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Hernan CRESPO エルナン・クレスポ

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フルネーム エルナン・ホルヘ・クレスポ
Hernán Jorge Crespo
国籍 アルゼンチン
生年月日 1975/7/5
出身地 フロリダ
ポジション FW(CF)
身長 184cm
体重 78kg
代表デビュー 1995/2/14vsBUL
所属クラブ
1993-96 リバープレート
1996-00 パルマ(イタリア)
2000-02 ラツィオ(イタリア)
2002-03 インテル(イタリア)
2003-04 チェルシー(イングランド)
2004-05 ミラン(イタリア)
2005- チェルシー(イングランド)

スピード、テクニック、ポストプレーとストライカーとしての技術は
すべて兼備えた現アルゼンチン代表主砲。
どんな体勢からでもゴールを狙う事が出来、時として芸術的な得点も記録、
あのバティストゥータからエースストライカーの名を引き継いだスター選手。

6才の頃からリバープレートの下部組織で育ち、類い稀な才能を発揮するもいつだって、エルナン・クレスポの評価は芳しいものではなかった。少年の頃はエンツォ・フランチェスコリに憧れMFとしてプレーしたが、コーチはクレスポを特別な存在としては見ず、ダニエル・パサレラがリバープレートの監督に就任するまでは下部組織でのプレーが続く。
18才になるまで6軍チームの控えに甘んじるが、当時トップチームを指揮していたパサレラによって見い出され1993年、トップデビューを果たすとすぐにレギュラーとして活躍、93/94前期、94/95前期にてリーグ優勝に貢献し93/94後期リーグにて得点王も獲得する。
1996年リベルタドーレス杯では優勝の立役者と言える活躍を見せ
世界中にその名を知らしめると、約4億円の移籍金でパルマへ引き抜かれる。
移籍当初、思うような活躍が出来ずにいたが、当時パルマの監督であったアンチェロッティは、そのポテンシャルの高さを信じ、試合に使い続け、やがてその予想通りの活躍を見せるようになる。
シーズンを重ねる事に得点能力を大きく開花させると98/99シーズンにUEFA カップ優勝に貢献、99/00シーズンにはシェフチェンコに1得点及ばず得点王のタイトルは逃すも22得点とゴールを量産した。
00/01シーズン前、ラツィオへ移籍の際にはセリエA 最高となる
約66億円という移籍金で話題となったが、このシーズン26得点を記録し得点王を獲得、その金額に値する活躍を見せた。
その後移籍したインテルでの1年目は怪我に泣かされ不本意なシーズンとなったが今更その能力を疑問視する者もなく、迎える03/04シーズンは大きな期待が寄せられていたが、チェルシーの進める大型補強の対象となって電撃移籍。この移籍が表ざたになるとインテリスタからの猛反対を受けこの移籍を白紙に戻そうとしたモラッティ会長であったが、時すでに遅く、チェルシー側にこれを拒否される結果となった。
結果的にイングランドでは10得点に終わり、その期待を裏切るものとなるも04/05シーズンセリエA復帰後はなかなかコンディションが上がらずそれほど活躍することはできなかった。しかし彼を辛抱強く使い続けたアンチェロッティの期待に応えるかのように、徐々にコンディションを上げ、シェフチェンコとのコンビを確立、チャンピオンズ・リ-グでは通算6得点で決勝進出に貢献、決勝リバプール戦では2得点を挙げながらPK戦の末チームは敗れたが、このシーズンの完全復活は誰の目にも明らかであった。
シーズン終了後、ミランへの完全移籍を望むも交渉は決裂し再びチェルシーへ戻る事となったが、05/06開幕ゲームでは素晴らしい決勝弾を記録し、その存在を知らしめる事に成功、これだけのストライカーを手放したミランが、後に後悔する事とならなければよいのだが・・・。

アルゼンチンユース代表として活躍し1996年アトランタ五輪では
6得点を挙げ得点王獲得、チームに銀メダルをもたらしたが2番目の褒美はいらないとメダルをポケットにしまい込むエピソードを持つ。
恩師パサレラがアルゼンチン代表監督に就任した後、1995年2月14日のブルガリア戦にてデビューを果たす。1998年ワールド杯ではバティストゥータの控えとして不本意に終わってしまうが(1試合出場)
2002年ワールド杯南米予選では12試合出場9得点(予選得点王)を挙げチームの主砲として活躍した。

クレスポは、常に努力を怠らない選手である。チームメート達は一様に「あれほど練習をする選手は知らない」と彼を称え、その結果としてチームのタイトル獲得や得点王のタイトルが付いてきた。遂には母国の英雄ガブリエル・バティストゥータを押し退けてアルゼンチン代表のエースストライカーにまで成長、2002年ワールドカップの地区予選ではチーム最多となる9得点を挙げた。
練習に練習を重ねた結果、クレスポは誰からも高い評価を受ける素晴らしいプレーヤーに成長した。現在の彼の評価、それは「世界最高のストライカー」である。
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ミランがパレルモに勝利

セリエA第27節の試合で、ミランはパレルモに2-0の勝利。インザーギとシェフチェンコがゴールを記録した。パレルモはディ・ミケーレとコリーニが復帰。ミランはコスタクルタをディフェンスに入れ、右サイドにはスタム、中盤の左にはフォーゲルを起用してこの試合に臨んだ。

前半7分、シェバ(シェフチェンコの愛称)が右サイドを突破し、相手選手をかわしてカカにパスを出したが、これはオフサイド。シェフチェンコは審判に対して怒りをあらわにしていた。
11分にはゴール前で微妙なプレー。ディ・ミケーレとネスタが接触し、倒れたネスタがボールに手で触れたが、ピエーリ主審はミランにフリーキックを与えた。

14分、ピルロがゴール前にボールを入れ、インザーギが右足のボレーで合わせたが、ゴールの横へ。30分にはシェバがパレルモのゴールに迫ったが、ザッカルドがボールを奪い取った。39分、ディ・ミケーレのシュートはGKカラッチがファインセーブでクロスバーの上にはじき出す。

45分、ピルロのパスを受けたインザーギのシュートはGKアンドゥハルがいったんはじきながらも抑えた。ロスタイムにはパレルモに決定的なチャンスがあったが、カラッチとコスタクルタがカラッチョーロのゴールを阻んだ。

後半は試合がペースダウン。ミランはスタムとカカの連係でゴールに迫ったが、スタムのクロスに合わせたシェフチェンコのシュートはゴールの横に外れた。58分、カカがエリア手前でインザーギにヒールパス。これはコリーニがストップした。63分、バローネがカラッチの目の前に迫ったが、ガットゥーゾが見事なディフェンスで防いだ。

試合が動いたのは73分。フォーゲルのクロスに合わせたピッポ・インザーギがヘディングでゴールを陥れた。
同点ゴールを狙いにいくパレルモに対して、ミランはカウンターで応酬。シェフチェンコがスピードに乗って抜け出し、アンドゥハルに倒されると、ピエーリ主審はミランにPKを与えた。84分、これをシェフチェンコ自らが決めて2-0。

終了間際にはスタムが退場になったが、その後ミランに危ない場面はなかった。コッパ・イタリアではバルベラで0-3の敗戦を喫したミランだが、その借りを返すことができた。

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DIDA ヂダ

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フルネーム ネルソン・ジ・ジーザス・シウバ
Nelson de Jesus Silva
ニックネーム ジダ
国籍 ブラジル
生年月日 1973/10/7
出身地 イララ
ポジション GK
身長 195cm
体重 85kg
代表デビュー 1995/7/7vsECU
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1992 ビトリア・バヒア 0 0
1993 ビトリア・バヒア 24 0
1994 クルゼイロ 23 0
1995 クルゼイロ 20 0
1996 クルゼイロ 22 0
1997 クルゼイロ 25 0
1998 クルゼイロ 30 0
1998/99 ミラン 0 0
    ルガノ 0 0
1999 コリンチャンス 24 0
2000(jan) パルメイラス 0 0
    コリンチャンス 25 0
2000/01 ミラン 1 0
2001 コリンチャンス 7 0
2002 コリンチャンス 28 0
2002/03 ミラン 30 0
2003/04 ミラン 32 0
2004/05 ミラン * *
主なタイトル
2002年 ワールドカップ優勝
2002/03 UEFAチャンピオンズリーグ優勝

驚異的な反射神経を背景にスーパーセーブを連発するブラジル代表GK。PKストッパーとしても名高く、その威圧感、洞察力は名立たるストライカー達の脅威の的である。

地元ヴィトリア・バイーアにてキャリアをスタートさせ1993年にトップデビュー、ここでの活躍が認められ強豪クルゼイロに移ると不動の守護神として君臨、数回の州選手権優勝等のタイトルに貢献すると
1997年にはリベルタドーレス杯優勝も達成し、クラブの黄金期を支える。
1998年よりミランへ引き抜かれるが、しかしここから彼の受難が始まった。出場機会に恵まれず、以後母国の名門コリンチャンスとミランの間を渡り歩く事となる。
1999年、コリンチャンスの全国選手権優勝に貢献した後ミランへ戻った際、2000年11月1日パルマ戦にてセリエAデビューを飾るが、その後パスポート疑惑というトラブルに巻き込まれ出場機会に恵まれる事はなかった。
しかし02/03シーズンよりミランへ復帰を果たすとアッビアーティから正GKの座を奪い30試合に出場、本格的なデビューシーズンを飾っただけでなくチャンピオンズ・リーグ、コパイタリアの2冠に大きな役割を果たしたのである。
チャンピオンズ・リーグ決勝ユベントス戦はPK戦にまでもつれこむ混戦であったが2本のPKを阻止したブッフォンを上回る3本のPKを止めて改めてPKストッパーとして優れる事を証明している。
ちなみに、PKストッパーとして有名になった由縁は1999年から
2001年1月までにブラジル代表と当時所属したコリンチャンスにて8回連続で訪れたPK機会をすべて阻止するという伝説的な偉業にある。
03/04シーズンにはミラン5シーズン振りのスクデットに大きく貢献し不動の守護神として活躍。
2004年/2005年シーズンには再びチャンピオンズリーグ決勝の舞台を踏み、またPK戦になるも、今度はリバプールGKイェルジー・デュデクに主役の座を奪われる格好になり、再びビックイヤーを獲得することはできなかった。ちなみにこのシーズンの準々決勝対 インテル第2戦で、試合展開に怒ったホームのインテルサポーターが投げた発炎筒がヂーダを直撃、これが原因で試合は没収試合となった。


1993年ワールドユース優勝メンバーの1人である。なおアトランタオリンピック男子サッカー第1次リーグで日本代表が世界最強と言われるブラジル代表を1対0で下した試合(通称マイアミの奇跡)でゴールキーパーを務めていたのもヂーダであった。 彼とディフェンダーが起こした致命的なミスにより日本のゴールとなり、結果的にブラジルは敗戦することとなった。
その後1997年7月7日エクアドル戦にてフル代表デビューを果たし
1998年ワールド杯ではタファレルの控えとしてメンバーに選出された。
1999年コパアメリカでは正守護神として活躍し優勝に貢献、
2002年ワールド杯南米予選でも序盤戦は主力として君臨していた。
しかし、その後監督に就任したフェリペの元ではマルコスに正GKの座を奪われワールド杯メンバーに選出されるも、その舞台に立つ事がなかったのは残念である。
2003年以降、ようやくセレソンの正GKに定着し、超強力な攻撃陣を最後尾から支えている。



Christian ABBIATI クリスチャン・アッビアーティ

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フルネーム クリスチャン・アッビアーティ
      Christian ABBIATI 
国籍 イタリア
生年月日 1977年7月8日
出身地 アッビアテグラッソ
ポジション GK
身長・体重 190cm・90kg
ワールドカップ2002年ベスト16
所属クラブ
1994-95 モンツァ
1995-96 ボルゴゼジア
1996-98 モンツァ
1998-05 ミラン
2005- ユベントス

素早い身のこなしと、どんな局面においても冷静に対処する判断力は世界屈指。また常にその能力を発揮出来る安定性にも定評がある元イタリア代表GK。

セリエC1にあったモンツァにてキャリアをスタートさせボルゴゼジアにて経験を積んだ後、再びモンツァへ復帰、ここで守護神として君臨するとチームのセリエB昇格に大きく貢献する。97/98シーズンのB残留を達成した後名将ザッケローニ率いるミランへ引き抜かれる。
移籍当初、チームにはロッシという不動の守護神がいたため出場機会に恵まれずにいたがある日突然、セリエAの舞台に立つチャンスが訪れる事となる。
1999年1月17日ペルージャ戦、中田に同点PKを決められ熱くなったロッシがボールを拾いにいったアモローゾへの暴力行為によって一発退場となったのである。
この後を引き継ぎ、セリエAデビューとなったが、当時21才とは思えぬ落ち着いた判断力とスーパーセーブによって、すぐに正GKのポジションを獲得、更にこのシーズン、ミランはスクデットを獲得し、ほんの数カ月で世界的にも有名なGKの仲間入りを果たして見せたのである。
その後不動の守護神として君臨し安定したパフォーマンスを見せながら
チームはタイトルから見放され02/03シーズン、ヂダにポジションを奪われる不運は残念であった。しかし、このシーズンチャンピオンズ・リーグ制覇を達成するにあたって最も重要であったと思われる準決勝インテル戦において、負傷のヂダに代わって出場、MVP級のスーパーセーブを見せて決勝進出に大きな役割を果たし改めてその能力の高さを証明したのである。
シーズン終了後、国内外のビッグクラブからオファーが殺到するも
04/05シーズン終了までミランの第2GKとして在籍、そして
翌05/06シーズン開幕直前、ユベントスの守護神ブッフォンの怪我からレンタルという形でユベントスのゴールを守る事となった。

Uー21欧州選手権にて優勝に貢献し、幾度かフル代表に召集され、
デビューは見送られ続けて来たものの2002年ワールド杯メンバーにも選出された。その後2003年4月30日スイス戦にて祈願のフル代表デビューを果たしたが現在世界ナンバー1GKと称される代表守護神ブッフォンを凌ぐ事は容易ではないであろう。
アッビアーティのGKとしての能力は疑いようもなく、他のチーム、他の国の代表チームであったならば、不動の守護神として君臨出来る逸材であるのは誰もが認める所だけに彼の姿がピッチにないのは残念でならない・・。



Fernando Redondo フェルナンド・レドンド

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フルネーム フェルナンド・カルロス・レドンド・ネリ
Fernando Carlos Redondo Neri
ニックネーム エル・プリンチペ(王子様)
国籍 アルゼンチン
生年月日 1969/6/6
出身地 ブエノスアイレス
ポジション MF(CH)
身長 186cm
体重 78kg
代表デビュー 1992/10/16
所属クラブ
1985-90 アルヘンチノス・ジュニアーズ
1990-94 テネリフェ(スペイン)
1994-00 レアル・マドリード(スペイン)
2000-04 ミラン(イタリア)
2004 トレロドーネス(スペイン)
主なタイトル
1997/98 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1998年 インターコンチネンタルカップ優勝
1999/00 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
2002/03 UEFAチャンピオンズリーグ優勝

エレガントを漂わせる華麗なプレースタイルを持ちながら中盤でのディフェンス能力は相手攻撃時のチャンスを確実に摘む。
ルックスも抜群であり「エル・プリンチペ(王子)」の異名を持つアルゼンチンを代表する世界屈指のMF(ボランチ)。
裕福な家庭に生まれ育ち、ピッチの外での立ち振る舞いは気品に満ちているが、いざ試合となると話は別。反則すれすれの激しいプレーも平気でやってのける。

10才の頃にアルヘンチノス・ジュニアーズに入団し1987年にトップデビュー。
3シーズンを過ごした後、スペインリーグのテネリフェへ移籍、ここでアルゼンチン人監督ヴァルダーノの指導の元、その能力を大きく開花させ、長短自在のパス、技巧的なドリブル突破で次々と決定的なチャンスを作り出し、世界でも屈指のプレーヤーへと成長を遂げていく。
94/95シーズンより世界屈指の名門レアル・マドリードへ加入、すぐにレギュラーとして活躍し、このシーズンのリーグ優勝に大きく貢献する。
96/97シーズンにもリーグ優勝を経験すると97/98シーズンにはチーム32年振りとなるチャンピオンズ・リーグ制覇を果たす。
さらに99/00シーズンのチャンピオンズ・リーグをも制し、この大会のUEFA最優秀選手に選出された。その後ペレス会長との関係が悪化したため、2000年には20億円を超える移籍金でミランへと移籍し更なる成功を期待されたが、その矢先に右膝靭帯を損傷する大怪我。それによって長期に渡る戦線離脱、移籍から約2年をリハビリに費やした後2002年12月7日ローマ戦にて観客の喝采の中セリエデビューを果たした。
2003年3月12日に行われたチャンピオンズリーグ2次リーグ古巣レアルマドリード戦にも出場し、アウェイながらレアルファンから大声援が送られている。

アルゼンチン代表としても若い頃からその能力は期待されていたが
当時の代表監督ビラルドの方針に馴染めず1990年W杯を辞退。
監督交代後に代表に応じ1992年10月16日コートジボワール戦で
デビューを果たすと、92年コンフェデレーションズ・カップ優勝、
93年コパ・アメリカ優勝、そして1994年W杯にも出場を果たした。
しかし1998年W杯は再び監督と衝突(パサレラ監督)、その姿がフランスのピッチに立つ事はなかった。
現代表監督ビエルサの召集には応じ、自身も2002年W杯を目標としていたがミラン移籍後の大怪我から、長期に渡ってプレー出来ず、結局は本大会出場を断念、その姿が日本で見れなかったのは本当に残念な所である。

アルゼンチンが誇る偉大なピボーテは怪我により以前のレベルを維持できず2004年に現役を引退した。
フットボールとは不思議なのもで、偉大な才能を持つ選手ほど、怪我が多く、そのキャリアにも影響を与える。レドンドの怪我がなければミランやアルゼンチン代表にどれほどの栄光をもたらしただろう。
彼がピッチから去った今も長髪を振り乱し、華麗なパスでゲームを演出するレドンドの姿を時折思い出してしまう・・・





Jon Dahl Tomasson ヨン・ダール・トマソン

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フルネーム ヨン・ダール・トマソン
Jon Dahl Tomasson
国籍 デンマーク
生年月日 1976/8/29
出身地 コペンハーゲン
ポジション FW(ST),MF(OH)
身長 182cm
体重 74kg
代表デビュー 1997/3/29

所属クラブ
1993-94 キュゲBK
1994-97 ヘーレンフェーン(オランダ)
1997-98 ニューカッスル・ユナイテッド(イングランド)
1998-02 フェイエノールト(オランダ)
2002-05 ミラン(イタリア)
2005- VfBシュツットガルト(ドイツ)
主なタイトル
2001/02 UEFAカップ優勝
2002/03 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
 
テクニックとパワーを兼ね備え、ゴールの嗅覚に至っては天性の能力を持ち、更にパス能力、ポストプレーにも優れた冷静なゴールハンターでデンマーク代表ストライカーでもある。

94/95シーズンよりヘーレンフェーンにてトップデビュー、デビューシーズンながら16試合に出場し5得点を記録、翌シーズンからレギュラーに定着し在籍3シーズン通算37得点を記録する。
(1996年度のオランダリーグ最優秀選手にも選出された。)
ここでの活躍によって欧州各国からオファーが殺到し97/98シーズンはプレミアリーグのニューカッスルでプレー、しかしイングランドの水に馴染む事が出来ず23試合3得点に終わりこの不振がきっかけで1998年W杯出場メンバーからも外される事となった。
結局1シーズンでオランダリーグへ復帰、すぐに本来の能力を復活させてチームをリーグ優勝に導いた。
この活躍でデンマーク代表にも復帰、2000年欧州選手権予選では
7試合に出場し6得点を記録、チームを本戦出場に導いた。
(本戦では調子を落としてしまい、活躍するには至らなかったのは残念な所)
01/02シーズン、UEFAカップ獲得に貢献し、それを最後にイタリア強豪ミランへ引き抜かれる。
しかし、インザーギやシェフチェンコ等豊富な攻撃陣の中にあってレギュラー獲得に至らず、出場19試合(途中出場12試合)4得点はあまりにも物足りない数字であり不本意なセリエA初シーズンとなってしまった。
このシーズンのチャンピオンズ・リーグ、コパイタリアの2冠達成を果たし新たな勲章を胸に刻んだが、自身が原動力となった1年前のUEFAカップ獲得の時より嬉しさも半分だったのではないだろうか。しかし、その後はスーパーサブとして随所に重要な役割を果たし、03/04シーズンには26試合12得点でスクデット獲得に貢献して見せた。04/05シーズン終了後、ビエリの加入によって押し出される格好でチームを後にするが、新天地シュツットガルトにおいて
レギュラーとしてフェイエで見せたゴールの量産を期待したい所だ。

2002年ワールド杯予選グループでは3試合で4得点と爆発、
決勝トーナメント進出に大きく貢献し、その存在を改めて世界中に知らしめた。代表デビューは1997年3月29日クロアチア戦。

絶対的な存在として君臨していたフェイエノールトでは、小野が移籍する際に小野のライバルとして話題となったが、その実力を知る者ならば
彼からポジションを奪うのは容易ではない事は周知の事実であった。

Oliver Bierhoff オリバー・ビアホフ

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フルネーム オリバー・ビアホフ
Oiver Bierhoff
ニックネーム ゴールデンボーイ,ジャーマンタワー
国籍 ドイツ
生年月日 1968/5/1
出身地 カールスルーエ
ポジション FW(CF)
身長 191cm
体重 90kg
代表デビュー 1996/2/21vsPOR(通算70試合,37得点)
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1974-78 エッセナーSG - -
1978-85 シュバルツバイス・エッセン - -
1985/86 バイヤー・ユルディンゲン 0 0
1986/87 バイヤー・ユルディンゲン 19 3
1987/88 バイヤー・ユルディンゲン 12 1
1988/89 ハンブルガーSV 24 6
1989/90 ハンブルガーSV 10 0
VfLボルシア・メンヘングラッドバッハ 8 0
1990/91 SVザルツブルク 32 23
1991/92 インテル 0 0
アスコリ 17 2
1992/93 アスコリ 35 20
1993/94 アスコリ 32 17
1994/95 アスコリ 33 9
1995/96 ウディネーゼ 31 17
1996/97 ウディネーゼ 23 13
1997/98 ウディネーゼ 32 27
1998/99 ミラン 34 20
1999/00 ミラン 30 12
2000/01 ミラン 27 6
2001/02 ミラン 0 0
モナコ 18 5
2002/03 キエーボ・ベローナ 26 7
獲得タイトル
ドイツ代表
1996 欧州選手権優勝
ウディネーゼ
1997/98 イタリアリーグ得点王
ミラン
1998/99 イタリアリーグ優勝
モナコ
2001 フランススーパーカップ優勝

オリバー・ビアホフほど美しいヘディングシュートを放つ選手は見た事が無い。屈強な体躯を余すことなく活かした抜群のポジショニング、完璧なタイミングで飛び立ち長い滞空時間を誇るジャンプ、ボールの芯を確実に捉えるヘディング技術。ボールはビアホフの頭にヒットした瞬間、楕円形に形を変え矢のような速さでゴールネットに突き刺さる。1990年代随一の空中の覇者である。元ドイツ代表ストライカー。

1985年夏、バイヤー・ユルディンゲン・ジュニアチームに加入、最初のシーズンにいきなり30得点を記録、1986年にブンデスリーガにデビューを果たし今後の成長に期待の持てる新人として注目を集める。
しかし、フェルドカンプ監督の解任と同時に、ビアホフも居場所を失い
ハンブルガーSV、ボルシアMGと渡り歩くものの、その存在が重要される事はなく、1990年には隣国オーストリアに活躍の場を求めなければならないほどだった。しかしこの移籍が転機となる。ここでヴィーバッハ監督の信頼を得、チームの中心としてこのシーズン32試合、23得点を記録する大活躍を見せ得点王獲得、この活躍から翌シーズンには本人の憧れでもあったイタリアへ渡る事となる。イタリアのインテルへと移籍したがすぐさまアスコリへと放出され、しかも同クラブはセリエB降格の憂き目に遭ったが、ビアホフは着実に監督、チームメートの信頼を得、チームのエースストライカーとして奮迅。すると1995年にアルベルト・ザッケローニの手によってウディネーゼへと引き抜かれ、1995/96シーズンにはセリエAで17得点を挙げる活躍を見せた。
そして彼の運命を変えるビッグトーナメントが1996年にイングランドで行われる。ドイツ代表監督ベルティ・フォクツの夫人の提言もあり欧州選手権のメンバーに選ばれたビアホフは、途中出場の僅かな時間で一躍スターダムにのし上がった。決勝戦までは僅か2試合に途中出場し得点も挙げることができなかったが、決勝のチェコ戦で全てが一変する。1点リードされて迎えた後半24分、ついにビアホフがピッチに姿を現す。出場から僅か4分後に得意のヘディングシュートで1点を返し同点に追いつくと、延長戦ではユルゲン・クリンスマンからのパスを受け素早く反転、間髪入れずに左脚でシュートを放ちこれがゴールデンゴールとなった。この2得点でドイツを3度目の欧州王者に導くと、つい先ほどまで低迷するドイツ代表の控えFWでしかなかったビアホフの名は瞬く間に世界中に広まり、一躍欧州でも屈指のFWと目されるようになる。
1997/98シーズンにはリーグ戦で27得点を挙げる驚異的な活躍を見せセリエAの得点王に輝くと、1998年にミランがビアホフ獲得に動く。グランデミラン終焉後、低迷を続けていたミランだったが、ビアホフが加入した1998/99シーズンにはスクデットを奪回。彼自身も20得点を挙げる活躍でチームの勝利に大きく貢献した。その後モナコを経てキャリアの最後に再びセリエAへ復帰、自身現役最後の試合となる最終節ユベントス戦にてハットトリックを達成し有終の美を飾った。

1996年2月21日ポルトガル戦にて代表デビューを果たし
この年開催された欧州選手権の決勝にて2得点を記録し優勝に貢献、
その名前を世界に知らしめる事になる。
その後不動の地位を確立し1998年、2002年ワールド杯と2大会連続でワールド杯にも出場、自身最後の大会となった2002年ワールド杯ではスーパーサブとして5試合に出場し準優勝に貢献した後、代表を引退した。
代表通算70試合37得点。

プロのサッカー選手として活躍する側、ハーゲン大学に13年も籍を置き、現役生活も晩年となる2002年5月に経営学の学位を取得。現在はドイツ代表のマネージャー職に就き、将来的にはナイキ社のマーケティング部門での活躍が期待されている。

彼にはロナウドのようなスピード、得意技は無かった。バッジョやデルピエロの様な華麗な技術をもっているわけでもない。しかし確実にゴールを決める術と空中戦を制する高さをビアホフは持っていた。ビアホフに渡せば決めてくれる。誰もがそう感じる選手であった。90年代を沸かせた空中戦の支配者"ジャーマンタワー"オリバー・ビアホフ。彼も忘れがたい選手の1人である。







Gianni Rivera ジャンニ・リベラ

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フルネーム ジョバンニ・リベラ
Giovanni Rivera
ニックネーム 超頭脳
国籍 イタリア
生年月日 1943/8/18
出身地 バレ・サンバルトロメオ
ポジション MF(OH)
身長 175cm
体重 68kg
代表デビュー 1962/5/13(通算60試合,14得点)
所属クラブ
1953-60 アレッサンドリア
1960-79 ミラン
主なタイトル
1968年 欧州選手権優勝
1962/63 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1968/69 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1969年 インターコンチネンタルカップ優勝
1969年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

歴代イタリア人最高のファンタジスタと称され、60年代から70年代にかけてミラン、そしてイタリア代表にて活躍したスーパースター。
きゃしゃな身体つきながら繊細かつ優雅なテクニックを駆使したドリブルと鋭い長短のパス、誰にも想像すらつかないプレーにて観客を魅了し
得点感覚にも優れた能力を備えた。「ゴールデンボーイ」「超頭脳」の異名を持つ。

故郷のアレッサンドリアにてキャリアをスタートさせ
その素晴らしいテクニックから1960年に当時としては異例の6万5千ポンドにて強豪ミランへ引き抜かれる。移籍1年目からレギュラーとして活躍し2年目となる61/62シーズンのスクデット獲得に貢献、
翌シーズンにはチャンピオンズカップ制覇にも貢献し、一気にビッグネームの仲間入りを果たし、この年のバロンドール投票ではヤシンに次ぐ2位に選出された。
その後もミランの黄金期を支え3度のスクデット、4度のコパイタリア、2度のカップウィナーズカップ、2度のチャンピオンズカップ、
1度のインターコンチネンタルカップ等、獲得しうるタイトルすべてを手中にした。

イタリアユース代表として活躍した後1962年5月13日ベルギー戦にてフル代表デビュー、3週間後のワールド杯にも1試合ながら出場を果たし、以後4大会連続でワールド杯出場、1970年大会では準決勝ドイツ戦にて貴重な決勝弾を挙げ歴代ワールド杯名勝負の1つに挙げられる試合の勝利に
大きく貢献した。(スコア=4ー3)
続くブラジルとの決勝戦では後半残り6分からの出場にとどまり、そのテクニックを披露する間もなく試合は敗退、当時の代表監督バルカレッジは国民から大きな批判を浴びた。
このときペレはジャンニ・リベラを出場させないことに対し
「イタリアはジャンニ・リベラがベンチだと聞きます。
 彼より素晴らしい選手が11人もいるチームに、ブラジルが勝てるわけがありません」 と話した。
当時のイタリアにはもう1人のファンタジスタ、サンドロ・マッツォーラが君臨したため思うような出場機会に恵まれなかったのは残念な所だが、それでも通算60試合に出場し
14得点を挙げている。

彼に憧れた少年は数知れない。優れたテクニックと一瞬のインスピレーションは、見る者を惹きつけてやまない魅力を持っていた。ファンタジスタの先駆けといえる。
ミランが、いやイタリアが誇る超頭脳ジャンニ・リベラ。未だにミラニスタから絶大な支持を受け愛される男である。今はただ静かにミランの行く末を見守るミラニスタの一人でもある。





Marcel Desailly マルセル・デサイー

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フルネーム マルセル・デサイー
Marcel Desailly
ニックネーム ザ・ロック,モンスター
国籍 フランス
生年月日 1968/9/7
出身地 アクラ(ガーナ)
ポジション MF(CH),DF(CB)
身長 183cm
体重 80kg
代表デビュー 1993/8/22
所属クラブ
1986-92 ナント
1992-93 マルセイユ
1993-98 ミラン(イタリア)
1998-04 チェルシー(イングランド)
2004- アル・イテハド(カタール)
主なタイトル
1998年 ワールドカップ優勝
2000年 欧州選手権優勝
1992/93 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1993/94 UEFAチャンピオンズカップ優勝
 
人呼んでモンスター。群を抜く身体能力を持ち、フィールドプレーでも空中戦でも1対1に負けることはまず無い。強靱な肉体でいて柔軟な身体能力を持ち合わせ、鉄壁とも言えるDF能力は世界最高クラス、驚異的な跳躍力を生かして空中戦でも強さを見せ、ラインの統率にも抜群のセンスを見せた元フランス代表ディフェンダー。

ガーナのアクラに生まれるが4才の時両親と共にフランスへ移住する。
名門ナントのユースチームで育ち86/87シーズンにトップデビューを果たすと88/89シーズンよりレギュラーとして活躍、その後マルセイユへ引き抜かれ92/93シーズンのチャンピオンズ・カップ制覇に大きく貢献する。
この時決勝で戦ったACミランに翌シーズン途中より引き抜かれミランを去ったライカールトの後継者として不動の地位を確立、2年連続となるチャンピオンズ・カップ制覇を果せば2度のスクデット獲得にも多大なる役割を果たし、その能力の高さを証明してみせた。
98/99シーズンよりプレミアリーグへ渡り、強豪チェルシー守備の要として活躍、99/00シーズンにはFAカップ優勝に貢献。ここでも守備の中心として活躍。全盛期に比べ身体的な衰えはみえるものの、存在感はいまだ健在。キャプテンとして、チェルシーに欠かせない存在として活躍を続けた。
また、チームメイトでもある同郷のW・ガラが、彼とプレーをする事で
フランス代表DFの主力にまで急成長を遂げている。
現役続行を希望しカタールでプレーを続けた。


フランス代表デビューは1993年8月22日スウェーデン戦。
以後、フランス代表に欠かせない存在となり不動のCBとして君臨、
1998年母国開催となったワールド杯では全7試合に出場し
ブランと共に鉄壁の守備を見せて見事優勝に貢献、攻撃のMVPがジダンならば、守備のMVPは間違いなくデサイーだった。
更に2年後に開催された欧州選手権も制覇して見せた。
その後フランス代表キャプテンをデシャンから引き継ぎ、高い統率力を見せるも2002年ワールド杯では攻撃陣の不調から、まさかのグループリーグ敗退となった。 

2003年4月30日エジプト戦、代表キャップを104とし、
フランス代表歴代最多出場記録保持者となった。
2004年欧州選手権クロアチア戦を最後に代表を引退、通算116キャップ。

チェルシー在籍中にはスピード不足も指摘されたが、それでも長年培ってきた経験や読みは依然他の追随を許さない素晴らしいプレーを見せてくれた。
チェルシーで彼はファンが選ぶこの100年の中で現キャプテンジョン・テリーと並んでベストCBの称号に輝いている。
忘れ難き男ザ・ロック・・・今尚彼の活躍はミラニスタに語り継がれる。


LEONARDO レオナルド

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フルネームレオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ
国籍 ブラジル
生年月日 1969年9月5日
出身地 ニテローイ
ポジション MF ・ DF
身長・体重 177cm・71kg
個人タイトル なし
ワールドカップ1994年優勝
       1998年準優勝
所属クラブ
1987-89 フラメンゴ
1990-91 サンパウロ
1991-93 バレンシア(スペイン)
1993 サンパウロ
1994-96 鹿島アントラーズ(日本)
1996-97 パリ・サンジェルマン(フランス)
1997-01 ミラン(イタリア)
2001 サンパウロ
2002 フラメンゴ
2002-03 ミラン(イタリア)

スピード、技術、判断力を備えた元ブラジル代表スタープレーヤー。
左サイドバックとして名を挙げた後、持ち前の創造力溢れるプレーで
チームの司令塔的役割を担い活躍、ピッチ外で見せる優しい笑顔からは
想像出来ない強い精神力を備え、また、Jリーグでプレーしていた事もあり今尚根強い人気を誇る。

10代の頃から将来を嘱望されブラジル名門フラメンゴにてキャリアをスタート、左サイドバックから攻撃的MFまで多彩な才能を発揮すると1990年に強豪サンパウロへ移籍する。ここでも不動の地位を確立させ1991年には州選手権、全国選手権制覇に貢献した後、スペイン名門バレンシアへ加入する。
ここでの2シーズンはほとんどの試合に出場、通算6得点を挙げる。
1993年に古巣サンパウロへ復帰、この年のトヨタカップでは来日し
欧州代表ミランを敗り世界チャンピオンの称号を手中にする。
その後、元鹿島アントラーズのスターであり現日本代表監督ジーコの勧めからJリーグにてプレー、その華麗なるプレーと端正な顔立ちから瞬く間にファンの心を掴み、1シーズン制で開催された1996年には
シーズン前半戦のみの出場ながら優勝に大きく貢献、シーズン途中に
惜しまれながら再び欧州へと渡る事となったが、彼が魅せた数々のプレーは印象深い記憶としてファンの心に深く刻まれている事だろう。
PSG移籍当初、欧州では通用しないと痛烈な批判も浴びたが、すぐにこれが間違いであった事を証明、すぐにチームに馴染むとカップウィナーズカップでは快進撃を続けチームをファイナルへ導いて見せる。
結局はバルセロナ、ロナウドのPK一発に敗れてしまったが、彼の欧州での評価は更に高いものとなったのである。
翌97/98シーズン開幕直後、ミランへ引き抜かれ1997年9月13日ラツィオ戦にてセリエAデビュー、このシーズンこそチームは10位に低迷したが翌シーズンにはスクデット獲得を達成、自身も12得点を挙げる活躍を見せた。
2001年より7年振りに母国へ戻った後、02/03シーズンにミランへ復帰、引退後はミランのフロントへ入り、現在抜群の存在感を見せるカカの獲得に大きな役割を果たしている。

1989年ワールドユースにて3位に貢献、1990年10月17日チリ戦にてフル代表デビューを果たしたが、その後は出場機会に恵まれなかった。
1994年に代表復帰を果たし同年ワールド杯にはレギュラーとして出場、しかし決勝トーナメント1回戦のアメリカ戦にて故意の反則と見られ退場処分、4試合の出場停止を受け、この瞬間に彼のワールド杯は終わる事となった。
チームが優勝出来た事が何よりもに慰めであったろう。
ワールド杯以降も代表の中核を担い1997年コパアメリカでも優勝、
1998年ワールド杯には全7試合に出場し、自身初となる決勝の舞台にも立った。
その後は代表を離れるも2002年ワールド杯南米予選にて代表復帰を果たし2001年8月15日パラグアイ戦に出場、勝利に貢献したのを最後に彼のセレソンでのキャリアは終わる事となった。

レオナルドは現在もミランの一員として、その存在感を十分に示している。彼は活躍の場をサンシーロからミランのフロントに移し、副会長代理・代表取締役補佐としてミランの為に活躍している。





Demetrio Albertini デメトリオ・アルベルティーニ

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フルネーム デメトリオ・アルベルティーニ
Demetrio Albertini
ニックネーム デミー,コンダクター(指揮者)
国籍 イタリア
生年月日 1971/8/23
出身地 ミラノ
ポジション MF(CH)
身長 180cm
体重 77kg
代表デビュー 1991/12/21
所属クラブ
1988-90 ミラン
1990-91 パドバ
1991-02 ミラン
2002-03 アトレチコ・マドリード(スペイン)
2003-04 ラツィオ
2004-05 アタランタ
2005 バルセロナ(スペイン)
主なタイトル
1988/89 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1989年 インターコンチネンタルカップ優勝
1989/90 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1990年 インターコンチネンタルカップ優勝
1993/94 UEFAチャンピオンズカップ優勝

素晴らしい戦術眼と鋭い状況判断によって90年代のミラン、そしてイタリア代表にて活躍、時折放つ強烈なミドルシュートも持味である。ファンタジスタの先駆け、ジャンニ・リベラの再来とまでいわれる才能溢れるプレーヤー。パスセンス、状況判断に優れミドルシュートも脅威そのもの。また精神的にも非常にタフで、アルベルティーニが周りに与える影響力は計り知れない。
P・マルディーニがそうであったように、この選手もまたミランの栄光と共に、素晴らしい成長を遂げたスタープレーヤーである。

17才の時にミランのユースチームに加入し、すぐにその非凡な才能を
見せて「ジャンニ・リベラの再来」とまで言われるほどの評価を得て、
1989年1月15日コモ戦、弱冠18才にしてセリエAデビューを果たす。
90/91シーズン、スター選手の溢れるミランからパドバへレンタル移籍させられるが、ここでの活躍が認められ翌シーズンには再びミランに復帰、このシーズンからのスクデット3連覇に大きく貢献し不動のレギュラーとして君臨、通算5度のスクデット、2度のチャンピオンズ・リーグ制覇等、一時代を築いた。
その後現役生活すべてをミランに捧げるはずであったが、若手に押し出される格好でセリエA通算321試合28得点の記録を残してスペイン名門アトレティコへ電撃移籍を果たす。
ここでもその卓越した技術と戦術眼は衰えを知らず質の高いプレーを見せ中でも第18節のレアル・マドリードとのダービーマッチでは後半ロスタイムに華麗なフリーキックから同点弾を記録し、人々に強烈な印象を残した。
03/04シーズンよりセリエAへ復帰ラツィオにてプレーした後
アタランタを経て04/05シーズン途中よりスペイン強豪バルセロナへ。

敬虔なクリスチャンとしても知られ、ピッチでは勿論、私生活でも羽目を外す事の無い彼を、敬意を込めてカトリックの司祭を意味する「プレーテ」と呼ぶ人も多い。ちなみに彼のお兄さんは本物のカトリック司祭である。

イタリア代表デビューは1991年12月21日キプロス戦。
その後主力として2度のワールド杯を経験するなど、貴重な戦力として活躍する。
しかし、2000年夏より代表指揮官となったトラパットーニの元では
重要視されず、その不満を一度口にしたのをきっかけに代表から離れる事となり2002年ワールド杯ではメンバーにも選出されなかった。
代表通算79試合2得点。

残念ながら05/06を最後に現役生活と別れを告げる。ミランの栄光を経験した選手がまた1人スパイクを脱ぐ事になったが我々は忘れない。
いつかアルベルティーニが再びサンシーロに姿を見せる時をいつまでも待っている。
その時はもう一度君に言わせてくれ、あの時のように...
「ミランは君の心の中に、君はミラニスタの心の中に、ありがとう、デメトリオ」





~サッカー名(迷)言集~ その2

イバン・サモラーノ
「バッジョがいなくなって(インテルから移籍)から、毎晩彼と楽しいサッカーをする夢を見るんだ。」

「ピッチの中にこそ俺の生き場所がある」

パオロ・マルディーニ
「もっとも美しいサッカーとは0-0もしくは相手選手のミスによる1-0である。」

ヴァレリー・カルピン 
人を敬う気持ちってのはサッカーでは時として邪魔をする。
サッカー選手は、厚かましく、どんどん前に出て行くようでないといけない。
何も怖がらない、やたらと敬意を払いすぎない、遠慮を捨てる、そういう性格が必要なんじゃないかな。
とりわけ、ピッチの上ではね。ピッチでは敬意を払うことをルール上禁止にすべきだ!
例えばジダンは世界最高の選手だと思うよ。でもピッチの上ではただの一選手に過ぎないんだ。
俺がジダンに敬意を表するのは、あくまでピッチの外にいるときであって、ピッチに立ったら何者でもない。俺たちは皆同じ選手なんだ」

ピーター・シュマイケル
1998-1999 CL決勝でバイエルン・ミュンヘンをロスタイムの2ゴールで下し、マンチェスター・ユナイテッドが三冠を達成した直後
「アンデルセンでさえ、この物語は書けないだろう」

フランシスコ・コルネホ (マラドーナの育ての親と呼ばれる人)

「もしディエゴが白いタキシードでパーティに出かけても、突然泥だらけのボールが空から降ってきたら、絶対に胸でトラップするだろう」

フリスト・ストイチコフ
94年W杯ブルガリアの快進撃中。神について
「我々は二人とも同じキリストという名前だ。向こうは空の上、こっちは地上だけど、俺にだって奇跡を起こすことができる」

ペレ
「ボールは丸い」

「世界で一番いいFW? 自分。
 世界で一番いいMF? 自分。
 世界で一番いいDF? 自分。
 世界で一番いいGKはと聞かれても、自分と答えるよ」

「サッカーは魔法を使って、すべての人々を夢中にさせる」

「ペレを目指すより、最高の自分を目指せ」

1950年ブラジルW杯決勝、ウルグアイにブラジルが決勝で敗れて泣いていた父親に
「泣かないで、お父さん。ボクが大きくなったら、ワールドカップを取ってあげる」

1970年メキシコW杯決勝、イタリアがジャンニ・リベラを出場させないことへの皮肉
「イタリアはジャンニ・リベラがベンチだと聞きます。
 彼より素晴らしい選手が11人もいるチームに、ブラジルが勝てるわけがありません」

スタンリー・マシューズの死去を悼んで
「サッカーがどうプレイすべきものなのかを教えてくれたのが彼だった」

引退、最後の言葉
「皆さん、この言葉を三回繰り返してください。love-love-love」

ボビー・ロブソン
「戦術はロナウド」

ヨハネ・パウロ二世 (ローマ法王)

ロベルト・バッジョとの会話
「ロベルト、あなたには本当に悩まされています」
「法王様、私が仏教徒であるのが問題ならばお許し下さい」
「あなたの信仰が問題なのではありません。どうやったらあなたのシュートを止められたか。 私は子供の頃ゴールキーパーだったのです」

リヌス・ミケルス
「美しい事はとても大切だ。しかし、勝つことも同じくらい重要だ」

ヨハン・クライフ 
「ヨハン。なんでまた14番なんて番号を選んだんだ?」
「だって9番と言えばディ・ステファノ。10番はペレ。僕がそんな番号を付けたらまぎらわしいじゃないか」

「貴方はしばしば世界最高の選手だといわれるが?」
「私もそう思う」

「1対0で守りきって勝つより、4対5で攻めきって負ける方が良い」

「あなたのような天才に凡人の気持ちがわかるのですか?」
「私はサッカーをはじめてから、自分より下手な選手としか接したことが無いので誰よりも彼らのことがわかっている」

ペレを評して
「私は新しいステファノ(アルフレッド・ディ・ステファノ)になれるかもしれないが、新しいペレにはなれない。彼は唯一、理論を超えている」

ライアン・ギグス
「フットボール選手には、色んなタイプがいる。自信のある選手、才能のある選手。才能だけでプレーできることはあるけれど、自信だけでプレーすることはできない」

リリアン・テュラム
「ロナウドがボールをもって向かってくる。僕は止めようとして構える。 でも顔を上げた時、彼はもうそこには居ないんだ」

ルート・グーリット 
「ディスコで踊っていたら、背の低い男ががいきなり抱きついてきた。
最初はただのファンだと思ったけど、周りにはボディーガードがいた。
よくみたらマラドーナだった」

ローラン・ブラン 
引退の際
「マンチェスター・ユナイテッドは私が生まれる前から存在していたクラブ。だから私が居なくなっても、変わらずそこにあり続けるだろう」

呂比須ワグナー 
「毎日練習に行く時に僕は思うんですよ、いい車に乗って、いい服着て、いいスパイク履いて。この国に何とか恩返ししなければいけないって。そのためには、やっぱり代表ですよね」

ジャンニ・アニエリ (元ユベントス会長)

「ゴールが決まって誰が決めたのかわからない時は、パオロ・ロッシが決めたと言っておけばまず間違いない」

「プラティニを獲得するのに払った額はパンの代金程度だった。だがパンにはフォアグラが塗られていたんだ」

「カンピオーネを戦術で縛ってはいけない。好きなようにプレーさせるべきなんだ」

「ダーヴィッツと道で会いそうだったら、その道を避けるように勧めたい」

「バッジョ?筆を執っている時のバッジョは”ヘボ画家”に見える。しかし、その作品を目の前にするとラファエロのタッチを感じる」

「ロベルト・バッジョがラファエロなら、デル・ピエロはピントゥリッキョに例えられる」

「ゴドーを待つように、私はアレックスの復活を待つよ」
不調のデル・ピエロを戯曲『ゴトーを待ちながら』になぞらえて

ジネディーヌ・ジダン 
「人々を楽しませたい。それはいつも考えている。そうすれば自分が楽しめるから」

ジョージ・ウェア 
「その仕事は僕には向いていない。政界では政敵を攻撃したり、倒したりしなくてはならない。僕は多くの人と友人でいたいんだ」

ジョージ・ベスト
「ガスコインのユニフォームの背中には10と書かれている。最初はポジションを表しているのかと思ったのだが、後に知能指数であることがわかった」

「最高のレベルを極めるには即興で作られる芸術が必要なんだ」

木村和司
マラドーナと対戦して
「試合始まってすぐにやる気なくしたよ。だってフィールドに1人宇宙人がいるんだもん」

ゲオルゲ・ハジ
「俺は試合を造ろうとプレーしたことはあるが、試合を壊そうとプレイしたことは一度もない」

ドゥンガ 
1998年フランスW杯、開幕のスコットランド戦後、
ブラジル人記者の評価が 1.ドゥンガ 2.レオナルド 3.サンパイオだったことを受け
「どうだ、見てみろ。これで日本のJリーグに行った選手はセレソンに選ばれないというくだらない噂はもう終わりにしてくれ。
レオナルドは素晴らしいプレーを見せたし、サンパイオはゴールを決めた。私自身もこのように今日の試合のMVPに選ばれた。もはや日本はサッカー後進国ではない。私はJリーグと日本サッカーに感謝している」

磐田の選手達に
「私には、まだこのBoysに教えることがたくさんある」

ドラガン・ストイコビッチ
「もし我々とクロアチアの選手が再び同一チームで戦えば、アルゼンチンとブラジルの連合軍でも私達には勝てないだろう。何故なら私たちはかつて同じ国に属していたから…」

「生まれ変わっても私はもう一度セルビア人になりたい」

ユーロ2000、ノルウェー戦後、マンオブザマッチを獲得し
「世界は長く不在した日本のピクシーを忘れていたのかもしれない。
しかし、今日、世界は確かに私の存在を思い出したのです」

ラモス瑠偉
1999年8月23日、引退会見で
「魂でサッカーを愛した男を覚えておいてほしい」
「生まれかわったら早く帰化して一緒にワールドカップへ行きたいです」

ACミラン サポーター
ファンバステンの引退表明後の試合で掲げられた横断幕
「ファンバステンのいないサンシーロなんて、羽根の無い風車だ」

ラツィオの選手としてサンシーロに戻ってきたアルベルティーニのために、ミラニスタが用意した横断幕
「ミランは君の心の中に、君はミラニスタの心の中に、ありがとう、デメトリオ」

それに対してアルベルティーニがラツィアーレに用意してもらった横断幕「みんなありがとう、一人の例外もなく」

イタリア記者
不調のバッジョへの採点コメント
「羽を休めている。いつか再び羽ばたく」

イングランド記者
86年メキシコW杯
「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」

デンマーク代表チーム
1992年、EUROスウェーデン大会で優勝して
「この勝利はユーゴスラビアのものだ」
ユーゴスラビアが内戦のため出場権が剥奪され、デンマークは代替出場、 準備期間はわずか10日間だった。

アーセン・ベンゲル 
「スタンドに足を運んでくれるサポーターを裏切る権利など、我々にはないのだ」

アレックス・ファーガソン
「確かに、カントナには数えきれないほどの欠点がある。彼は人の指図を受けない人間だ。しかし彼が我がクラブにもたらした最大の功績は、
完璧をめざすならトレーニングをおろそかにするなということを思い出させてくれたことだ」

エリック・カントナ 
何試合かスタメンから外された後、途中出場していきなりゴールを決め、その時に呟いた一言
「俺がボスだ!」

「チームなんてどうでもいい、俺が目立てばいいんだ」

「It's just a game. It's not a war.」(意訳で「もっと楽しもうぜ」)

「監督やチームメイトが何を言おうと関係ないね。興味がわかないんだ」

「フットボールで最も重要なのは、集団として何をするかだ。
  個人として脚光を浴びたいなら、私はテニスのシングルをやる。
 あるいは素敵な女性をパートナーにして混合ダブルスをやる」

マラドーナ提案の「選手の権利を守る会」に参加を求められた時
「いいでしょう。ただし、条件があります。その会とやらに俺が参加する条件は、あなたがそこの会長におさまることだ」

「私は子供の心を忘れようと思ったことは一度もない。
世間では普通と違う人間を異常を呼ぶ。私はそう呼ばれることを誇りに思っている」

「俺の墓石には、どんな言葉も刻んで欲しくない。まっさらな石のままでいい。俺という人間をいつまでも大きな謎につつんでおきたいんだ」

引退試合にて
「みなさん、私はサッカーに対する情熱を失ってしまいました。今までありがとう」

オレ・グンナー・スールシャール
「唯一怖かったことと言えば、私のゴールを祝福しにカントナが追いかけてきた時でした」

マッシモ・マウロ
「私はジーコ、プラティニ、マラドーナとチームメイトだったが、最高の選手はと聞かれれば間違いなくマラドーナと答える。
彼はミーティングの時、10分でも20分でも平気でオレンジやレモンでリフティングしていた。その姿を見て我々はいつも彼に絶大な信頼を置けたんだ」

マルチェロ・リッピ 
「私がナンバーワン監督だって?とんでもない。私は単に、”ナンバーワンチーム”の監督にすぎないのです」

ネドベドを評して
「彼は夢の中でも走っている」

三浦和良
1992年、アジアカップ予選の対イラク戦で決勝弾を決めて
「魂込めました。足に」

1998年、フランスW杯直前で代表落ちし
「代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」

「世間の人たちは万が一って表現するけど、FWって連中は万が一を心底信じて疑わない。そして、それを形にしようと準備する。99.9%の過去より0.1%の未来なら、0.1の方に賭ける」

「日本も世界なんですよ」

リケルメ
「代表チームに入るのはすべての物事の中で最も素晴らしい事であり、 常に自分の目指す所だ。だから代表チームに戻れるならどんな事もする。例えば、背番号2をつけてDFとしてプレーすることでも。」

ロイ・キーン
「ユナイテッドは自分が加入してから最強になった」

ホルヘ・バルダーノ
「試合中にボールがオレンジにすり替わってもディエゴは同じようにプレーするだろう」

ジョン・グレゴリー
「いいストライカーがいれば、試合に勝てる。だが、いいディフェンダーがいれば、タイトルがとれる」

ディノ・ゾフ
「キーパーもワインと同じ。熟した方がうまい」

「準優勝だって凄いことじゃないか。素晴らしい大会にしてくれた。」

カルロ・アンチェロッティ
「ヨハン・クライフ氏は、楽しみたいのなら映画館にでも行けばいい」

アドリアーノ・ガッリアーニ
セリエAデビュー20周年を向かえたマルディーニに対し
「彼はミランのシンボルではない。ミランそのものだ」

ニリス・リードホルム
デビュー戦で緊張気味のマルディーニに対して
「パオロ、遊んでこいよ。これはゲームなんだから」

ジジ
「試合に勝ちたいなら、ガリンシャにボールを渡せばいい」

マリオ・ザガロ
「前日からひどい雨だった。すると、決勝相手のスウェーデンは、ピッチ全面を布で覆ってくれた。足技に優れたブラジルの動きを封じたいなら、ピッチは濡れたままにしておいたほうがいいにもかかわらずだ。感激したよ。スウェーデンは、勝利以上に価値のある行動をとったんだ」

マット・バスビー
「成功は確かに喜ばしい。しかし勝った試合に浮かれているだけでは何かを成し遂げたとは言えない。名誉のための勝利に価値はないが、全力を尽くしたなら敗戦をなんら恥じることはない。フットボールはロマンであり、ミステリーであり、詩にも似ている。だからこそ世界で最も愛される永遠のスポーツなのだ」 

ユルゲン・シュレンプ (メルセデスベンツ会長)
ユーロ2000の惨敗により代表スポンサーが次々と降板もしくはTVスポットCMのキャンセルをしているなかで
「どん底に落ちた者を見捨てるわけにはいくまい。」 

カルロ・マッツォーネ
「ブレシアにいる以上、バッジョは『負ける』ということにも慣れていかなくてばならない。しかし、頭の良い彼のことだから、すぐに理解するだろう」

「バッジョはほんとに、人々から最も愛されてる選手だね。遠征の時とか、すごい数のファンに取り囲まれるんだよ。100人ぐらいにサインしたところで、ワシが怒ったふりをして止めさせるんだ。じゃないと、キリがないからね。バッジョみたいなヤツがいると、主人公は絶対ミステル(監督)なんかじゃないよ。主人公は彼以外、誰がいるってんだい? 昨シーズンのボローニャ戦、我々ブレッシャの残留がかかってた試合だ。出場停止の身分だったワシは、バッジョにこう頼んだ。『ワシの代わりを任す。ゲームは頼んだぞ』と。彼のカリスマ性だけが頼りだったんだ。バッジョはワシにこう答えたんだよ。『ミステル、安心して任せてください。僕が、みんなをリードしますよ』ってね。それで、残留できたんだよ、我々は」

ダニエル・パサレラ
「勝利は全ての国民のもの、敗戦は監督一人の責任」

ソラーリ
「彼(マラドーナ)はボールを蹴り始めてから神になったんじゃない。神様がサッカー選手になることを選んだんだ」

ジーコ

「8才の頃からサッカーに親しんできた私が、最初のスパイクを手にしたのは、13才のときでした。自分のスパイクを持つなんていうのは夢でした。だから、スパイクを貰ったときは、本当に嬉しかった。
真新しいスパイクを履いてみると、自分に不可能なプレーはないように思われました。私にとってスパイクは、魔法の靴だったのです。
しかし、私がサッカーの指導をするために辿り着いた異国ニッポンのロッカールームには、泥の付いたままのスパイクが、無造作に転がっているではありませんか。私は非常に悲しくなりました。そして、同時に怒りが込み上げてきたのです。
『来週までに、ここにあるスパイクを、みな磨いておきなさい』
私はそう言った後、宝物のように大切に履きつづけてきた古いスパイクをカバンから取り出して、靴クリームで丁寧に磨き始めました。驚いたのは周りにいた選手たちです。まさか、私がスパイクを磨くとは思ってもいなかったのでしょう。次の週からは、彼らの磨き抜かれたスパイクで、どのボックスも輝いて見えました。
私はサッカーで名声を得ることができました。でも今なお、スパイクをサッカーの心と思い、感謝の気持ちで磨くことに変わりはありません。そして、初めてスパイクを貰ったときの、あの感動を忘れることは出来ません。」

「マラドーナとジーコどっちがうまいか?」という質問に対して「そんなの即答だよ。私の答えはマラドーナだ」

トニーニョ・セレーゾ
「サッカーは一番難しいスポーツだよ。だって、足を使ってプレーするんですよ。足は脳から一番遠くにある部分でしょう」 

ガットゥーゾ
「俺が相手から10回ボールを奪うことは1ゴール決めるのと同じかそれ以上の価値があるんだ。だから俺は誰に言われようと、自分のプレーに誇りを持っている」

ネドベド
「こんなに素晴らしい賞を取っても、僕は変わりません。明日は、いつもどおり練習します。なぜならば、僕はジダンやフィーゴやロナウドみたいな、スーパーな選手ではないからです。チームに貢献するため、僕には練習を積み重ねてコンディションを常に良く保つしかないのです」

「美しいシュートがゴールになるんじゃない!ゴールになったシュートすべてが美しいんだ!!」

フェルナンド・イエロ
「気持ちよく別れを告げたいと思います……代表チームのユニフォームを着た私のプライドを奪い去ることは誰にもできません」

スタンリー・マシューズ
「自らを厳しく律し、フットボールへの情熱を失わなければ、40代になっても20代の頃を上回るようなプレーはできるのだ」

















Cafu カフー

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フルネーム マルコス・エバンゲリス・ジ・モラエス
Marcos Evangelista de Moraes
ニックネーム カフー
国籍 ブラジル
生年月日 1970/6/19
出身地 サンパウロ
ポジション DF(RSB),MF(RSH)
身長 176cm
体重 75kg
代表デビュー 1990/9/12
所属クラブ
1990-94 サンパウロ
1994-95 レアル・サラゴサ(スペイン)
1995-97 パルメイラス
1997-03 ローマ(イタリア)
2003- ミラン(イタリア)
主なタイトル
1994年 ワールドカップ優勝
2002年 ワールドカップ優勝
1992年 インターコンチネンタルカップ優勝
1993年 インターコンチネンタルカップ優勝
1994年 南米年間最優秀選手(エル・パイース紙)

90分間以上休まずプレー出来る驚異的なスタミナを備え、右サイドバックとしてディフェンス能力はもちろん俊足を活かした鋭い攻め上がりから繰り出される正確なクロスが最大の持ち味。時にはストライカーかと思われる程のポジションどりから果敢にゴールも狙うブラジル代表スタープレーヤーであり、個性豊かなセレソンをまとめ上げるキャプテンである。

サンパウロ市南西のカポンヘドンド地区ジャルジンイレーネという貧民区で育ちサッカーに夢見る少年時代を過ごす。12度のプロテストに落選するという経験を経て1988年に地元強豪サンパウロへ入団、名将テレ・サンターナ監督によって右サイドバックにコンバートされた事で才能を開花させ翌年よりレギュラーとして活躍する。
1991年には全国選手権、州選手権制覇に貢献するなど不動の地位を確立すると1992年、93年のリベルタ・ドーレス杯、トヨタカップの連覇にも大きな役割を果たす。
94/95シーズンよりスペインへ渡り、カップ・ウィナーズ・カップ優勝に貢献するがチームにうまく溶け込む事が出来ず1年で帰国、パルメイラスでは1996年の州選手権優勝に貢献し再び輝きを取り戻した。
97/98シーズンより セリエ A ローマへ移籍すると世界でも有数の
右サイドタレントとして活躍、00/01シーズンには18年振りとなるスクデッド獲得に大きく貢献して見せた。
2003年より横浜マリノスへの加入がほぼ確定していたが、ミランからのオファーを受け、セリエAにとどまる事となった。日本でその姿が見れないのは残念であったが、まだまだ欧州のトップで活躍出来るだけに納得のいく所である。

1990年9月12日スペイン戦にて代表デビュー、
当時右サイドバックとして活躍していたジョルジーニョの後継者として注目を集める。
1994年ワールド杯決勝では怪我のジョルジーニョに代わって舞台に立ち優勝に貢献、その後レギュラーに定着し1997年コパ・アメリカ優勝から不動の地位を確立した。
1998年ワールド杯では全7試合に出場、自身2度目となる決勝の舞台では地元フランスの前に敗れ準優勝に終わったが、
2002年ワールド杯ではキャプテンとして覇権奪回に貢献すると同時に、通算3度ワールド杯決勝の舞台に立つという前人未到の記録を残した。

誰もがあこがれるWカップ。さらには決勝の舞台ともなれば、夢の大舞台であることは容易に想像できるであろう。決勝の大舞台に3度立ったカフー。
2006年鉄人は自身4度目の大舞台と、王国の6度目の栄冠へ向けていざドイツへ・・・

~サッカー名(迷)言集~ その1

プラティニ
サッカーに人種はない。下手な白人ほど黒人を差別する。

インタビューでロベルト・バッジョについて聞かれ
「彼は純粋なストライカーでもなければ、ゲームメーカーでもない。彼はフットボール史上唯一の9・5番の選手だ。
何度も言うようにこれは彼に対する批判ではなく、私の言葉に置き換えた彼に対する最高の賛辞だ」

「サッカーはミスのスポーツ、プレイヤーが完璧なプレイをしたら点は入らない。永遠に0対0です。」

我々がボールを使ってすることを、マラドーナはオレンジでやってのける

ロベルト・バッジョ
「PKを外すことのできるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」

「PKは決める事より、蹴る勇気の方が尊いんだ」

「決めたPKは誰も覚えていてはくれないが、はずしたPKは皆いつまでも覚えているんだ」

「思いついたプレーのなかで、 いつも一番難しいものを選択することにしている」


「今を戦えない者に次とか来年とかを言う資格はない」

「“新しいバッジョ”になんて興味はない。それよりも僕を超える選手に出てきてほしい」

「大事なのは、自分の仕事に対して情熱を見せること。仕事の内容によって、情熱、真剣さに相違があってはならない」

「勝利は苦しみを通じてのみ、得ることができる。苦しみを通り抜けない勝利はない」

ジネディーヌ・ジダン
ジダンがサッカー界を去る日は、全世界のサッカーファンが嘆くでしょうね、と言われて
「そうでしょうか? 1人の選手が去ったとしても、必ず次世代を担う者が登場します。大丈夫ですよ。ピッチは、常に明日を目指す人のために存在してますから」

いつまでも試合が終わらず、このままプレーしたいと思うときがある。
ボールと一体になって、自由なフィーリングを楽しむのは最高だ。

サッカーが簡単だったことは一度もない

02年Wカップ敗戦後
こんな結果はとても信じられない。
しかし、サッカーの真実とはフィールドの中で起きること、それがすべてだ

チラベルト
98年フランスWカップ。フランスにゴールデンゴールの末敗戦。
泣き崩れる選手達を抱きかかえながら
「もう泣くな俺達は戦争に負けたわけじゃない」

デットマール・クラマー(「日本サッカー育ての親」であるドイツ人コーチ)
サッカー、それは本当に素晴らしい競技だ。何故なら、子供を大人に、
大人を紳士に育て上げる競技だから

フランツ・ベッケンバウワー
サッカーを心の底から愛してこられたこと。強い意志で試合に臨めたこと。そして、運。この三つに自分は支えられた。

マルコ・ファン・バステン
9本のスーパーゴールと10本の平凡なゴール、どちらを選べというなら、
僕は迷わず10本の方を選ぶ。

トレゼゲ
美しい物語の終わりだ。98年に始まり、今日それが終わった。これがサッカーのおきてだ。

フィリッポ・インザーギ
ストライカーにとってゴールこそが人生なんだ

ジャンフランコ・ゾーラ   
「PKよりFKの方が簡単だ。」

ヨハン・クライフ
「才能ある若手にこそ挫折を経験させなければならない。挫折はその選手を成長させる最大の良薬だからである。」

「ダメな奴らが走るんだ。相手をもっと走らせろ!」

「ワンタッチこそ最高の技術だ!」

「いくら、技術に優れ、スパースターでも・・・その上には、勝者が、チャンピオンがいる」

「ボールを回せ。ボールは疲れない」

「美しく負けることを恐れてはならない。無様に勝つことを恥と思え」

サッカーでは100mより30mから40mをはやく走ることが重要。だがもっと重要なのは”いつ”走るかだ

イングランドのフットボールは,見ている分には最も面白い。
選手が危険を冒し,たくさんミスをするからだ。

ルイコスタ
「ポルトガル代表である限り、フィオレンティーナにいる限り、ルイコスタが王冠を手にすることは無いが、ファンタジスタの背中には天使の羽が生えている。それだけで十分だ」

フェルナンド・イエロ
「引退するかって?少なくともプレーを楽しめるうちはノーだ」

力を出し尽くしている選手を悲しませないでほしい

ゲルト・ミュラー
「得点するコツ?チャンスだと思ったらエゴイストに徹することだ。」

シニョーリ
「私が現役を続けてこれた最大の理由がロビーの存在だ。
 私の行く手には常に彼の後ろ姿があった。
 追いつけると思ったら、また離れていく。そんなことを
 繰り返してるうち、お互い年をとってしまったけど(笑)」

ヌワンコ・カヌ
心臓の手術後
「僕からサッカーの才能を取り上げないでくれ」

ロマーリオ
インタビューで
「ブラジルサッカーの歴史の中で最もウマいのは誰だと思う?」
と聞かれ
ロマーリオ「おれ」

ロマーリオはサッカー指導者や監督の道に興味が無いと言う
その理由は
「ロマーリオみたいな選手がいたら俺には我慢できないから」

94年アメリカ大会は、つまるところ俺と奴(ロベルト・バッジョ)の大会だったんだ。

「子供の頃、俺よりうまい奴は、沢山いたよ。でも彼らは、きっと自分を信じることができなかったんだろうな。でも俺は、自分を信じたよ。幸運は、向こうからやってくるものじゃない自分で探して追いかけるんだ!」

カルロ・マッツォーネ。ロベルト・バッジョの最大の理解者
「私はバッジョをピッチに送り出すとき一つだけ指示をする  『90分間で一度だけでもいいから君らしいプレイをしてくれ』とね それが我々に歓喜をもたらすのを私は知っているからね」

「ネドベドもヴィエリもトッティもいらない。バッジョだけで十分さ」

ジュゼップ・グアルディオラ
ブレシア移籍の理由を聞かれ
「バッジョとプレーできるからさ。彼とプレーをすることはどんなビッククラブでプレーするよりも素晴らしい事だ。」

ステファン・アピアー
一流のプレイヤーの仲間入りができたと思ったのは、バッジョとトレーニングをした時だ。

チェーザレ・マルディーニ
98年フランス大会でバッジョを選んだ理由を聞かれ
「彼とワールドカップに行きたかったんだ」

オリヴァー・ビアホフ
「ロナウドみたいな得意技もないしバティストゥータみたいな強烈なシュートもない。バッジョやデル・ピエロ見たいなドリブルもない。けど、確実にゴールを決めるのは僕だよ。」

ブッフォン
フットボールとは極めてシンプルだ。俺がシュートを全て止めれば、チームが負ける事はないのだから。

インザーギに対し
「彼はゴールを決めるために生まれ、ゴールを決めながら死んでく。」

レコバ
今日の試合が雨上がりのピッチならば、僕の左足で虹を描いてみせるよ。

バティストゥータ
「そこにゴールがあるからボールを蹴るんじゃない。俺が蹴るからゴールがあるんだ。」      

パオロ・マルディーニ
対戦相手は敵ではない。同じピッチの上で戦う仲間だ。

あるインタヴューで
「もし、あなたが生まれ変わるとしたら誰に生まれたいですか??」
との質問に
「バッジョです、人間として素晴らしいからです」

リバウド
W杯のカップは黄金だから眩しいわけじゃない。豊かで強い心に溢れた選手が手にした瞬間に輝くんだ。

ロナウジーニョ
ボールが無ければ僕は半分死んだも同じ、いや半分以上。この世に存在しなくなっちゃうよ!ボールは僕の人生みたいなもんだ。ボールなしでいたことなんて何も覚えちゃいない。

ティエリー・アンリ
僕はゴールすることばかりを考えている訳じゃない。だけど本物のゴールゲッターは、それしか考えないものさ。たとえチームが負けてもね。

オリバー・カーン
ゴールキーパーの『役立たず』と『英雄』は紙一重

決勝でミスを犯せば辛いさ。今大会唯一のミスだった。
だから辛さも10倍に感じられる。慰めになるものなど何もない。

ディエゴ・マラドーナ
サッカーはシンプルで美しい。複雑にしようとする人もいるが、それは許されるべきではない

私はありとあらゆる悪いことを行った。しかし、フットボールを汚したことは一度も無い。

ルイス・フィーゴ
1対1になったら、勝負しないわけにはいかない。なぜなら俺はドリブラーだからだ。

ポジションや立場が違っても、自分自身が、
昨日の自分よりも今日の自分に充実感を感じることが大切だと思う。

バレージ
苦しくなった時いつも私のそばにミランがいた

「将来、ミランの選手になろうがなるまいがそんなことは関係ない。
ミランのユースで育った者には、どこへ行っても人として、選手として優秀であってほしいんだ。」

ダービッツ
「死んでもこの国を愛してみせる」

ロベルト・カルロス
バロンドールはFWやMFが取るための賞なんだよ……。もうそう思うことにしている。

イバン・サモラーノ
「フットボールが私から去っていく前に、私からフットボールを去ることにした。」

エンリコ・キエーザ
「偉大なフットボーラーのリストにバッジョを加えるつもりはないよ。
なぜなら彼は別の惑星からきた宇宙人だからさ。」

カルロス・ビアンチ
「自分に敬意を表してもらいたいなら選手にも敬意を払うべきだ。」

ズボニミール・ボバン
「サッカーを戦争だなんて言う奴は本当の戦争をしらないんだ」

私は100人の政治家に出来ない事が出来る。

タファレル
94アメリカ大会でPKを外したバッジョに対し
「それでもあなたは偉大だ」

デヤン・サビチェビッチ
「いつになるかはわからないけど、ボバンと同じ国の代表として、温かい拍手に包まれた満員のスタジアムで一緒に戦えたらいいなと、いつでも思っているんだ。」





Alberto Gilardino アルベルト・ジラルディーノ

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フルネーム アルベルト・ジラルディーノ
Alberto Gilardino
ニックネーム ジラ
国籍 イタリア
生年月日 1982/7/5
出身地 ビエッラ(ピエモンテ)
ポジション FW(CF)
身長 184cm
体重 78kg
代表デビュー 2004/9/4vsNOR
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1999/00 ピアツェンツァ 17 3
2000/01 エラス・ベローナ 22 3
2001/02 エラス・ベローナ 17 2
2002/03 パルマ 24 4
2003/04 パルマ 34 23
2004/05 パルマ 38 23
2005/06 ミラン

早い動き出しでディフェンスラインの裏に飛び出すプレースタイル、
そして、どんな体勢からでも貪欲にゴールを狙う姿勢は次代のフィリッポ・インザーギというに相応しく、現在急成長中にある期待のストライカーである。

13才の時、故郷ビエッラに近いピアチェンツァの下部組織に入り
ここで着実に成長、1998年よりUー15、16イタリア代表として活躍する。
99/00シーズン中盤戦の2000年1月6日ミラン戦、
17才でセリエAデビューを果たすと同年3月25日ヴェネツィア戦にて試合開始2分でセリエA初得点を記録する。
しかし、このデビューシーズンにピアチェンツァはB降格を屈し
自身は契約証を持つパルマの仲介でH・ヴェローナへ移る事となったが
本来のポジション以外でのプレーを強いられた事もあり、その能力は影を潜め、01/02シーズンには自身2度目のセリエB降格を経験した。
02/03シーズンより保有権を持つパルマへ戻りムトゥやアドリアーノ等の控えながら彼等と共にプレーする事で飛躍的成長を遂げ、
彼等の去った翌03/04シーズンには不動の地位を確立、
最終節にはこのシーズン1人だけ達成する事となる1試合4得点を挙げる離れ技も演じ、ディバイオの持つセリエA最多得点のクラブレコードを塗り替える通算23得点を記録した。
翌シーズンにもリーグ2位となる23得点を挙げたもののチームは低迷し、まさかの残留争いに巻き込まれたが、ボローニャとの残留を賭けたプレーオフでは貴重な得点を挙げるなど勝負強さも披露、このA残留を置き土産に強豪ミランへ引き抜かれる事となる。

イタリアUー15代表としてデビューしたのが1998年4月、
その後各年代の代表を経験し2000年8月16日メキシコ戦にて
18才でUー21代表デビュー、この年代での初得点は2003年6月と
大きく出遅れる事となったが、その後はコンスタントに得点を挙げ
2003年9月5日ウェールズ戦では1試合4得点の活躍も見せた。
2004年に開催されたUー21欧州選手権でも通算4得点を挙げ
得点王を獲得しチームの優勝に大きく貢献、同年ポルトガルにて開催されたフル代表による欧州選手権メンバーに選出されなかったのは残念だったがアテネ五輪代表として全試合に出場し4得点を挙げ母国の銅メダルに貢献している。

現在イタリア代表エースストライカーとしての地位を確立させつつあり
今後チームの命運を握るプレーヤーとなるだろう。ミランではシェフチェンコやインザーギの影に隠れがちだがその能力に疑いの余地は無い。今後のミランやアッズーリを担う選手である。
若きストライカーの今後の成長に期待しようではないか!



Jaap Stam ヤープ・スタム

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フルネーム ヤコブ・スタム
Jacob Stam
ニックネーム ヤープ
国籍 オランダ
生年月日 1972/7/17
出身地 カンペン
ポジション DF(CB,RSB)
身長 191cm
体重 86kg
代表デビュー 1996/4/24
クラブ
1992-93 ズボーレ
1993-95 カンブール
1995-96 ビレムⅡ
1996-98 PSVアイントホーフェン
1998-01 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)
2001-04 ラツィオ(イタリア)
2004- ミラン(イタリア)
主なタイトル
1998/99 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1999年 インターコンチネンタルカップ優勝

強靱な身体を使ったディフェンスは世界屈指の強さを誇りその巨漢に似合わぬスピードと足下の柔軟性も備えるDF。優秀なユースシステムを備えるオランダでは才能ある少年を早くから育成し、多くの選手は若い時分から注目を浴びるが、その中にあっては異例の遅咲きである。しかしながら現在では世界最高のDFの1人に数えられ、クラブでも代表でも守備の中心的な役割を担う。元オランダ代表。

92/93シーズン、ズボレにてキャリアをスタートさせカンブールにて才能を開花、95/96シーズン途中にオランダ3大クラブの一つ、PSVアイントホーフェンに移籍したが、当初からその実力は疑問視されていた。しかしこのシーズンの国内カップ優勝に貢献する。
翌シーズンにはリーグ制覇も果たし、オランダ最優秀選手にも選出された。だがスタムの評価はそう高いものではなかった。
1998年よりプレミアリーグへ活躍の場を移し、マンチェスター・ユナイテッドに移籍。その際もさほどの期待は集めなかった。しかし、いざふたを開けてみると、ユナイテッドは世界最高のCBを獲得できた幸運を神に感謝することとなる。その能力は更に輝きを放ち98/99シーズンのチャンピオンズ・リーグ、プレミアリーグ、FAカップの3冠達成に多大なる貢献、UEFAの選出するベストディフェンダーにも選ばれた。
更に在籍した3シーズンすべてにおいてプレミアリーグ制覇、1999年トヨタカップでは世界1の称号の手中にしている。終始安定したプレーを見せ、永年に渡りチームの弱点とされた守備を磐石なものにした。

しかし、その後発表した自伝が発端となり、ファーガソン監督との関係が悪化、2005年までの契約を待たないまま、2001年にセリエAラツィオへ移籍。
更に、このシーズン途中に薬物疑惑が発覚し数ケ月の出場停止処分を受けるなど不本意なシーズンを過ごす事となる。
迎えた02/03シーズン開幕当初、チームの財政悪化からネスタやクレスポを放出し、チームは弱体化が予想されたが、スタム等を中心としたDF陣はリーグ3位となる失点数(30失点)に抑え、リーグ4位を確保、翌シーズンのチャンピオンズ・リーグ出場権獲得に大きく貢献して見せた。
03/04シーズンにはラツィオ加入以来初タイトルとなるコパイタリア優勝を成し遂げ、これを置き土産にミランへ移る事となった。
活躍の場をミランに移したスタムはセリエA随一の守備力を誇るミランDF陣に更なる安定感をもたらした。

代表デビューは1996年4月24日ドイツ戦でデビュー。フランク・デ・ブールより守備のリーダーの役目を受け継ぎ活躍したが、オランダ代表の宿命とも言うべきか、タイトルには恵まれず。その後主力として活躍し1998年ワールド杯には全7試合に出場、4位の好成績に貢献すると2000年欧州選手権でもベスト4進出の原動力となった。
2002年ワールド杯での出場を逃したのは残念であったが、
2004年欧州選手権ではベスト4進出の原動力となり活躍した。
大会終了後代表引退、クラブレベルに専念する事を表明している。

今期は右サイドバックとしての出場が目だっており、器用なところを見せ付けている。空中戦、マンマークの強さはミラン随一であり、不調のミランの中では際立った活躍を見せている。しかし05-06シーズンをもってACミランを退団し、06年夏にもA.F.C.アヤックス・アムステルダムに加入する。非常に残念ではあるが、彼の残りのキャリアの栄光と彼の決断に敬意を表するとともに、ミランを支えた世界最高峰のDFとして、ミラニスタの心には彼の名も刻まれることだろう。




Andrea Pirlo アンドレア・ピルロ

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フルネーム アンドレア・ピルロ
Andrea Pirlo
ニックネーム ネクスト・バッジョ
国籍 イタリア
生年月日 1979/5/19
出身地 ブレシア
ポジション MF(OH,CH)
身長 177cm
体重 68kg
代表デビュー 2002/9/7vsAZE
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1994/95 ブレシア 1 0
1995/96 ブレシア 0 0
1996/97 ブレシア 17 2
1997/98 ブレシア 29 4
1998/99 インテル 18 0
1999/00 レッジーナ 28 6
2000/01 インテル 4 0
ブレシア 10 0
2001/02 ミラン 18 2
2002/03 ミラン 27 9
2003/04 ミラン 32 6
2004/05 ミラン 30 4
2005/06 ミラン * *
主なタイトル
2002/03 UEFAチャンピオンズリーグ優勝

創造力に優れ、恐るべき展開力と状況判断能力を持ち類い稀なパスセンスで素晴らしい存在感を示すイタリア代表MFにして世界最高峰のレジスタ。FWへの縦のロングボールも素晴らしいが両サイドの動きも実によく見えており、フィールド全体を使ったゲームメークで次々と優位な状況を作り出す。
その技術は現代サッカーにおいて少なくなったファンタジスタと呼ぶに相応しく元イタリア代表スタープレーヤー、ジャンニ・リヴェラの再来とまで称されている。
本来トップ下のポジションにて真価を発揮するが、その天才的才能から
現在ボランチの位置でゲームメーカーとして君臨する。
また、PKのスペシャリストとしても名高い。

生まれながらのインテリスタであり当時インテルにて活躍したローター・マテウス、そしてロベルト・バッジョに憧れる幼少時代を過ごす。
その後地元ブレッシャのジュニアチームへ入団、12才にして将来を嘱望されるポテンシャルの高さを見せる。1995年、16才の誕生日を迎えた2日後の5月21日レッジーナ戦にてセリエAデビューを果たすが、このシーズン、チームはB降格を屈する。
翌シーズンは出場機会に恵まれず不本意な時期を過ごすが、腐る事なく練習に励みその結果翌96/97シーズンには17試合に出場、チームのA復帰に貢献する。
(1996年ヴィアレッジョ国際トーナメント優勝にも大きく貢献している。)
97/98シーズンには再びベンチを温める事も多かったが、監督が
フェラーリオに代わると同時に多くの出場機会を得るようになり
通算29試合4得点、その能力の高さを証明し1998年には憧れのクラブ、インテルへの入団が決まりイタリア代表のユースチームでもエースとして活躍。誰もが新時代のカンピオーネの誕生を信じて疑わなかった。
インテルでの加入シーズン、しかし、ピルロはSTの選手としてはあまりにも脆弱なフィジカルの持ち主だった。インテルのようなビッグクラブがそんな選手に満足な出場機会を与えるわけも無く、18試合に出場するもスタメン出場は3試合のみ、その才能を持て余す結果に終わる。しかし翌シーズン開幕直後に志願してレンタルされたレッジーナにて28試合6得点の活躍を見せA残留に大きく貢献、翌シーズン途中には再び出場機会を求めてブレッシャへレンタル移籍しここでもR・バッジョのサポート役、ボランチとして新境地を開く事に成功した。
2001年にはよりにもよってライバルチームのミランへと放出してしまう。だがロッソネロとの出会いがピルロを再生させた。移籍1シーズン目こそインテルにいた頃と同じような状況が続いたが、2002/03シーズンにカルロ・アンチェロッティの手によってCHのポジションに添えられると、今までの不出来が嘘のような目覚しい活躍を披露。ジェンナーロ・ガットゥーゾやクラレンス・セードルフといった優秀なサポート役を得、変幻自在にミランの攻撃陣をリードした。いつしかナイーブな面も消え失せPKキッカーを任せられるまでに信頼を集めるようになる。
このシーズンのチャンピオンズ・リーグ制覇に多大なる貢献をし世界屈指のレジスタとしての地位を確立したのである。

19才でUー21欧州選手権メンバーに選出され、予選9試合6得点の活躍で本大会出場に貢献、スロバキアで開催された本大会ではエースナンバー「10」を付けその才能を遺憾なく発揮し、優勝に大きな役割を果たした。
2年後の同大会では準決勝にてチェコに敗れたが、その技術の高さは
世界各国から賞賛された。
その後ミランでの活躍が認められ2004年欧州選手権予選初戦となる
2002年9月7日アゼルバイジャン戦にてフル代表デビューを飾った。代表レベルでも欠かせぬ存在となっているのは言うまでもない。

現在ではフィジカル面でも格段の進歩を見せ、ミドルシュートにも冴えを見せる選手へと成長。多少の遠回りはあったが、イタリアが誇る偉大なる才能がようやく本領を発揮するに至った。
イタリアではネクストバッジョ(バッジョを継ぐ者)と呼ばれているが、バッジョは、ピルロに自分を超える選手になって欲しいと望んでいる。

Gennaro Gattuso ジェンナーロ・ガットゥーゾ

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フルネーム ジェンナーロ・イバン・ガットゥーゾ
Gennaro Ivan Gattuso
ニックネーム リーノ,リンギオ(唸り声)
国籍 イタリア
生年月日 1978/1/9
出身地 コリリエーロ・スキアボネア
ポジション MF(DH)
身長 177cm
体重 77kg
代表デビュー 2000/2/23
所属クラブ
1995-97 ペルージャ
1997-99 レンジャーズ(スコットランド)
1999 サレルターニャ
1999- ミラン
主なタイトル
2002/03 UEFAチャンピオンズリーグ優勝

豊富な運動量と激しいまでの闘争本能を剥き出しにしてピッチを駆け回り相手の攻撃の芽を摘みながら、冷静な判断力も兼ね備えるイタリア代表MF 。
リンギオ(犬のうなり声)の愛称で知られる。

13歳でペルージャの入団テストに合格。16歳でセリエBデビュー。出場は2試合だけだったが、16歳の少年にとってはなにものにも代え難い経験だったであろう。翌年にはセリエAデビューを果たす。その後A昇格を果たした96/97シーズン12月のボローニャ戦にてセリエAデビュー、少ない出場ながら、その激しいプレースタイルによって人々に印象付け、リンギオと呼ばれるようになる。
ところが突然のスコットランドへの移籍。10代のイタリア人プレーヤーの海外移籍は珍しく、周りは首を傾げた。だがこの移籍は間違いなく成功だった。レンジャーズで40試合に出場し7点を挙げたガットゥーゾは再びセリエAへ復帰、サレルニターナではB降格の不運を経験するもその闘争本能を高く評価するクラブが数多く獲得に動き、1999年父が熱狂的に愛するミランへと移籍する。この時の移籍金は約250億リラ。ペルージャ在籍時の月給300万リラからの大出世。マルディーニやコスタクルタ、アルベルティーニといった選手たちと一緒にプレーすることで、ガットゥーゾは生まれながらの闘志に加えて“勝利のメンタリティー”を身に着ける。そしてミランでの地位を確実なものにしていったのだ。
以後中盤の潰し屋として貴重な戦力となり02/03シーズンにはチャンピオンズ・リーグ、コパイタリアの2冠に大きく貢献している。

Uー21代表として活躍した後、2000年2月23日スウェーデン戦にてフル代表デビュー、待望のアズ-リのユニフォームを身に纏う。同年11月に行われたイングランドとの親善試合では右足から貴重な決勝弾を挙げ1ー0の勝利に貢献、大きく注目された。
2002年ワールド杯メンバーにも選出され途中出場ながら2試合に出場、その闘争心はイタリアにとって不可欠である。

技術では劣るが、誰にも負けない熱い魂を持っている。アズーリにはそんなプレーヤーが必要なのだ。そしてそれこそがガットゥーゾなのである。
ガットゥーゾは「俺はゴールで感動を伝える事はできないが、俺にしか伝えられない感動がある。」と語っていた。
ピッチ上で見せる熱い魂。情熱。今日もガットゥーゾは全力でピッチを駆け抜ける。

Alessandro Nesta アレッサンドロ・ネスタ

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フルネーム アレッサンドロ・ネスタ
Alessandro Nesta
ニックネーム サンドロ
国籍 イタリア
生年月日 1976/3/19
出身地 ローマ
ポジション DF(CB)
身長 187cm
体重 79kg
代表デビュー 1996/10/5vsMDA
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1993/94 ラツィオ 2 0
1994/95 ラツィオ 11 0
1995/96 ラツィオ 23 0
1996/97 ラツィオ 25 0
1997/98 ラツィオ 30 0
1998/99 ラツィオ 20 1
1999/00 ラツィオ 28 0
2000/01 ラツィオ 29 0
2001/02 ラツィオ 25 0
2002/03 ミラン 29 0
2003/04 ミラン 26 0
2004/05 ミラン 29 0
2005/06 ミラン * *
主なタイトル
2002/03 UEFAチャンピオンズリーグ優勝

イタリアの伝統的な守備カテナチオの中心に位置する守備の要。1対1に強く、空中戦にも秀でる。ハードなマークは勿論だが、それよりも冷静な読みに裏打ちされた的確なポジショニングがネスタ最大の特徴。以前にも増してCBにはフィジカルが要求されるようになったが、その中にあって守りの美学をアピールできる数少ない存在である。その優雅なプレースタイルからフランツ・ベッケンバウアーと比較されることも少ないない。素晴らしい身体能力とスピードを誇り、空中戦、1対1にも抜群の強さを発揮、まだ20半ばの若さながら世界最高のディフェンダーという称号を得ている。イタリア代表不動のディフェンダー。

ローマ出身であり地元チームラツィオのユースチームへ入団。10歳の時、ローマにスカウトされるが、父親が熱狂的なラツィアーレだったためこれを拒否。ラツィオの試験を受ける。勿論本人もラツィアーレである。1993年、トップチームに昇格すると、93/94シーズン終盤3月のウディネーゼ戦にてデビューを果たす。
その後、名将ゼーマンがチーム監督に就任すると、絶大な信頼を受け
チームレギュラーとしての地位を確立していく。
99/00シーズンには悲願のリーグ制覇を達成、スタープレーヤーの揃う多国籍チームのキャプテンとして抜群の存在感を示した後、クラブの財政的理由から2002年より強豪ミランへ加入、いきなりチャンピオンズ・リーグ、コパ・イタリアの2冠達成に大きく貢献する。 

1996年10月モルトヴァ戦、フェラーラの怪我から緊急召集され代表デビュー、当時からチームの主力として活躍していたパオロ・マルディーニに「未来のイタリアを背負って行くプレーヤー」とまで言わしめ、その期待通りの成長を見せて行く事となる。
1998年ワールド杯では大会中の怪我によって満足出来るプレーは出来ずにベスト8で姿を消し2000年欧州選手権ではフランスの前に後1歩の所で優勝を逃す。
2002年ワールド杯でもグループリーグ3試合すべて素晴らしいプレーを見せたが怪我で出場出来なかった決勝トーナメント1回戦でチームは韓国に敗れ自身にとっては納得のいかないまま大会を終える事となった。2006年、ドイツでリベンジに燃えるネスタに期待する。

ラツィオの象徴であるネスタの放出が決まった時、ラツィオサポーターがローマ市内でデモを行うまでの事態になってしまう程であった。ネスタ自身も不本意の移籍ではあったが、今やミランの一員としてその力を遺憾なく発揮している。

ネスタはイタリアの至宝、ロベルト・バッジョに対し「フットボールに100通りのテクニックがあるとすれば、彼は1000通りのテクニックを持っている」と賞賛したことがある。






Kaká カカ

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フルネーム リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ
Ricardo Izecson dos Santos Leite
ニックネーム カカ,リッキー
国籍 ブラジル
生年月日 1982/4/22
出身地 ブラジリア
ポジション MF(OH),FW(ST)
身長 183cm
体重 73kg
代表デビュー 2002/1/31
所属クラブ
2001-03 サンパウロ
2003- ミラン(イタリア)
主なタイトル
2002年 ワールドカップ優勝
コメント
ライー、ズボニミール・ボバンといった名立たる名手の再来とされる才能溢れる選手。素晴らしいボールコントロール技術を持ちフィジカルは強靭そのもの。ペナルティーエリア付近で前を向いてボールをもらう技術は世界でも有数で、正確かつ強烈なミドルシュートでゴールを量産する。広い視野から繰り出される絶妙なスルーパスに加え、得点能力も高くまだ20才過ぎとは思えない程のテクニックを持つ。
元ブラジル代表フェリペ監督にも認められ、2002年ワールド杯の
優勝メンバーに名を連ねたブラジル代表。

ブラジリアの裕福な家庭に生まれ、少年時代はなに不自由ない生活を送った。9才の時、サンパウロ FC のジュニアチームに加入、順調な成長を遂げるも、18歳の時に一つの危機が訪れる。プールに飛び込んだ際に背中を強打し脊椎を損傷。視力が低下した上に一生車椅子での生活を強いられる可能性もあった。幸いにも脊椎の怪我は完治し無事歩けるようになったが、目に関しては一生近視のままだという。
その後各年代のユースチームにて技術に磨きをかけると2001年3月1日のリオ・サンパウロ州大会決勝第2戦ボタフォゴ戦にてデビュー、後半からの出場にも関わらず立て続けに2得点を挙げて、チームを初優勝へと導き一躍スターダムに伸し上がった。翌シーズンにはレギュラーの地位を確立、サンパウロの元スタープレーヤーであり元ブラジル代表キャプテンでもあったライーの再来として君臨し活躍、そしてカカとサンパウロとの別れの時が迫ってくる。ブレシアからの高額なオファーは退けたものの、元ブラジル代表MFレオナルドがアシスタントを務めるミランの誘いは断れず。2003年にイタリアへと渡った。当初周囲からはレギュラー格と思われていなかったが、アンチェロッティ監督の評価は非常に高く、開幕戦アンコーナ戦から出場機会に恵まれ高い能力を披露、
その後完全にレギュラーの座を獲得すると第5節ミラノダービーにて得点、その名は瞬く間にワールドクラスとなったのである。
このシーズンのリーグ優勝の最大の貢献者となりイタリア選手協会により選出される2004年最優秀選手賞に選ばれた。

ミランには同じポジションにルイ・コスタという最高の手本がいる。
カカは「彼は出場していない時でも、ハーフタイム等でアドバイスをくれる。僕は彼のおかげで毎試合上達する事が出来るんだ。彼は偉大な選手の一人だよ」と話ている。またルイ・コスタは人間としても素晴らし人間であり、カカには自らの経験を活かし、成長の手助けをしている。

2001年ワールドユース、ハイレベルなプレーを見せ注目を浴びその後の国内リーグでの活躍もあって2002年1月31日ボリビア戦にてフル代表デビューを果たし、デビュー2戦目となるアイスランド戦では
早々と初得点も記録、2002年ワールド杯メンバーに名を列ねる事に成功した。
本大会では消化試合となった予選グループ3戦目コスタリカ戦にのみ出場、この経験が今後の彼にとって大きな財産となる事は間違いないであろう。
2003年9月にスタートした2006年ワールド杯南米予選第1節、
アウェーで行われたコロンビア戦では貴重な決勝弾を記録し2ー1の勝利に大きな役割を果たしている。

ミランのスクデット獲得に最も貢献した選手として、セリエ随一のカルチャトーレとして知られるようになり、名実ともにワールドクラスへと飛躍を遂げた。現在のセレソンでも、ロナウド、ロナウジーニョ、ロビーニョ等と共に「クァルテット・マジコ」と呼ばれる最強の攻撃陣の一角を担い、セレソンにも欠かせない存在となっている。

ちなみにブレシアへの移籍話がでた時、当時ロベルト・バッジョが所属していたため、カカ自身は移籍の話をとても喜んだと言う。しかしブレシアへの移籍は叶わなかったが、セリエAリーグ戦でブレシアと対戦した際に、真っ先にバッジョの下へ駆け寄り握手を求めた程である。



Alessandro Costacurta アレッサンドロ・コスタクルタ

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フルネーム アレッサンドロ・コスタクルタ
Alessandro Costacurta
ニックネーム ビリー
国籍 イタリア
生年月日 1966/4/24
出身地 バレーゼ
ポジション DF(CB,RSB,LSB)
身長 182cm
体重 75kg
代表デビュー 1991/11/13vsNOR(通算59試合,2得点)
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1985/86 ミラン 0 0
1986/87
(sep) ミラン 0 0
モンツァ 30 0
1987/88 ミラン 7 0
1988/89 ミラン 26 0
1989/90 ミラン 26 1
1990/91 ミラン 25 0
1991/92 ミラン 30 1
1992/93 ミラン 31 0
1993/94 ミラン 30 0
1994/95 ミラン 27 0
1995/96 ミラン 30 0
1996/97 ミラン 30 0
1997/98 ミラン 29 0
1998/99 ミラン 29 0
1999/00 ミラン 27 0
2000/01 ミラン 18 0
2001/02 ミラン 21 0
2002/03 ミラン 18 0
2003/04 ミラン 22 0
2004/05 ミラン 14 0
2005/06 ミラン
主なタイトル
1988/89 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1989 インターコンチネンタルカップ優勝
1989/90 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1990 インターコンチネンタルカップ優勝
1993/94 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
2002/03 UEFAチャンピオンズリーグ優勝

80年代後半から長期に渡ってミランの守備を支え続ける元イタリア代表DF。卓越した守備能力と判断力によって守備のスペシャリストとして名高くカバーリングの技術は当時世界最高クラスと賞賛された。
リーグ戦通算400試合以上出場。内、得点は僅かに2点。アレッサンドロ・コスタクルタはGKよりも守備的な役割を長年に渡り務めてきた。若い頃に比べ体力的な衰えは隠せないが、持ち味である鋭い読みにはますます磨きがかかり、コスタクルタを中心とする組織的な守備はどんな個人突破も許さない。

ミランユースチームを経てトップ昇格、1985年にミランと契約を交わすが、1試合も出場することなく1986年にモンツァにレンタル移籍。1シーズンC1モンツァにて経験を積み翌1987年10月25日ヴェローナ戦にてSERIE Aデビューを果たす。このシーズン7試合に出場しスクデッド獲得に貢献し翌シーズンより不動の地位を確立バレージ、タソッティ、マルディーニ等と共に鉄壁の守備を形成し91/92シーズンから3年連続してスクデット獲得、(93/94シーズンには総失点15という驚異的な数字を残している。)
88/89、89/90、93/94欧州チャンピオンズリーグ(カップ)優勝など80年代後半から90年代初頭の黄金期を支えた。
98/99シーズンのスクデットを最後にタイトルから見放されたが
02/03シーズンチャンピオンズ・リーグにて自身5度目の決勝舞台でプレー、PK戦の末ユベントスを下し、再び栄冠を手に入れて見せたのである。

しかし、そんなコスタクルタにも衰えはやってくる。2000/01シーズンには途中出場が増え限界説が囁かれるようになり、実際にフィジカルコンタクトに絶対の自信を持つ以前の彼ではなくなっていた。だが、永いキャリアの中で培ってきた経験と察知能力は未だ健在。控え要因と目され2002/03シーズンを迎えたが、大方の予想に反してコスタクルタはミラネッロでの模範としてではなく、サンシーロに活躍の場を見出した。

代表デビューは1991年11月13日、ジェノバで行われたノルウェー戦。以後、代表レベルでも不動の地位を確立し2度のワールド杯にも出場している。ただ、タイトルとは無縁で1994年ワールド杯、2000年欧州選手権では共に準優勝に終わり、クラブレベル程の栄冠を手中にする事は出来なかった。
代表通算59試合2得点。

並外れたコレクションを持ち、様々な栄光を勝ち取ってきたコスタクルタ。オランダトリオ、バレージ、そしてマルディーニらと共に鉄壁の守備陣を支え、3度のUEFAチャンピオンズカップ優勝を果たした。
脚光を浴びたミランにおいてその脇で完璧に仕事をこなしたコスタクルタもまた、その歴史に欠かせぬ選手である。彼もまた、生きる伝説の1人である。




Filippo Inzaghi フィリッポ・インザーギ

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フルネーム フィリッポ・インザーギ
Filippo Inzaghi
ニックネーム スーペル・ピッポ
国籍 イタリア
生年月日 1973/8/9
出身地 ピアチェンツァ
ポジション FW(CF)
身長 181cm
体重 74kg
代表デビュー 1997/6/8vsBRA
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1991/92 ピアチェンツァ 2 0
1992/93 レッフェ 21 13
1993/94 エラス・ベローナ 36 13
1994/95 ピアチェンツァ 37 15
1995/96 パルマ 15 2
1996/97 アタランタ 33 24
1997/98 ユベントス 31 18
1998/99 ユベントス 28 13
1999/00 ユベントス 33 15
2000/01 ユベントス 28 11
2001/02 ミラン 20 10
2002/03 ミラン 30 17
2003/04 ミラン 14 3
2004/05 ミラン 11 0
2005/06 ミラン * *
主なタイトル
2002/03 UEFAチャンピオンズリーグ優勝

この選手ほど「ゴールの嗅覚」と言う言葉が似合う選手はいないであろう・・。
いつの時代も重宝される、いわゆる嗅覚のストライカー。常にオフサイドラインぎりぎりの所でポジションを取り、一瞬の動きでゴールを陥れる。パワーで劣り、体格で劣り、特別な技術を持っているわけでもない。インザーギの武器はスピードと自分に対する自信に他ならない。
けして華やかなプレーとは程遠いが、その得点意識の高さはストライカーにとってお手本と言うべき。

ピアチェンツァ(B)、レッフェ(C1)、ベローナ(B)、とチームを渡り歩き、1995年8月27日にパルマにてSERIE Aデビューを果たす。
この時すでに得点感覚に優れた選手ではあったが、それほどの出場機会に恵まれず96/97シーズンにアタランタへ移籍する。
そしてここで一気にその能力を開花させデビュー2年目にして24得点を挙げ得点王を獲得する。その活躍が認められ翌シーズンからユベントスへ移籍、在籍中は毎シーズン2桁得点をマークしてチームのエースとして活躍し97/98シーズンのスクデット獲得にも大きく貢献している。
01/02シーズン、ミランの大幅な補強の一環としてセリエA屈指のゴールゲッターの名が挙がった。それがインザーギである。
大きな期待と共にミランへ移るがシーズン中の大怪我から離脱、それでも復帰後には瞬く間にミラニスタの心を掴むプレーで活躍し、チームの危機を幾度となく救うと02/03シーズンにはチャンピオンズ・リーグ制覇に大きく貢献している。
 
しかし度重なる怪我によって長期の戦線離脱を余儀なくされる。しかし彼は帰ってきた。不屈の闘志を胸に。
復活のゴールを上げアンチェロッティに抱きつくインザーギの姿は多くのファンの胸を打った。

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1997年6月8日ブラジル戦にて代表デビュー、
現在のイタリア代表でも不可欠なストライカーであり、
1998年、2002年と2大会連続ワールド杯に出場している。
そして2006年ドイツ大会出場を目指している。

彼は言う。「ストライカーにとってゴールこそが人生なんだ」。それは正に、全てのストライカーの哲学である。さらにイタリア代表、ユベントスの守護神ブッフォンは「彼はゴールを決めるために生まれ、ゴールを決めながら死んでいく。」と言うストライカーにとって最大限の賛辞を送っている。

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Andriy Shevchenko アンドリー・シェフチェンコ

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フルネーム アンドリー・シェフチェンコ
Andriy Shevchenko
ニックネーム シェバ,ウクライナの矢
国籍 ウクライナ
生年月日 1976/9/29
出身地 クレシュチュチュク
ポジション FW(CF)
身長 183cm
体重 72kg
代表デビュー 1995/3/25vsCRO
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1994/95 ディナモ・キエフ 16 1
1995/96 ディナモ・キエフ 31 16
1996/97 ディナモ・キエフ 20 6
1997/98 ディナモ・キエフ 23 19
1998/99 ディナモ・キエフ 28 18
1999/00 ミラン 32 24
2000/01 ミラン 34 24
2001/02 ミラン 29 14
2002/03 ミラン 24 5
2003/04 ミラン 30 24
2004/05 ミラン 29 17
2005/06 ミラン * *
主なタイトル
2002/03 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
2004 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

スピード、キープ力、シュート力、得点感覚、突破力、・・・、ストライカーとしての能力をすべて兼ね備え、彼のスピードに乗ってしまった
突破を止めるにはファウルを犯すか、ゴールを覚悟するしかないであろうと思われる。ウクライナ独立後、最高のプレーヤー。ウクライナの矢と言われたオレグ・ブロヒンに勝るとも劣らない選手である。スピード、フィジカル、スキル、得点感覚を併せ持ち、1人でも得点可能。FWとしての総合能力では現在世界最強の1人と称されるウクライナの至宝。

15才の時、ディナモ・キエフのジュニア組織に加入し1994年トップデビュー。
翌95/96シーズンに31試合16得点を記録し脚光を浴び、
その後もチームの中心として活躍、リーグ5連覇、3度のカップ戦優勝に貢献する。
さらに98/99チャンピオンズ・リーグにて通算8得点を挙げ大会得点王を獲得する活躍を見せてチームをベスト4に導き、その名前を欧州全土に知らしめ、当然ビッグクラブ同士の激しい争奪戦が始まり、この素晴らしい才能を享受したのがミランだった。そしてこの獲得は大成功だった事をミランはすぐに悟ることになる。

むかえたセリエAデビューシーズン、初年度から活躍するのは難しいと言われるリーグ戦にて24得点を挙げ得点王獲得の離れ業を演じると
翌00/01シーズンにも24得点(リーグ2位)を記録、その能力に疑いのない事を証明する。
01/02シーズン、ルーマニアのフォーカス・ヴェス誌が選ぶ東ヨーロッパ最優秀選手にも選出された。その後02/03シーズン開幕前に負った怪我から思うような働きが出来ず、リーグ戦では過去最低の5得点に終わった。しかし、このシーズンのチャンピオンズ・リーグ準決勝インテル戦にて貴重なアウェイゴールを挙げ決勝進出に大きな役割を果たすと、PK戦までもつれる大混戦となった決勝では自ら志願し、優勝のプレッシャーがかかる最後のPKを決めて、祈願の欧州チャンピオンとなった。
03/04シーズンには2度目となる得点王を獲得し、自身初となる
リーグ制覇に多大なる貢献、バロンド-ル受賞の栄誉にも輝いた。

1995年3月25日のクロアチア戦にて代表デビュー、
現在まで不動のストライカーとして君臨しているのは言うまでもなく、
2002年W杯出場を逃したが、シェフチェンコを中心に組織力、個人技に磨きをかけたウクライナ代表は圧倒的な力で2006年W杯ドイツ
大会、ヨーロッパ予選を突破、悲願の本大会出場を果たした。W杯での彼の活躍に期待したい。

余談だが、自身の父親の心臓手術を手助けしてもらったミラン会長ベルルスコーニ氏への恩義を忘れず、2003年2月に受けたレアル・マドリードからのオファーを断っている。



ミランがインザーギのハットトリックなどでレッジーナを一蹴

ミランはグラニッロで勝利。シェフチェンコを欠いたが、インザーギのハットトリックなどで4-1のスコアだった。

 スクデット争いに再び参戦するか、あるいは少なくとも2位に近づくために、ミランはこの試合に決勝戦のような気持ちで臨まなければならなかった。だが、序盤はレッジーナに意表を突かれてしまう。厳しいプレスをかけたレッジーナは、2本のCKを獲得した後、前半10分には後方からのロングボールにパレデスが頭で合わせて先制点を奪った。

 パレデスのポジションはオフサイドにも見えたが、疑っている暇もないうちにミランは同点に追いつく。インザーギがエリア内で粘り、GKペリッツォーリのはじいたボールを押し込んで1-1とした。このゴールとカカの好調なプレーがミランをよみがえらせた。

 16分にはルイ・コスタが狙ったが枠の外へ。その直後のインザーギのシュートもゴールマウスをとらえられなかった。レッジーナも黙ってはおらず、26分にはメストとビジャーニがゴールに迫る。35分にはミランが再びチャンスを迎えたが、インザーギはフリーのピルロにパスを出せなかった。

 その2分後にはミランに勝ち越しゴール。セルジーニョのクロスをジラルディーノが見事なダイビングヘッドで押し込んだ。ミランはさらに勢いを増し、前半ロスタイムにはインザーギが3点目を奪ったかに見えたが、これはオフサイドだった。ゴールは認められず、そのままハーフタイムへ。

 後半も前半と同様の展開で、49分にはジラルディーノがゴールを襲ったが、ペリッツォーリはクロスバーの助けも借りつつこれを阻んだ。52分にはカカがインザーギにラストパス。インザーギが右足で強烈なシュートを決め3-1とした。アンドリー・シェフチェンコは大事を取ってこの試合を欠場していたが、インザーギの決定的な働きはかつての全盛期をほうふつとさせるものだった。 inzaghi.jpg



 レッジーナはモデストが反撃を試みたが、ミランのディフェンスと中盤(ジラルディーノに代えてセードルフを投入)はよく守っており、試合のペースを遅らせようとしていた。71分には左からのクロスをエリア内のセルジーニョが腕に当てて止めたが、ダニエレ・トンボリーニ主審はこれを無視し、レッジーナは抗議。ミランの望み通りに試合は徐々に落ち着いていった。レッジーナには観客の後押しがあったが、それでも速いリズムを維持することはできなかった。

 逆に終了間際にはまたしてもインザーギにチャンス。ゴール前1メートルの位置からのシュートは外してしまったが、ロスタイムの93分には鋭いFKでゴールが空になったチャンスを逃さなかった。ミランはこの勝利でインテルに追いつき、ユベントスとは12ポイント差。レッジーナは勝ち点26で12位。

Clarence Seedorf クラレンス・セードルフ

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フルネーム クラレンス・クライド・セードルフ
Clarence Clyde Seedorf
ニックネーム -
国籍 オランダ
生年月日 1976/4/1
出身地 パラマリボ(スリナム)
ポジション MF(CH,OH)
身長 176cm
体重 76kg
代表デビュー 1994/12/14
所属クラブ
1992-95 アヤックス
1995-96 サンプドリア(イタリア)
1996-99 レアル・マドリード(スペイン)
1999-02 インテル(イタリア)
2002- ミラン(イタリア)
主なタイトル
1994/95 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1997/98 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1998年 インターコンチネンタルカップ優勝
2002/03 UEFAチャンピオンズリーグ優勝

創造性溢れたインスピレーションをピッチ上で表現出来る素晴らしいプレーヤーであり、暖急・長短織り交ぜた正確なパステクニックは世界最高クラス。
どの戦術にも適応出来る頭脳を持ち、戦術眼、スタミナ、ディフェンス能力とも合わせ持ったオランダ代表超技巧派MF。
スキルフルな選手が揃うオランダ代表の中でも、特別に優れたスキルを持った天才プレーヤー。ボールの扱いが非常に巧く、どの世界トップレベルの選手と比べても全く遜色ない。

オランダ名門アヤックスユースチームで英才教育を受け1992年、弱冠16才でトップデビューを果たす。
自身の尊敬するライカールトとプレーする事で、その才能を開花させ
94/95シーズンにはチャンピオンズ・カップ優勝に大きく貢献する。95/96シーズンより更なる飛躍を求めてセリエAサンプドリアへ移籍、潜在能力の高さを証明しつつも、ホームシック、チーム低迷などの理由から本来の力を発揮出来ないまま翌シーズンよりレアル・マドリードへ移籍する。
ここでカペッロ監督の絶大な信頼を勝ち得ると初年度よりレギュラーとして活躍、38試合出場6得点を記録しリ-グ優勝に貢献、その名を世界に知らしめた。
97/98シーズンには自身2度目となるチャンピオンズ・リーグ制覇、さらにトヨタ・カップをも制し世界の頂点に君臨する。
その後もチームの中心として活躍するが、チームメイトとの確執、チームの財政悪化などの理由から99/00シーズン途中、インテルへ移籍する。
2度目のセリエ挑戦となった99/00シーズン15節ペルージャ戦、
素晴らしい存在感を示し5ー0の勝利に貢献しすぐにインテリスタの心を掴み、また、この試合で見せた感極まった涙も印象的であった。
02/03シーズンよりライバルチームであるミランへ移るとここでもその能力は発揮され、このシーズンのチャンピオンズ・リーグ優勝に大きな役割を果たすと同時に、史上初の異なる3つのクラブで欧州の頂点に立つという偉業を達成して見せた。

オランダ代表として1994年12月14日のルクセンブルク戦でデビュー。
チームの中心として活躍していく事が期待されたが、チームの内紛など
問題の多いオランダ代表にあって本来の力を発揮する事が出来ず1996年欧州選手権では自らのPK失敗によりチームも敗退、1998年ワールド杯では4位という好成績に貢献しながらも大きな印象を残す事は出来なかった。
国際舞台で主役となれる逸材だけに今回のワールド杯予選敗退も残念ではあるが近い将来、代表にて最も輝く瞬間が訪れる事に期待したい・・・。

3つの異なるクラブでのチャンピオンズリーグ制覇は前例が無く、サッカー史に燦然と輝く功績を上げたプレーヤーとして、この先もセードルフの名は語り継がれていくことだろう。


George Weah ジョージ・ウェア

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フルネーム ジョージ・マネー・オポング・オスマン・ウェア
George Manneh Oppong Ousman Weah
ニックネーム リベリアの怪人
国籍 リベリア
生年月日 1966/10/1
出身地 モンロビア
ポジション FW(CF)
身長 185cm
体重 82kg
代表デビュー 1986/2/23
所属クラブ
1981-83 ヤング・サバイアーズ
1983 ボンラン・カンパニー
1984 マイティ・バロール
1985-87 インビシンブル・イレブン
1987-88 トネール・ヤウンデ(カメルーン)
1988-92 モナコ(フランス)
1992-95 パリ・サンジェルマン(フランス)
1995-00 ミラン(イタリア)
2000 チェルシー(イングランド)
2000 マンチェスター・シティ(イングランド)
2000-01 マルセイユ(フランス)
2001-03 アル・ジャジーラ(UAE)
主なタイトル
1989年 アフリカ年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1994年 アフリカ年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1995年 アフリカ年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1995年 アフリカ年間最優秀選手(CAF)
1995年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1995年 世界年間最優秀選手(FIFA
「リベリアの怪人」の異名をもつ、アフリカの生んだ史上最高のストライカー。将来の大統領候補と目されるリベリアの英雄。驚異的なフィジカルを持ち、時に不可能とさえ思われるプレーもやってのける。オールラウンドな能力はDFやGKでさえこなしてしまう。
高い身体能力を生かした突破力、空中戦の強さ、さらに独特のリズムの
ドリブルを生かしアイデアに富んだチャンスメイクは見る者を釘付けにし、1995年にはアフリカ人として初のバロンドールを受賞、1998年には、ベッケンバウアーはヨーロッパの、ペレは南米の、そしてこのウェアはアフリカの、世界中のスポーツジャーナリストが選ぶ20世紀最優秀選手に選出されている。

本名ジョージ・マネー・オポン・オスマン・ウェアは、モンロヴィア郊外のシャンティタウンにて14人兄弟の3番目として生まれる。
幼い時に父親を失い、祖母に育てられた彼の最初の夢はモンロヴィアの
テレフォンオペレーターになることであったという。
15歳の時に当時3部リーグ所属の地元のクラブ、ヤング・サバイバーズと契約するとGKとしてキャリアをスタート。
すぐに得点をする事へ楽しさを覚え、フォワードへ転向し、
30試合に出場し31得点を記録。チームを2部リーグに押し上げたのだった。
その後1部リーグのクラブを経て、1986年にはリベリアで最高のチームであったインビンシブル・イレブンへ移籍をする。
このクラブではキャプテンを務め得点王にもなる活躍を見せると
この活躍がカメルーンのスカウトの目にとまり1987年に国外デビューを果たす。
1シーズンカメルーンで過ごしたウェアはその後フランスのモナコへ移籍。フランスの地でそのポテンシャルを開花させたウェアは91年にフランスカップをもたらすと翌年にはチームを欧州カップウィナーズカップの決勝に導いた。
その後移籍したパリSGでもチームをリーグ優勝に導くと1995年には再びフランスカップをチームにもたらしたのであった。
こうしてフランスで数々の成功を収めたウェアは1995年にアフリカ人として初のバロンドールを受賞し、同年にFIFA選出の世界年間最優秀選手賞も受賞。
最後に自身3度目(89年、94年、95年)となるアフリカ年間最優秀選手賞とこの年の個人タイトルを総なめにしたのであった。

95/96シーズンよりイタリアの名門ACミランへ移籍をしたウェアはここでも2度のリーグ制覇に貢献。
移籍初年度から3シーズン連続クラブの得点王となり
ミラニスタたちに色濃く残るファンバステンの残像を打ち消したのであった。
中でも1996年9月8日ヴェローナ戦で見せた自陣ペナルティエリア付近から相手ペナルティエリア内までドリブルによって駆け上がり記録したゴールは今尚多くのファンに語られる所である。
また、1996年にはFIFAフェアプレイ賞を受賞している。
しかし膝の怪我も重なりかつての輝きに陰りが見え始めると99/00シーズン途中にチェルシーにレンタル移籍。
イングランドではFAカップ獲得に貢献するもその後ミランは契約更新をせず、週給2万5千ポンドでマンチェスター・Cへ。
その後マルセイユを経て、UAEのアル・ジャジーラにてプレー。

代表デビューは1986年2月23日ブルキナ・ファソ戦。
リベリア代表としての実績は、サッカーが盛んではない事もあって
ほとんどないが、そのキャリアを通じて母国代表への援助を怠る事は無かった。
1995年には代表がFIFAに毎年支払う5000ドルを肩代わりし、その他にも代表のユニフォームや遠征時の飛行機のチケットの購入、コーチや監督への給料支払いと母国のサッカーの発展に常に尽力してきたのである。
代表通算記録65試合10得点。

ウェアの祖国への貢献はサッカーに留まらず、内戦に傷ついた人や施設への援助のためにジョージ・ウェア基金を設立。
リベリアのユニセフ親善大使をも務めるウェアは名実共にリベリアの英雄なのである。アフリカの弱小国でしかなかったリベリアだが、20年の歳月を経て、リベリアはアフリカでもトップレベルのチームに成長していた。それはウェアの存在なくしてあり得なかったことだろう。
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Frank Rijkaard フランク・ライカールト

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フルネーム フランクリン・ライカールト
Franklin Rijkaard
ニックネーム フランク
国籍 オランダ
生年月日 1962/9/30
出身地 アムステルダム
ポジション DF(CB),MF(DH,CH)
身長 190cm
体重 80kg
代表デビュー 1981/9/1(通算73試合,10得点)
所属クラブ
1980-88 アヤックス
1988 レアル・サラゴサ(スペイン)
1988-93 ミラン(イタリア)
1993-95 アヤックス
主なタイトル
1988年 欧州選手権優勝
1988/89 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1989年 インターコンチネンタルカップ優勝
1989/90 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1990年 インターコンチネンタルカップ優勝
1993/94 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1994/95 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
88年から90年初頭にかけてグランデミランと呼ばれたACミラン黄金期を支えたオランダトリオの1人であり、クライフ以来のオランダのカリスマプレーヤー。
オランダトリオでは、ファンバステン、グーリットと比べて地味な印象は残るがその高い守備力からボールを奪うと確実に前線につなぎ攻撃の起点として活躍。ライカールトが奪ったボールはグーリットを経由しファンバステンに繋がり、多くのゴールを生み出したのである。
クライフ率いるアヤックスでキャリアをスタートさせたライカールトは
デビュー戦となった1980年8月23日、対ゴー・アヘッド・イーグルス戦にて若干17歳ながらゴールを決め鮮烈デビューを果たす。
すぐにレギュラーに定着をすると翌年には自身初のリーグ制覇に貢献し、同シーズン、1981年9月1日スイス戦では代表デビューを果たしている。
アヤックスで育ち、屈強なCBとして名を馳る。アヤックス在籍8シーズンで3度のリーグ制覇と2度の国内カップ、1度のカップウィナーズカップを獲得したライカールトは欧州選手権を控えた87/88シーズンには、ポルトガルのS・リスボン、スペインのレアルサラゴサ等が獲得に動くなど既に欧州の注目を集めるほどの成長を遂げていた。
そしてサラゴサにレンタル移籍を果たしたライカールトはシーズン終了後、ドイツで開かれた欧州選手権に挑み、見事優勝を果たしたのである。
決勝のソ連戦ではライカールトはブロヒンのパートナー、プロタソフを
完璧に封じ込め、2-0の完封勝利に貢献したのだった。
欧州選手権優勝はライカールトに転機をもたらし、
88/89シーズンよりサッキ率いるミランへの移籍が決まったのである。ミランに移籍後はCHとして活躍、そこでライカールトは1シーズン早く移籍を果たしていたマルコ・ファン・バステン、ルート・グーリットと共にオランダトリオの一角を担う。ミランでは3度の欧州チャンピオン、2度の世界チャンピオンに輝き、黄金期を築き上げる。あの時のミランこそ歴代世界最強と言う専門家もいる程だ。
守備力と言う最後の1ピースをそろえたミランはその年からチャンピオンズカップ、欧州スーパーカップ、トヨタカップのトリプルを2年連続獲得。ライカールトは90年チャンピオンズカップ決勝対ベンフィカ戦の決勝点(1-0)、同年トヨタカップ対オリンピア戦での先制点と駄目押し点(3-0)と重要な場面で貴重なゴールを決め、トヨタカップでは大会最優秀選手に輝いた。
その後の国際大会では1990年ワールドカップでベスト16、
1994年ワールドカップではベスト8に進出。1990年大会では欧州選手権での雪辱に燃えるドイツとの試合において退場劇を演じることとなる。
この試合、激しいマッチアップを繰り広げていたドイツのルディ・フェラーとライカールトは徐々にヒートアップ。両者イエローカード1枚ずつ受けた状態での前半22分、フェラーのオランダのゴールキーパー、ファンブロイケレンへの突進を契機に争いは強まり、両者2枚目のイエローカードを受け退場となったのである。
そしてこのレッドカード直後、ライカールトがフェラーに唾を吐きかけた映像が世界に放送される事になってしまう。
この退場により、攻守の要を失ったオランダはドイツに敗退。
試合後のインタビューでライカールトはフェラーの度重なる黒人差別発言に我を失ったと告白している。
その後ライカールトはチームとフェラーに謝罪、事態は沈静化した。
代表通算73試合10得点

晩年、ライカールトは1993年チャンピオンズカップ決勝でマルセイユに負けたのを受けて93/94シーズンより古巣アヤックスに復帰。ファン・ハール監督の下、若いチームに自分の経験を伝え、精神的支柱として、重要な中盤のキーマンとして自分を育ててくれたチームに従事した。リーグ2連覇に貢献すると1995年にはチャンピオンズカップ決勝にて古巣ミランと対戦。
決勝点となったクライファートのゴールをアシストし古巣を破り、チャンピオンズカップ優勝を決めるとこの試合を最後に現役を引退した。選手生活最後の4シーズンは、いずれもリーグ制覇を成しており、ライカールトの影響力がうかがえる。

現役引退後はヒディング監督に代わり、オランダ代表監督としてユーロ2000に出場。準決勝のイタリア戦にてPKの末敗れると引責辞任。
その後、オランダのスパルタの監督を経て03/04シーズンよりバルセロナの監督に就任。低迷するチームの復活に務める。

ディフェンシブなポジションゆえ地味な印象は拭えず、バロンドールなどでは常にファンバステン、フリットの後塵を拝していたがその攻守においての幅広い活躍は常にチームの要であり、決して代えのきく選手ではなかった。高い位置でのボール奪取を得意とし、確実に味方に繋ぐ。空中戦でも頼りになり戦術眼にも優れ、更には得点にも絡む。オールラウンダーとはライカールトのためにある様な言葉だ。
オランダ女王ベアトリクスからメダルを授与されたこともある。





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Ruud Gullit ルート・グーリット

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フルネーム ルディ・ジル・グーリット
Ridi Dil Gullit
ニックネーム ルート,黒いチューリップ
国籍 オランダ
生年月日 1962/9/1
出身地 アムステルダム
ポジション FW(CF),MF(OH),DF(CB)
身長 186cm
体重 83kg
代表デビュー 1981/9/1(通算64試合,17得点)
所属クラブ
1973-75 メーア・ボーイズ・アムステルダム
1975-79 DWSアムステルダム
1979-82 ハーレム
1982-85 フェイエノールト
1985-87 PSVアイントホーフェン
1987-93 ミラン(イタリア)
1993-94 サンプドリア(イタリア)
1994 ミラン(イタリア)
1994-95 サンプドリア(イタリア)
1995-97 チェルシー(イングランド)
主なタイトル
1988年 欧州選手権優勝
1988/89 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1989/90 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1990年 インターコンチネンタルカップ優勝
1987年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1987年 世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌)
1989年 世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌)
高いヘディングに強力なシュート、圧倒的なスピードに素晴らしいパスセンス、その高い技術と身体能力でFW、MF、DFと全てのポジションを巧みにこなした。
また、その技術に加えドレッドヘアの風貌で常にピッチ上で存在感を放ち、長年に渡って世界最高の天才オールラウンダーとして君臨した。元オランダ代表。ピッチの外では蘭・独・仏・伊・英語の5ヶ国語を話す知性派としても知られる。
1962年9月1日、オランダにサッカーの革命児が誕生した。この子はルディと名づけられ、次第にサッカーにのめりこんでいくことになる。アムステルダムで、親友のフランク・ライカールトらとストリートサッカーに興じる姿をメーア・ボーイズの監督に見いだされたのが11歳の時だった。
スリナム人の父親とオランダ人の母親の間に生まれ、8歳の時、メールボーイズというサッカークラブに所属しサッカーを始める。
17歳の時にオランダの名門アヤックスのオファーを受けるが彼はそれを断りハーレムにてプロデビューを果たすと、その後フェイエノールトに移籍、83/84シーズンのリーグ制覇とカップ戦のダブルに大きな役割を果たしこの年のオランダ年間最優秀選手を受賞する。
その後もオランダ国内での彼の評判は高まり、85/86シーズンにはPSVに移籍。
加入したその年にいきなり8シーズン振りとなるリーグ優勝をチームにもたらすと、自身もリベロながら24得点という驚異的な記録を打ち立て、2度目のオランダ年間最優秀選手を受賞する。
翌シーズンにもリーグ優勝をもたらし再び22得点を記録するとその活躍はミランのベルルスコーニ会長の目にとまり、当時の移籍金最高額となる840万ドルでイタリアに渡る。
80年代当時はユベントスの黄金期でありミランは長い間優勝から遠ざかっていたがグーリットが加入した87/88シーズンにミランは9年ぶりにスクデットを獲得。
グーリットはこのシーズン中にバロンドールと世界年間最優秀選手賞を受賞している。
そしてこのスクデットを皮切りにミランは黄金期を築く事となりグーリットがミランに在籍した間にチームは3度のスクデット、そしてチャンピオンズカップ、欧州スーパーカップ、トヨタカップのトリプルを2年連続で成し遂げ、自身も88/89シーズンのチャンピオンズカップ決勝戦で2得点をあげると1989年には2度目となる世界年間最優秀選手賞を受賞した。グーリットはこの2度の栄冠を、当時投獄されていた黒人解放運動の中心人物、ネルソン・マンデラ氏に捧げている。
93/94シーズンにはサンプドリアに移籍。
ここでコッパイタリアを制覇する活躍を見せて、再びミランに呼び戻されるがベルルスコーニ会長の、「彼を控えで使う」と言う贅沢な計画を
グーリットのプライドは許さずすぐにサンプドリアに戻っている。
その後プレーの場をイングランドに求めたグーリットはチェルシーに移籍。
ここで選手と監督を兼任すると96/97シーズンにはFAカップを制覇し、グーリットは初めてイギリス人以外でFAカップを制した監督となった。

代表デビューは1981年9月1日、スイス戦。
キャプテンとして挑んだ1988年、オランダ初のビッグタイトルとなる欧州選手権優勝を果たす。
欧州選手権では、決勝ソビエト戦にて貴重な先制点をマーク。
チームは2-0で勝利し、オランダに初の国際タイトルをもたらした。
しかしワールドカップには恵まれず、1990年はベスト16に終わると1994年にはアドフォカート監督との確執により代表召集を拒否している。
代表通算記録66試合17得点。

1997年に現役を引退するとその後はチェルシーの監督に専念。
その後ニューカッスルの監督も経験している。
余談だが彼は生涯で3回の結婚を経験しており、最後に結婚した相手は
あのクライフの姪、エステル・クライフである。
また、オランダ国内ではレゲエ歌手としても人気を集め歌により黒人の権利獲得に努めるとオランダチャートでは1位になった事もある。

グーリットは歴代のスタープレーヤーの、良い所だけを持った素晴らしいサッカー選手に成長した。グーリットをサッカーの革命児と呼ぶ人は多い。ストライカーからリベロまで、ありとあらゆるポジションを見事にこなしてみせたからだ。サッカーの革命児のプレーは、今見ても新鮮で、美しい。ピッチに映える一輪のチューリップ。その姿はオランダの象徴だった。



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Marco Van Basten マルコ・ファン・バステン

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フルネーム マルセル・ファン・バステン
Marcel Van Basten
ニックネーム サン・マルコ
国籍 オランダ
生年月日 1964/10/31
出身地 ユトレヒト
ポジション FW(CF)
身長 188cm
体重 80kg
代表デビュー 1983/9/7(通算58試合,24得点)
所属クラブ
1970-80 UVVユトレヒト
1980-81 エリンベイク・ユトレヒト
1981-87 アヤックス
1987-95 ミラン(イタリア)
主なタイトル
1988年 欧州選手権優勝
1988/89 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1989年 インターコンチネンタルカップ優勝
1989/90 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1990年 インターコンチネンタルカップ優勝
1988年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1988年 世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌)
1989年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1992年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1992年 世界年間最優秀選手(FIFA)
1992年 世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌)
90年代最高のストライカーの1人でありクライフ世代以降のスーパースター。
長身を活かした空中戦、抜群のバランス感覚、素晴らしい瞬発力に決定力と、ストライカーとして必要な能力をすべて備え、柔軟な足下のテクニックからゲームメーカーとしても機能する万能型プレーヤーであった。
ユトレヒトにてDFとしてプレーした父親にあらゆるテクニックを教わり地元アマチーム、エリンクウイックでプレーした後、16才6ケ月にてアヤックスに入団する。当時、引退を間近にしていたクライフにも認められ1982年4月3日 NEC 戦にてトップデビュー、いきなりゴールを記録し誰もが新たなスタープレーヤーの誕生を予感、その通りの王道を歩み始める。
アヤックス通算6シーズン中リーグ優勝3回、カップ戦優勝3回、86/87シーズンにはカップ・ウィナーズ・カップなど数々のタイトルを
チームにもたらし、自身もリーグ4年連続得点王、1986年には37得点を挙げゴールデンブーツも獲得し、その名前を全世界に知らしめる。(アヤックス通算133試合128ゴール)
驚異的な活躍を見せたファン・バステンは1987年、当時世界最強と謳われたミランに移籍する。
初年度こそ怪我で活躍出来なかったが、翌シーズンよりその能力を発揮、3度スクデット獲得に加え、2度の得点王を獲得、更にクライフ、
プラティニに次ぐ史上3人目となる3度のバロンドールを受賞している。147試合に出場し、90得点という素晴らしい活躍を見せる。この数字は1年間フル出場すると年間平均20ゴールという恐ろしい数字になる。

代表デビューは1983年9月7日アイスランド戦。
ワールド杯での活躍は巡り合わせも悪く1990年のベスト16進出止まりだがオランダ代表として通算58試合24得点を記録している。
1988年欧州選手権ではイングランド戦にてハットトリック、西ドイツ戦では決勝ゴール、欧州選手権決勝のソ連戦。54分に左サイドのアーノルド・ミューレンからクロスが上がる。だがこのクロスは失敗のように思われた。周りから見れば、その時点でファン・バステンは中央に折り返すか、ボールをコントロールするかしかなかったからだ。しかしファン・バステンはそのパスを自分とは対角のゴールに叩き込んでしまう。ソ連のGKリナト・ダサエフはボールを取ることはおろか、見ることすら出来なかっただろう。ただ自分の頭の上を通過するボールの唸り声だけが聞こえていた。
20世紀最高のゴールと賞されるスーパーボレーを決めオランダを欧州の頂点に導くと同時に自身も得点王に輝いた。

残念なのは、両足首、左膝と怪我に悩まされ幾度かの手術を経験、
リハビリ生活後には復活を予感させるも結局完治するには至らず1995年8月17日、31歳の若さで引退となった。
当時サッカー界において、想像出来ない程の損失であったのは言うまでもない。たび重なる怪我により若くして引退に追い込まれることになるが、彼が世界に与えた衝撃、感動は永遠に伝説として語り継がれることだろう。

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セリエA、ACミランがトレビソに大勝

サッカーのイタリア・セリエAは8日、各地で10試合を行い、ACミランはトレビソに5―0で大勝した。
 ACミランは前半14分にカカが先制ゴールを決めると、シェフチェンコが2得点、ジラルディーニョ、インザーギもそれぞれ加点した。
 ユベントスは前半終了間際のイブラヒモビッチの同点ゴールでパルマと1―1のドロー。
 インテルはフィオレンティーナに1―2で敗れた。
 ユベントスが勝ち点63で首位を堅守。
 インテルが同54でユベントスに9差の2位、ACミランが同51で3位、フィオレンティーナが同50の4位につけており、2位争いが激化してきた。 トレビーゾは明らかに守りを固めていたが、それでもミランの攻撃に苦しめられ、反撃に転じるのも難しかった。前半5分にはミランに初めてのチャンス。ジラルディーノがうまく動いたが、ディフェンスにクリアされた。

 14分にはミランが先制。ジラルディーノのアシストを受けたカカがゴール隅に強烈なシュートを放ち、GKセレーニは届かなかった。その2分後にはトレビーゾが初めてのシュート。レジナウドが狙ったが、GKジーダのポジショニングはしっかりしていた。

 24分にはジラルディーノの鋭いミドルシュートをセレーニがはじいてCKに逃れる。1分後、ネスタの力強いヘディングはわずかにゴールの上を越えた。トレビーゾはよくスペースを埋めてはいたが、攻撃を繰り出すことはできずにいた。33分にはビアリが負傷。代役にジュリアットが投入された。

 34分にはミランが好プレー。FKからフォーゲルがボレーシュートを狙ったが、ボールははじかれてCKとなった。前半最後のチャンスはセードルフのクロスに合わせたシェフチェコのヘディング(43分)。しかしボールはゴールポストをたたいた。

 後半はミランが爆発。53分にはカカのパスを受けたシェフチェンコがエリア内に入り、右足の正確なシュートでセレーニを破った。その9分後には3-0。今度はセードルフの縦パスを受けたジラルディーノが右足でゴールネットを揺らした。4点目はわずか3分後の65分。シェフチェンコがエリア外からの強烈なシュートで自らの2点目を決めた。

 さらにシェフチェンコとの交代で出場したフィリッポ・インザーギもゴール。73分、カカのシュートをセレーニがはじいたところを押し込んで5-0とした。最後は観客席からカカに大きな拍手。敗れたトレビーゾにも拍手が送られた。
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