエA・フィオレンティーナ移籍

1986年 9月21日、フィオレンティーナでセリエAデビュー

1987年 5月10日、ナポリ戦でセリエA初ゴール。ナポリにはディエゴ・マラドーナ

1988年11月26日、イタリア代表デビュー

1989年 7月 1日、アンドレイナ夫人と結婚

1990年 5月18日、セリエA・ユベントス移籍

1990年12月 2日、長女ヴァレンティーナ誕生

1993年10月31日、ジェノア戦でトリプレッタでセリエA通算100ゴール達成

1993年12月24日、欧州最優秀選手賞(バロンドール)受賞

1994年 5月12日、長男マッティア誕生

1995年 7月 5日、セリエA・ACミラン移籍

1997年 7月18日、セリエA・ボローニャ移籍

1998年 6月 5日、セリエA・インテル移籍

2000年 9月14日、セリエA・ブレシア移籍

2004年 3月14日、パルマ戦でセリエA史上5人目となる通算200得点を達成

2004年 4月28日、スペイン戦(親善試合) バッジョのアズーリ引退試合となる

2004年 5月16日、サン・シーロでのACミラン戦を最後に現役を退く



個人成績
【シーズン成績】

シーズン チーム リーグ 試合 ゴール
1982-83 VICENZA SerieC1 1 0
1983-84 VICENZA SerieC1 6 1
1984-85 VICENZA SerieC1 29 12
1985-86 FIORENTINA SerieA 0 0
1986-87 FIORENTINA SerieA 5 1
1987-88 FIORENTINA SerieA 27 6
1988-89 FIORENTINA SerieA 30 15
1989-90 FIORENTINA SerieA 32 17
1990-91 JUVENTUS SerieA 33 14
1992-92 JUVENTUS SerieA 32 18
1992-93 JUVENTUS SerieA 27 21
1993-94 JUVENTUS SerieA 32 17
1994-95 JUVENTUS SerieA 17 8
1995-96 A.C MILAN SerieA 28 7
1996-97 A.C MILAN SerieA 23 5
1997-98 BOLOGNA SerieA 30 22
1998-99 INTER MILAN SerieA 23 5
1999-00 INTER MILAN SerieA 18 4
2000-01 BRESCIA SerieA 25 10
2001-02 BRESCIA SerieA 12 11
2002-03 BRESCIA SerieA 32 12
2003-04 BRESCIA SerieA 26 12


【所属クラブ別個人成績】

シーズン チーム リーグ 試合 ゴール
1982-85 VICENZA SerieC1 36 13
1985-90 FIORENTINA SerieA 94 39
1990-95 JUVENTUS SerieA 141 78
1995-97 A.C MILAN SerieA 51 12
1997-98 BOLOGNA SerieA 30 22
1998-00 INTER MILAN SerieA 41 9
2000-04 BRESCIA SerieA 95 45


【プロ成績】

シーズン 所属 試合 ゴール
1982-85 SerieC1 36 13
1985-04 SerieA 452 205
1982-04 プロ通算 488 218


【所属クラブ獲得タイトル】

1992-93 ユベントス UEFAカップ優勝

1994-95 ユベントス セリエA優勝

1994-95 ユベントス コパ・イタリア優勝

1995-96 ACミラン  セリエA優勝



【個人獲得タイトル】

1993年 バロンドール=欧州最優秀選手(フランスフットボール)

1993年 FIFA世界最優秀選手

1993年 世界最優秀選手(ワールドサッカー)



イタリア代表成績
【代表個人成績】

イタリア代表通算 56試合 27ゴール(歴代4位)



【ワールドカップ成績】

1990年イタリアW杯 3位

1994年アメリカW杯 準優勝

1998年フランスW杯 ベスト8



【W杯個人成績】

1990年イタリアW杯(No.15) 5試合2ゴール

1994年アメリカW杯(No.10) 7試合5ゴール

1998年フランスW杯(No.18) 4試合2ゴール



言葉
「PKを外すことのできるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」

「PKは決める事より、蹴る勇気の方が尊いんだ」

「思いついたプレーのなかで、 いつも一番難しいものを選択することにしている」

「忘れないで欲しい。君たちの足下には永遠にサッカーボールがあることを」

「サッカーが出来るなら寿命が縮んでもかまわない」

「僕が知っているドーピングはただひとつ、『努力』だけです」

「今を戦えない者に次とか来年とかを言う資格はない」

「“新しいバッジョ”になんて興味はない。それよりも僕を超える選手に出てきてほしい」

「大事なのは、自分の仕事に対して情熱を見せること。仕事の内容によって、情熱、真剣さに相違があってはならない」



エピソード
怪我
1986-87シーズン、フィオレンティーナでセリエAデビューした時

すでにバッジョの右膝には220針もの手術の後があった

(1985年5月5日、リミニ戦での負傷。相手監督はアリゴ・サッキ)



初ゴール
1987年 5月10日、ナポリ戦

ディエゴ・マラドーナ率いるナポリは勝てばスクデッド、フィオレンティーナは降格争い真っ只中

1点を追う展開で得たFKを監督ベルセッリーニがNo.10・アントニオーニではなくバッジョをキッカーに指名

これを決めてセリエA初ゴールと共にフィオレンティーナを降格から救う勝点1を得た

(ちなみに2位インテルの試合結果によりナポリはこの節でスクデッド獲得)



美談
1990年 7月 7日、W杯3位決定戦イングランド戦

得点王がかかっていたサルバトーレ・スキラッチにPKを譲り、得点王獲得



ベストゴール
1990年 6月19日、チェコ・スロバキア戦

左サイドから3人抜きドリブルシュートでW杯デビュー・初ゴール

このゴールが1990年イタリアW杯ベストゴールに選ばれる



アズーリ神話
ロベルト・バッジョのイタリア代表ゴールは22試合27ゴール

その試合の成績は18勝4分で“バッジョが点を決めれば負けない”神話が生まれた



11年ぶり
1993年12月24日、バロンドール受賞

イタリア人として11年ぶりの受賞で、以後イタリア人に受賞者は出ていない



評価点“10”
2000年5月23日、パルマ戦(CL出場権プレーオフ)

前半35分にFKで先制、同点にされた後半38分左足ボレーで決勝点

ガゼッタ・デロ・スポルトでの評価点が“10”

この試合を最後にバッジョが退団、CL出場権を獲得したリッピが続投決定という皮肉な結果に



トリプレッタ(ハットトリック)
1989年11月19日、アスコリ戦  初のトリプレッタ

1992年 2月 2日、フォッジャ戦 2度目のトリプレッタ

1993年 5月 9日、フォッジャ戦 3度目のトリプレッタ

1993年10月31日、ジェノア戦  4度目のトリプレッタ 

1997年11月 2日、ナポリ戦   5度目のトリプレッタ

2001年 5月 6日、レッチェ戦  6度目のトリプレッタ

2001年 9月30日、アタランタ戦 7度目のトリプレッタ



フォーケル(1試合4得点)
1992年11月 8日、ウディネーゼ戦 1試合4得点



恩師
カルロ・マッツォーネ。ロベルト・バッジョの最大の理解者

ブレシアの監督として2000-03の3シーズンを共にプレーする

「私はバッジョをピッチに送り出すとき一つだけ指示をする

 『90分間で一度だけでもいいから君らしいプレイをしてくれ』とね

 それが我々に歓喜をもたらすのを私は知っているからね」

「ネドベドもヴィエリもトッティもいらない。バッジョだけで十分さ」

80年代から現在に至まで、「ファンタジスタ」と言う言葉の代名詞的存在であり、その言葉はR・バッジョのためにあると言っても過言ではないだろう、イタリアの至宝。
ロベルト・バッジョのような選手は、これまでのサッカー史を紐解いてもただ1人として存在しなかった。これからも彼のような選手は現れないだろう。ドラマチックなキャリア、ピッチ上での類稀なインスピレーション、神秘に包まれた人間性。その全てが印象的だった。

ロベルト・バッジョは1967年2月18日、イタリアのカルドーニョに住むバッジョ家の6人目の子として生を受ける。3人の姉、2人の兄、そして後に弟と妹が生まれ8人兄弟という大家族の中で育った。家は決して裕福ではなく、食べてゆくだけで精一杯の生活だったが、家族は大変仲がよく幸せな少年時代だったという。12才でラネロシ・ビチェンツァへ加入し、1982年にデビュー。出場機会は徐々に増えてゆき、ビチェンツァでの最後のシーズン、1984/85シーズンは29試合に出場し12得点を記録。チームのセリエB昇格に大いに貢献した。

イタリアのサッカーにおける情報伝達網は今も昔も大変優秀で、ロベルト・バッジョの名も瞬く間にイタリア全土へと広がり、フィオレンティーナがバッジョ獲得に至る。だが突然の悲劇が彼を襲う。移籍後僅か2日目に右膝十字靭帯を断裂する大怪我。この怪我により1シーズンを棒に振り、さらにもう1シーズン様子を見ながらのプレーが続く。2年越しでようやく怪我の癒えたバッジョは1988年11月のオランダ戦で待望のアズーリのユニフォームに袖を通した。
1989/90シーズンには32試合に出場し、17得点を挙げる活躍を見せたバッジョは、既にアズーリのエースを務め上げるまでに成長を遂げていた。地元開催となった1990年ワールドカップでは惜しくも優勝は逃すものの3位決定戦で得点を挙げるなど評価に違わぬ活躍。同年、イタリア最高の選手を獲得せんとユベントスが動いた。多額の移籍金を積まれたフィオレンティーナは彼を放出せざるを得なくなり、やむなくバッジョのパスをユベントスへと譲渡したが、これに納得のいかないサポーター達は大いにチームを批判、暴動が起きるまでの騒ぎとなった。ビオラに愛され自らもビオラを愛していたバッジョは複雑な心境の中で1990/91シーズンを迎えたが選手として更なる高みへと上り詰めてゆく。移籍1シーズン目にして完全にチームの中心に据えられると目覚しい活躍を見せ、1992/93シーズンにはチームにUEFAカップ優勝をもたらした。
迎えた1994年ワールドカップ。ロベルト・バッジョ擁するイタリアは優勝候補の一角に挙げられ、グループリーグで苦戦は強いられるものの、その前評判通り決勝戦にまで進出する。決勝では炎天下の中、ブラジル代表との緊迫した試合が続き、ついにはスコアレスでPK戦に突入。既に両チームとも疲弊しきっており、特にフランコ・バレージとロベルト・バッジョの消耗は目にも明らかだった。イタリア2人成功、ブラジル3人成功で迎えたイタリア5人目のキッカー、ロベルト・バッジョ。蹴った瞬間に失敗とわかるPKでワールドカップは幕を閉じる。腰に手を当てうつむくバッジョ。セレソンの面々がワールドカップを掲げブラジル国旗を身にまとい喜びを爆発させる。その一方でピッチにうずくまり絶望にくれるチームメートたちを抱きかかえ慰めるバッジョの姿があった。その姿は王者のように誇らしかった。

1994年ワールドカップ後、絶対だったバッジョの存在が揺らぎ始める。所属するユベントスではアレッサンドロ・デル・ピエロという若い才能の台頭がありミランへと放出される。ミランでは戦術的な問題、監督との確執があり出場機会に恵まれず。ボローニャで復活し1998年ワールドカップにも出場したが満足のいく結果は得られず。続いて移籍したインテルでも監督との確執、相次ぐ怪我。バッジョのキャリアは終わったかに思われた。しかし理解者との出会いが彼を蘇らせる。当時ブレシアの指揮を執っていたカルロ・マッツォーネである。マッツォーネはバッジョを戦術に縛り付けるようなことはせず、できるだけ彼を自由にプレーさせた。解き放たれたファンタジスタは全盛期のキレを取り戻し、ボールを意のままに操った。少し顔のしわが増え、体力が落ちたことを除けば、キャリアの終末のバッジョは昔となにも変わらなかった。相変わらず神々しく、独特の雰囲気を醸し、放たれるボールは美しい弧を描いた。

1999年を最後に代表に呼ばれず、その後トラパットーニ体制となった事から2002年ワールドカップ出場を視野に入れ、大きな怪我を克服するもここでもメンバーに選出されなかったのは非常に残念であった。
しかし、その後トラパットーニの粋な計らいにより2004年4月28日スペイン戦をR・バッジョの引退試合とされ約5年振りにそのピッチに立った。
背番号10番を付け、後半からは初のキャプテンマークをまいて魅せたプレーは引退してしまう事が信じられない程ファンタジー溢れるものであった。


2004年5月16日、ミラノ市サンシーロ。ついにお別れの時がやってくる。彼が4シーズンを過ごし、不遇の時を送ったスタジアムが現役最後の舞台となった。左腕に巻かれたキャプテンマークの「必勝」の文字。フランセリーノ・マツザレムへの見事なアシスト。2-4での敗戦。鳴り止まない歓声。惜別の拍手。微笑を浮かべる表情とは逆に愁いに満ちたバッジョの瞳。その全てが印象的だった。

どんな時でもその姿がピッチにある限り、必ず奇跡を起こしてくれる・・、そう思わせる素晴らしい選手であり、私達の心に深く刻まれた記憶は、永遠に消える事はない。






イブラヒモビッチとカッサーノがトレードの可能性?

 ズラタン・イブラヒモビッチは苦しい時期を過ごしている。ローマ戦での退場もそれに拍車をかけた。レアルからの巨額のオファーのうわさに気を取られているようだ(現在の年俸は150万ユーロ(約2億1450万円)だが、オファー額は600万ユーロ(約8億5800万円)。

 レアルはイブラヒモビッチへの興味を否定する正式なコメントを出したが、だからといってレアルがイブラヒモビッチをあきらめるとは考えられない。フィーゴやロナウドを獲得した際にもレアルは同様の手法を用い、一旦遠慮するようなコメントを出した後でバルセロナ、インテルから彼らを奪っていった。

 2007年に向けてフロレンティーノ・ペレス会長がイブラヒモビッチの獲得を夢見ていることに変わりはない。昨年対戦した際に彼のプレーに魅了されて以来、彼のことが頭から離れないようだ。ユベントスを説得するため、レアルの会長は驚くようなカードを用意している。アントニオ・カッサーノを交渉に含めるというものだ。ファビオ・カペッロの大のお気に入りの選手であり、イブラヒモビッチとの交換条件として受け入れられる可能性のある唯一の選手だろう(加えて適切な差額を現金で支払うことも必要)。

 マドリーに到着した直後は興奮状態にあったカッサーノも、“銀河系軍団”で過ごすことがそれほど楽ではないと理解し始めている。ポジション争いは激烈で、出場機会は全く保証されてはいない。カペッロ率いるユベントスへの移籍を彼が喜ばないはずはないだろう。20060125_img.jpg

偉大なファンタジスタ

僕とサッカーの出会いは、同時に僕が尊敬してやまないロベルト・バッジョとの出会いでもあった。
初めて彼の姿を見たのは90年W杯イタリア大会。
チェコスロバキア戦 77分にハーフエイライン付近からドリブルを始めたバッジョは、芸術的なドリブルでDFをかわし華麗なゴールを決めた。
大会ナンバーワンゴールといわれるほど素晴らしいゴールだった。

しかしこの大会のイタリアは準決勝で、マラドーナ率いるアルゼンチンにPK戦の末、4-3で敗れ、3位決定戦にまわる。
3位決定戦 相手はイングランド。この試合はイタリア大会得点王のスキラッチの活躍もあり、2-1で勝利しイタリアは3位で大会を終えた。

このイタリア大会のバッジョのゴールが僕をサッカーの世界にますます引き込んで行ったのです。
もう少しバッジョについて話しますね。

4年後のアメリカ大会に出場したバッジョは、背番号10を付け、イタリアのエースをして大会に臨んだ。
しかしグループGの緒戦 アイルランド戦 1-0でまさかの敗戦。74年大会ポーランド戦以来20年ぶりのグループリーグでの敗戦となった。
続く第二戦対ノルウェー戦で衝撃的な事件が起きる。
前半21分GKのパリュウカが一発退場。監督のサッキはなんとバッジョに交代を告げる。イタリア攻撃陣の生命線とも言えるバッジョがピッチから去る。さらに追い討ちをかけるように世界最高のリベロといわれた守備の要フランコ・バレージまでもが負傷退場。窮地に追い込まれたイタリアを救ったのは、もう一人のバッジョ、ディノ・バッジョのゴールだった。
この試合でバッジョはサッキ監督に対し「狂っている」と発言。
まぁ僕もこの交代は意味がわかりませんでしたけどね。

第3戦メキシコと1-1のドロー。グループリーグ3位となったイタリアは自力突破がなくなった。しかし別のグループでロシアがカメルーンに圧勝した為、ラッキールーザーとして、なんとか決勝トーナメント進出を果たす。



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決勝トーナメント一回戦  ナイジェリア戦
後半終了間際89分 イタリア0-1ナイジェリア
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もはや敗戦濃厚、万事休すのイタリアを救ったのはロベルト・バッジョだった。奇跡的な同点ゴール、延長101分には自らが得たPKをきっちり決め2ゴール。 
準々決勝スペイン戦で1ゴール
準決勝ブルガリア戦で2ゴールと調子を上げてきていたバッジョだが、後半70分についに足に限界がきて途中交代。イタリアは不安を抱えたまま決勝へと駒を進めた。

迎えた決勝戦相手は王国ブラジル。
バッジョは膝・アキレス腱の痛みとブルガリア戦での太ももの軽い肉離れという満身創痍の状態で決勝の舞台に立つ。
また、バレージも手術を乗り越えここに立つ。この試合のバレージの活躍は後に伝説となる。ブラジルの強力な攻撃陣を封じ続け、彼の120分間のプレーは本当に素晴らしいものだった。
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試合は延長でも決着がつかず史上初のPK戦へ
イタリアは、バレーシ゛、マッサーロと失敗し
バッジョは多大なプレッシャーの中、5人目としボールを蹴るが
ボールはゴールマウスを大きく外れ、その瞬間ブラジルの史上初の4度目の優勝が決まった。
バッジョはしばらく呆然とその場に立ち尽くした。
結果は準優勝しかしイタリアを決勝まで導いたのは他でもないバッジョだった。


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誰もが認めるファンタジスタ。しかしイタリア人監督達はその後のバッジョを冷遇した。
契約を延長しないユベントスからバッジョはA.Cミランへの移籍を決意する。しかしカペッロ監督の考えるシステムにより先発出場も少なくベンチにいる時間が多くなっていた。さらにはあのサッキ監督が就任。
ジュゼッペ・メアッツァでのUEFAチャンピオンズ・リーグ
グループ・リーグ第6戦で引き分け以上なら決勝トーナメント進出だったがローゼンボリに1-2でまさかの敗戦でグループ・リーグ敗退が決定する。
バッジョは先発出場し前半終了間際にゴール前のポストプレーでデュガリーの同点ゴールをアシストするがサッキ監督はバッジョを前半のみで交代させる。
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サッキ監督になりバッジョの出場回数もへり、ベンチやスタンドで彼の姿を見る事が多くなる。 また、PKのキッカーもバッジョからアルベルティーニへサッキ監督は変更してしまう。
バッジョは移籍も見当に入れたがインテルのモラッティ会長は1年前にバッジョに拒否された事を忘れておらず
「バッジョがネロアズーリのユニフォームを見る事はないだろう」とコメントした。
結局バッジョはイタリア国外も含めて移籍せず残留。
バッジョは「サッキ監督は私の練習をよく見てくれる調子がいいようだねと声もかけてくれるだが、試合には出してくれない」と話していた。
第26節 A.CミランVSユヴェントス戦 ( 1-6 ) で歴史的大敗をきっする。
バッジョはベンチ・スタートだったが後半4分にユヴェントスのユーゴヴッィチに3点目を取られるとミラニスタから「ロベルト・バッジョ」の大歓声がスタジアムにこだましバッジョの出場をサッキ監督に訴える。
この時、バッジョのいたたまれない表情をTVが捉える。
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後半15分に出場しコーナーキックを蹴りミラン唯一の得点のシモーネの
ダイレクト・ボレーのゴールをアシストする。

ナポリでの'98W杯欧州予選イタリアVSポーランド戦 ( 3-0 )
後半6分にゾラに代わって出場18分にディノ・バッジョからのパスを受け素晴らしいドリブルで相手DF・GKをかわしゴールチームメイトのディリーヴィオ・ラバネッリらから手荒い祝福を受ける。
バッジョ「私にとってアズーリに戻れた事が最大の歓びなんだそしてゴールまで決めることができた。 このゴールは私のこれまでの人生の集大成だこの日まで多くの時間が流れ悲しみに沈んだこともあった
しかし、これで全てが変わる」と。 続けて「A.Cミランを出る事は考えたくないが、もっと試合に出なければ」と答える
翌日のガゼッタ・デッロ・スポルト紙には「イタリアにバッジョ これぞ幸福!」
ラ・スタンパ紙「イタリアはパリへ素晴らしいバッジョとともに」との見出しがおどる。

バッジョはフランスW杯のため出場機会を求めて、ボローニャへと移籍。
ここでバッジョは素晴らしい活躍を見せる。自己最多の22ゴールを決め、ロナウド、ビアホフに続き得点ランキング3位に。

そして3度目のW杯へ向けバッジョの代表入りが決まった。このとき時の代表監督はマルディー二監督。
イタリア代表のキャプテン - パオロ・マルディーニはあるインタヴューで
「もし、あなたが生まれ変わるとしたら誰に生まれたいですか??」
との質問に
「バッジョです、人間として素晴らしいからです」と答えたという。

1998 フランスWorld Cup グループ・リーグ第1戦 イタリアvsチリ ( 2-2 )
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バッジョはデルピエーロ負傷のため18番をつけて先発出場。10分のヴィエリのゴールを絶妙なピンポイント・パスでアシストするがその後チリのサラスに2ゴールを決められ逆転される。残り時間5分、右サイドでボールをキープするバッジョ、どうする、ドリブル突破か中にクロスを入れるのか、答えはそのどちらでもなかった。ふわりと浮かせた中途半端なボールはチリDFの腕に当たり力なく落ちた。主審の笛がなる。ペナルティスポットを指差す主審、猛抗議のチリの選手を尻目に、ゆっくりとボールをセット。自ら得たPKを決め同点としイタリアを再びすくう 。

準々決勝 フランスVSイタリア ( 0-0 ・ PK4-3 )
0-0で進む緊迫した試合展開の中67分にデルピエーロに変わって出場。
延長戦で、1度決定的なチャンスがあったが決められずPK戦へ。
バッジョはイタリアの1番手としてゴールを決めるがアルベルティーニと、ディビアッジョが外して3大会連続でPK戦による敗退となる。
PKをはずしたディビアッジョはその場に泣き崩れたが、それを慰めるバッジョの姿はとても印象的だった。

その後バッジョはインテルへ移籍。
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インテルでは素晴らしい活躍をしたバッジョだが、リッピ監督就任に伴い、またもチームをおわれる事になる。

2000年9月14日ブレシア入団を発表

当時ブレシアの指揮を執っていたのはカルロ・マッツォーネである。マッツォーネはバッジョを戦術に縛り付けるようなことはせず、できるだけ彼を自由にプレーさせた。解き放たれたファンタジスタは全盛期のキレを取り戻し、ボールを意のままに操った。少し顔のしわが増え、体力が落ちたことを除けば、キャリアの終末のバッジョは昔となにも変わらなかった。相変わらず神々しく、独特の雰囲気を醸し、放たれるボールは美しかった。

バッジョ移籍確定時にはブレシアの背番号は既に確定しており10番はエスポジートのものだったが彼はバッジョに10番を譲る事を表明しイタリア・プロ・サッカー連盟も登録された背番号の変更を例外的に認めバッジョのブレシア10番は誕生した。

ブレシア・デビュー 
コッパ・イタリア対ユヴェントス戦でブレシア・デビュー
必勝のキャブテン・マークをまいて67分間プレーする試合は0-0で終了したがレッド・カードが5枚も出るという後味の悪いデビュー戦となってしまった。
しかし、バッジョにとってはインテル対パルマ戦のチャンピオンズ・リーグ出場権をかけた5月23日の試合から約4ヶ月ぶりとなる実戦だったが
高いパフォーマンスを見せ周囲を驚かせた。
採点でGiornale di Bresciaは、7.5点

あるサッカー関係者は語る「バッジョは特定のチームのシンボルではないイタリアの全てのサッカーファンのバンディエラ ( 旗手 ) である。
それは、彼のファンタジー溢れるプレーに人々が魅了されている事はもちろん一人の人間としての誠実さや同僚を批判せず辛らつな意見を吐かない態度ピッチ上でのフェアなプレースタイルが評価されている事も見逃してはいけない」
バッジョの2002年への必勝の旅は始まった !!

順調にみえたブレシアでの活躍、しかし怪我との戦いは終わらなかった。
コッパ・イタリア 準決勝 パルマ VS ブレシア戦
後半 14分、パルマ・ゴールエリア前でターンの途中に自ら転倒する。負傷のため担架で、そのまま退場。その後、怪我の重大さが次第に明らかになるり復帰までには、少なくとも 3ヶ月必要とされる。
イタリアでは、 Baggio - W杯絶望
状況によっては引退か ?? との報道が流れる事態になってしまった。
早期回復を目指し自身5度目の手術を受けるが、しかし、結果は左膝十字靭帯損傷で3ヶ月の重症だった。
そして...
「バッジョ は、カルチョを去ることを望む」
この、ニュースは直ちにイタリア国内はもとより世界中を駆け巡った。
これに対し、イタリア・サッカー界そしてバッジョの友人世界中のファンから、メッセージが送られた。
サッキ氏のコメント( 前イタリア代表監督 )
「不幸にも私は、彼の多くの事故に遭遇した。'94年のW杯アメリカ大会、私がリミニを監督した84年、そして今同じくこの最後の事故に彼がそれから取り戻されそれが、素晴らしいキャリアを持っているからたとえ、今後の選手生活がそれほど長くないであろうとしてもバッジョは、復帰しなければいけない。私は ロベルトに心からの敬意を抱いて持っている全ての愛情で彼のために祈る」

イタリア代表 トラパットーニ監督のコメント
「私は、非常にすまないと思った。私は常にバッジョと良い関係を持っていた。私は、彼が「フィールドに戻る力」をまもなく見いだすであろうということが確かであると思う。
「バッジョの非常に類稀なキャリア。この手術が彼を危険にさらさないことを非常に望む」

ユヴェントス リッピ監督
「私は、バッジョがピッチに戻ることを望む」
「私達は、ユヴェントスとインテルの両方の時代に共に良い関係ではなかった。バッジョは、自伝でひどく「 マルチェロ・リッピは、私を迫害した」と書いた。
今日、どんな不運の瞬間に、ビアンコネロ( ユヴェントス ) がすべての過去を忘れてそして深い情愛がとの考えを バッジョに向けるとしても
「私は、彼のために祈るもう1つのキャリアの不運な旅行がここで終わってはならない。

A.Cミラン & イタリア代表 - マルディーニのコメント
「私はロベルトに電話をしようとした.しかし様々な利用から話をする事ができなかった。私は、バッジョのために残念に思う。私はバッジョが、彼自身を引退させる意図を持っているとは信じてはいない。私は邪魔と不安の彼の心を理解する。私は彼が、プレーするために復帰すると信じ祈る」

2月7日再び、ボローニャで W杯出場を目指しリハビリを開始する。
4月21日
セリエA 第32節 ブレシア vs フィオレンティーナ戦で復帰
いきなり、2ゴールを決める。
左膝十字靭帯損傷で3ヶ月の重症と言われていたバッジョが、76日で復帰
「私は、自分自身に勝利した !! 」と宣言
このゴールを、親友で代理人の ヴィトリオ・ペトローネ氏と家族、そして全てのファンに捧げるとコメントしこれからも、情熱と希望を持ってプレーし続けると宣言する。
セリエA 第34節 ブレシア vs ボローニャ戦で
98日振りに、90分間プレー、後半28分に、PKを一旦パリューウカに止められるもはね返りを決め、セリエA残留へ向け決定的な役割を果たす。 3-0 で、勝利しセリエA残留を確定し、W杯へ向けて全てをやりきり、トラパットーニの決断を、希望を持って待つ。
ジョバンニ・トラパットーニ監督が、2002韓国・日本W杯
イタリア代表メンバー、23人を発表
そこに、 Roberto Baggio の名前はなかった・・。

03/04シーズン第25節パルマ戦にてセリエA通算200得点を達成、このシーズンを最後に惜しまれながら引退という選択をし、セリエA通算460試合、205得点の記録を残した。
セリエA史上5人目となる200ゴールを記録している。
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トラパットーニの粋な計らいにより2004年4月28日スペイン戦
をR・バッジョの引退試合とされ約5年振りにそのピッチに立った。
背番号10番を付け、後半からは初のキャプテンマークをまいて魅せたプレーは引退してしまう事が信じられない程ファンタジー溢れるものであった。
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ロベルト・バッジョのような選手は、これまでのサッカー史を紐解いてもただ1人として存在しなかった。これからも彼のような選手は現れないだろう。ドラマチックなキャリア、ピッチ上での類稀なインスピレーション、神秘に包まれた人間性。その全てが印象的だった。
2004年5月16日、ミラノ市サンシーロ。ついにお別れの時がやってくる。彼が4シーズンを過ごし、不遇の時を送ったスタジアムが現役最後の舞台となった。左腕に巻かれたキャプテンマークの「必勝」の文字。フランセリーノ・マツザレムへの見事なアシスト。2-4での敗戦。鳴り止まない歓声。惜別の拍手。微笑を浮かべる表情とは逆に愁いに満ちたバッジョの瞳。その全てが印象的だった。
80年代から現在に至まで、「ファンタジスタ」と言う言葉の代名詞的存在であり、その言葉はR・バッジョのためにあると言っても過言ではないだろう、イタリアの至宝。どんな時でもその姿がピッチにある限り、必ず奇跡を起こしてくれる・・、そう思わせる素晴らしい選手であり、私達の心に深く刻まれた記憶は、永遠に消える事はない。
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ファンタジスタ 時には最大の戦力となり、時には諸刃の剣となる。
一瞬の閃き、予想することのできないドリブル、時には味方すら欺いてしまうほどのパス、美しい弧を描くFK、ファンタジスタを見ることはサッカーを見る事の1つの醍醐味なのかもしれない。

僕の永遠のヒーロー ロベルト・バッジョ



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ベッカム、若き天才ロビーニョを絶賛

レアル・マドリー(スペイン)所属のイングランド代表MFデイヴィッド・ベッカムが、チームメイトのブラジル代表FWロビーニョを絶賛している。

 イングランド代表のキャプテンはブラジル代表の新星の活躍に目を細めている。ロイター通信によると、ベッカムは西『マルカ』紙に対し「彼は非常に技術が高い。自分を取り戻すために、少し自信を持つ必要があっただけなんだ」とコメント。「現在の彼のプレーを見れば、偉大な選手になるってことは誰にでも分かる」とその才能を称賛していた。

 ロビーニョは今夏に鳴り物入りでサントス(ブラジル)から加入し、マドリーデビューとなったカディス戦では才覚を見せ付けたものの、その後はいまひとつの出来に終始。しかし、カロ監督の就任を機に調子を上げており、現在公式戦3試合連続ゴール中とトップフォームを取り戻しつつある。
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ロビーニョは間違いなく偉大な選手達の仲間入りをしますよ
それから若手で忘れてはいけないのが、我らがミラニスタのアイドル、カカをお忘れなく

ミラン イタリア杯 敗退

私の大好きなACミランがイタリア杯準々決勝でパレルモに敗退しました
残念です
リーグ戦ではもうユベントスには追いつけないでしょう
残るはチャンピオンズリーグしかないです。ぜひ頑張ってもらいたいものです。
さらに私がショックだったのは、スタムが来シーズンからアヤックスに移籍
お気に入りの選手だったんですけどねアヤックスに移籍しても頑張ってもらいたいものです



ブログ、始めました。

ども、今さらですがブログ始めました。
てか何書こうかなぁ...
サッカーについて熱く語ろうかと思ってんですけど

まぁ気ままに書いていきますんで、よろしく~



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