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Michael Owen マイケル・オーウェン

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フルネーム マイケル・ジェームス・オーウェン
Michael James Owen
ニックネーム ワンダーボーイ
国籍 イングランド
生年月日 1979/12/14
出身地 チェスター
ポジション FW(CF)
身長 175cm
体重 64kg
代表デビュー 1998/2/11
所属クラブ
1996-04 リバプール
2004-05 レアル・マドリード(スペイン)
2005- ニューカッスル・ユナイテッド
主なタイトル
2000/01 UEFAカップ優勝
2001年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
2001年 世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌)

20世紀最後のダイヤの原石は1998年ワールドカップ、フランスの地で発掘された。その圧倒的な瞬発力はマーカーを一瞬のうちに置き去りにし、シャープなシュートであっという間にゴールを生み出す。
俊足を生かした鋭いドリブルを擁し、天性の得点感覚によってゴールを量産、「ワンダー・キッド(驚異の少年)」の異名でも知られるイングランド代表ストライカー。

プロサッカー選手であった父テリーの影響もあり6才の時にはプロになる夢を抱く。
7才になった頃には、その才能を開花させ始めジュニアの試合で20分間で9得点を記録するなどの活躍を見せ、Uー11では72得点を記録する。
1997年リバプールユースを卒業と同時にトップデビューを果たし、
試合には敗れたもののチーム唯一の得点を記録、その後の試合でも得点を重ね通算18得点でいきなりの得点王を獲得する。
また、この活躍もあって97年代表初招集、98年2月に行われた親善試合チリ戦で代表デビューを飾り、これは当時イングランド20世紀最年少デビュー記録(18才59日)となるものであった。
1998年W杯でも、初の大舞台ながらズバ抜けた存在感を示し決勝トーナメントアルゼンチン戦、この大会のベストゴールとも言える得点を決めその能力の高さを証明、世界的名声を手中にする。
98/99シーズンに昨季に続くプレミア得点王を獲得、翌99/00シーズンは故障によって戦線離脱するも復帰後はゴールを量産した。
00/01シーズンのリバプールの3冠、言うまでもなくその存在は不可欠であった。また、その活躍が認められ2001年ワールドサッカー誌が選出する世界最優秀選手、フランスフットボール誌が選出するバロンド-ルの2大タイトルに選出された。
しかし、その後チームはタイトルから見放され、自身の夢でもあるチャンピオンズ・リーグ制覇を達成するため、スペイン強豪レアルへと移籍したが皮肉にも移籍初年度にこの大会を制したのは古巣リバプールであった・・。

代表として2000年欧州選手権では背番号「10」を付けエースとして挑むが3試合1得点と振るわず、チームもまさかの予選リーグ敗退であった。
しかし、2002年W杯では大会を通して高いパフォーマンスを見せ
予選リーグでは無得点に終わるも決勝トーナメント1回戦デンマーク戦で1得点、試合に敗れた準々決勝ブラジル戦でもチーム唯一の得点を挙げている。

1998年ワールドカップ。決勝トーナメント1回戦のアルゼンチン戦に出場した「ワンダーボーイ」オーウェンは、ハーフウェーライン付近でボールを持つと、一気にトップギアに突入し2人のDFをかわす。スピードに乗ったまま放ったシュートは、綺麗な弧を描きアルゼンチンゴールに吸い込まれていった。警告が多く退場者も出た荒れた試合だったが、この試合が評価されたのはフランス大会最高ともいわれたオーウェンのゴールがあったからこそだろう。
2001年にはヨーロッパで最も栄誉ある賞、バロンドールを22才で獲得し凄みも増してきた。2002年ワールドカップでは期待された程の働きは出来なかったが、もはやその評価は揺るぎない。

現在は故障中であるが、Wカップドイツ大会へ向け、順調にリハビリ中であり、復帰して大活躍してくれる事を期待している。



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Roy Keane ロイ・キーン

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フルネーム ロイ・モーリス・キーン
Roy Maurice Keane
ニックネーム キーノ,闘将
国籍 アイルランド
生年月日 1971/8/10
出身地 コーク
ポジション MF(CH),DF(CB)
身長 179cm
体重 81kg
代表デビュー 1991/5/22vsCHI
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1989/90 コブ・ランブラーズ - -
1990/91 ノッティンガム・フォレスト 35 8
1991/92 ノッティンガム・フォレスト 39 8
1992/93 ノッティンガム・フォレスト 40 6
1993/94 マンチェスター・ユナイテッド 37 5
1994/95 マンチェスター・ユナイテッド 25 2
1995/96 マンチェスター・ユナイテッド 29 6
1996/97 マンチェスター・ユナイテッド 21 2
1997/98 マンチェスター・ユナイテッド 9 2
1998/99 マンチェスター・ユナイテッド 35 2
1999/00 マンチェスター・ユナイテッド 29 5
2000/01 マンチェスター・ユナイテッド 28 2
2001/02 マンチェスター・ユナイテッド 28 3
2002/03 マンチェスター・ユナイテッド 21 0
2003/04 マンチェスター・ユナイテッド 28 3
2004/05 マンチェスター・ユナイテッド 31 1
2005/06
(dec) マンチェスター・ユナイテッド 5 0
セルティック * *
主なタイトル
1998/99 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1999 インターコンチネンタルカップ優勝

闘争心を前面に押し出し絶対的な存在としてピッチに君臨するチームのリーダー。
90年代半ばから現在に至るまでの最強を誇るマンチェスター・Uの
大黒柱であり1997年以降はキャプテンとしても活躍する世界でも屈指のセンターハーフ。
両サイド攻撃の安定に欠かす事の出来ない選手でありこのチームにおいて最も重要な選手との評価を得ている。(実際に怪我のためシーズン中の出場が叶わなかった97/98シーズンチームは無冠)
激しい気性でも知られ、仲間がファウルを受けた時には鬼の形相で相手選手に詰め寄って行き、それがしばしば警告の対象となるが、その性格あっての統率力は見事と言うしかなく個性あるスター軍団をまとめあげると共に絶大な精神的支柱でもある。

アイルランド代表として挑んだ1994年W杯欧州予選では、
前評判の高かったポルトガルを粉砕して本大会への切符を手中にし、
本大会では4試合フル出場を果たしてベスト16に大きく貢献した。
2002年ワールドカップ予選、ホームでのオランダ戦の活躍は特に素晴らしく、アイルランドが退場者を出した後の30分間の活躍は驚異的と言うほか無く、アイルランドの各紙は10点という最高の評価を偉大なキャプテンに与えた。
素晴らしい存在感でチームを本大会へ導き本人にとって最後となるであろうW杯での活躍が期待されたが開幕直前にフロント陣とトラブルをおこしてしまい帰国してしまったのは非常に残念な所である。
その後は代表から離れたが新監督ブライアン・カーの元2004年5月27日ルーマニア戦にて代表復帰を果たしている。

2005年11月18日、MUTVでのチーム批判が引き金となり、突如マンチェスター・ユナイテッドとの契約を解除。12月15日に幼少の頃から最も愛するクラブ、セルティックへの移籍が決定した。

余談だが、2001年3月にアイルランドサッカー協会の腐敗に抗議し、「改善されなければ残りW杯予選を辞退する」として協会を納得させた事は有名な話である。




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シェフチェンコ、得点王狙う!欧州CL準々決勝

欧州チャンピオンズリーグ準々決勝第1戦2試合が29日に行われる。リヨン(フランス)と対戦するACミラン(イタリア)のウクライナ代表FWシェフチェンコが大会得点王に意欲を見せた。
「得点王を獲得して優勝できれば、これ以上の結果はない」。
現在の8得点は2位に2点差の単独トップ。
1大会最多は3季前にオランダ代表FWファンニステルローイ(マンチェスターU)が記録した12ゴール。
欧州カップ戦通算得点も2位の元ポルトガル代表FWエウゼビオに1点差の55得点に迫っている。

Walter ZENGA ワルター・ゼンガ

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フルネーム ワルター・ゼンガ
国籍 イタリア
生年月日 1960年4月28日
出身地 ミラノ
ポジション GK
身長・体重 188cm・84kg
個人タイトル なし
ワールドカップ1986年ベスト16
1990年3位

所属クラブ
1977-78 インテル
1978-79 サレルニターナ
1979-80 サボナ
1980-82 サンベネッド
1982-94 インテル
1994-96 サンプドリア
1996-97 パドバ
1997-99 ニューイングランド・レボリューション(米国)

GKながら、その絶大な存在感によってインテル不動の守護神として
10年以上君臨した元イタリア代表プレーヤー。

味方の選手がゴールを決めると歓喜し、悪質なファウルには激怒し、
また、審判の不可解な判定には断固として抗議し、時折その行為が
カードの対象となる事も少なくはなかったが、そのリーダーシップによってチームの志気を高め、数々のピンチを救い、そのキャラクターは
チームに不可欠であったと同時に、ファンからも絶大な人気を集めた。
GKとしての技術は言うまでもなく、ゼンガがいるだけでチームは安定感を増し、ゼンガの好調時にはゴールを奪うのは不可能とまで言われた。スクデットの栄光こそ88/89シーズンただ1度のみに終わっているが1991年、94年と2度のUEFAカップを手中にしている。

1986年ワールドカップではガリの控えとしてメンバーに選出され、
1990年ワールドカップでは不動の守護神として全試合に出場、
準決勝にてマラドーナ擁するアルゼンチンにPK戦の末敗れるが、
3位という好成績になくてはならない存在であった。代表通算58試合。キャリアの晩年はイタリアを離れMLSに参加、ここでも絶大な人気を得た。

現在は日本代表の鈴木隆行が所属するレッドスターの監督を務めている。


ミランのシェフチェンコ「ジュニーニョはロナウジーニョより上」

ミランのウクライナ人FWアンドリー・シェフチェンコは、フランスの日刊紙『レキップ』のインタビューに答え、オリンピック・リヨンのブラジル人MFジュニーニョを称賛した。
ジュニーニョは水曜日にスタッド・ジェルランで行われる、チャンピオンズリーグ準々決勝第1戦のミラン戦には出場停止となっている。
「水曜日の試合にジュニーニョはいない。彼はFKに関してはロナウジーニョ以上だと思う。彼がいないのは僕らにとって有利だ。リヨンはサン・シーロよりもホームでより多くのFKを獲得すると思う。ジュニーニョのFKは本当に信じられない」

セットプレーに関してジュニーニョがロナウジーニョ以上だと考える理由について、シェフチェンコは次のように説明した。
「ジュニーニョは何通りもの蹴り方ができる。ロナウジーニョはゴールに近い位置からのFKがうまい」

また、シェフチェンコはリヨンに対しても注意を呼びかけた。
「アンドレア・ピルロのことも忘れない方がいい。彼もセットプレーのスペシャリストだ」

ロナウジーニョ漫画になる…祖国で発売予定

ロナウジーニョ(バルセロナ)が子供向けコミック本になった。ブラジルでの少年時代の貴重な写真168枚も含まれており、サッカーファンからも注目されている。28日(日本時間29日未明)の欧州チャンピオンズリーグ、対ベンフィカ戦でピッチに戻ってくるロナウジーニョは、ピッチ外でも話題の的だ。

週末のスペインリーグ、ライカールト監督はロナウジーニョを含むスタメン7人をベンフィカ戦のために温存したところ、結果は引き分けに終わった。

エトーのゴールが幻に終わる不運もあったが、改めて常勝バルサ軍におけるロナウジーニョの存在の大きさを印象づけた。

話題のコミック本は、カナリア色のユニホームを着た、出っ歯で8歳のロナウジーニョ少年が主人公で、実母ミゲリーナさん、代理人の実兄アシス氏ら一族が実名で登場。24時間サッカーボールを身体から離さないなど、サッカー道に邁進(まいしん)する少年と、それを支える家族の生活が、ユーモラスに描かれている。

昨年暮れ、ロナウジーニョ本人の承諾をとって製作され、今後ブラジルで発売予定。300万部の売り上げを見込んでいるという。

強敵チェルシーをアウエーで粉砕したバルサは、ホームでロナウジーニョの鮮やかなゴールでベスト8への切符を手にした。

それだけに今回も、「ポルトガルでの初戦で、アウエーゴールを決めてほしい」とライカールト監督はロナウジーニョに期待している。

Giuseppe GIANNINI ジュゼッペ・ジャンニーニ

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フルネーム ジュゼッペ・ジャンニーニ
国籍 イタリア
生年月日 1964年8月20日
出身地 ローマ
ポジション MF
身長・体重 177cm・70kg
個人タイトル なし
ワールドカップ1990年3位

所属クラブ
1981-96 ローマ
1996-97 シュトゥルム・グラーツ(オーストリア)
1997-98 ナポリ
1998-99 レッチェ

82/83シーズン、ローマをスクデットに導いたファルカンの後継者として君臨、甘いマスクと長髪をなびかせて華麗に舞うプレースタイルからプリンシペ(王子)の愛称で親しまれ、ロマニスタから絶大な人気を誇った。現在ローマにて同じ愛称で親しまれるイタリア代表トッティのアイドルでもある。

ローマ生まれのローマ育ちであり、ローマの下部組織で育った後、弱冠17才1982年1月31日チェゼーナ戦にてセリエAデビューを果たした。
翌シーズン、出場機会こそなかったが41/42シーズン以来となる
リーグ優勝を経験、84/85シーズンよりレギュラーに定着すると
ファルカンの去った後の約10年に渡ってチームの顔として絶大な人気と存在感を示した。しかし、在籍中2度のコパ・イタリアを制したものの、肝心のスクデットには手が届かず、その後の若手の成長もあり1996年にチームを離れる。オーストリアへ新天地を求めた彼だが、ドイツの系譜を引くパワーサッカーに馴染む事が出来ず16試合2得点で帰国、ローマ時代の恩師マッツォーネに呼ばれナポリへ加入する。だが、そのマッツォーネが4連敗で早々と解任されると彼も居場所を失いシーズン途中にレッチェに移籍する事となる。
キャリアの最後となった98/99シーズンはセリエBでの舞台となったが33試合に出場しチームのセリエA復帰の原動力となって活躍した。

Uー21代表として21試合に出場、その後の1987年12月5日マルタ戦にて代表デビューを果たしイタリア代表次代を担うファンタジスタとして期待されるが、同じ世代に世界最高のファンタジスタと称されるR・バッジョの存在が、彼にとって最大の不運であったと言える。
それでも1990年ワールド杯では全7試合に出場し、予選リーグアメリカ戦では決勝点を挙げるなどの活躍を見せた。イタリア代表通算47試合6得点。
2000年5月17日、ローマのホームスタジアムであるスタディオ・オリンピコにて引退記念試合が行われ、ファルカン、マンチーニ、フェラー、コンティ、リードホルム等歴代のイタリア代表やローマのスタープレーヤーが顔を揃えた。

Dino BAGGIO ディノ・バッジョ

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フルネーム ディノ・バッジョ
国籍 イタリア
生年月日 1971年7月24日
出身地 カンポサンピエロ
ポジション MF
身長・体重 188cm・83kg
個人タイトルなし
ワールドカップ1994年準優勝
1998年ベスト8
所属クラブ
1988-91 トリノ
1991-92 インテル
1992-94 ユベントス
1994-00 パルマ
2000-03 ラツィオ
2003-04 ブラックバーン(イングランド)
2003- アンコーナ

豊富な運動量と守備能力で中盤を支配し、長身を活かしたヘッド、強烈な長距離砲も持ち味として活躍した元イタリア代表MF。

89/90シーズン、当時セリエBにあったトリノにてトップデビューを果たしセリエA昇格となった翌90/91シーズン、1990年9月9日ラツィオ戦にてセリエAデビューを果たす。ここで見せた高いポテンシャルが認められ翌シーズンにインテルへ引き抜かれた後、強豪ユベントスへ。
加入シーズンから抜群の存在感を示しUEFAカップ優勝に大きく貢献、決勝ドルトムント戦ではアウェイ戦にて1ゴール、ホームにて2ゴールの活躍を見せている。94/95シーズンよりパルマへ移りチームの躍進に貢献、すぐに不動の地位を確立させ加入シーズンUEFAカップ決勝では古巣ユベントスを相手にホームにて決勝弾、アウェイにて同点弾と通算2ー1の勝利に貢献し自身2度目の欧州カップを手中にした。98/99シーズンの同大会でも優勝、更にコパ・イタリア優勝の2冠に貢献した後、強豪ラツィオへ引き抜かれるがシーズンを重ねる事に出場機会は激減、プレーする場を求めプレミアリーグ、ブラックバーンへ移ったもののレギュラーの座を確立するに至らずシーズン途中にして不振に喘ぐアンコーナへ移った。

1991年12月21日、フォッジャで開催されたキプロス戦にて代表デビュー。
その後代表に欠かせぬ存在となり通算60試合(7得点)に出場している。1994年ワールド杯全7試合、1998年ワールド杯全5試合に出場、中盤で抜群の存在感を見せた。

インテル、ユベントス、パルマと当時ビッグ7に数えられたチームに在籍しながら1度のスクデットも手中に出来なかったのは不運としか言いようがないだろう。

Luca Toni ルカ・トニ

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フルネーム ルカ・トニ
Luca Toni
国籍 イタリア
生年月日 1977/5/26
出身地 パブッロ・ネル・フリニャーノ
ポジション FW(CF)
身長 194cm
体重 89kg
代表デビュー 2004/8/18vsISL
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1994/95 モデナ 7 2
1995/96 モデナ 25 5
1996/97 エンポリ 3 1
1997/98 フィオレンティーナ 25 2
1998/99 ロディジャーニ 31 15
1999/00 トレビゾ 35 15
2000/01 ビチェンツァ 31 9
2001/02 ブレシア 28 13
2002/03 ブレシア 16 2
2003/04 パレルモ 45 30
2004/05 パレルモ 35 20
2005/06 フィオレンティーナ

ボールコントロールが巧く、懐の深いボールキープ力に優れる。
長身ながらヘディングシュートは不得意である反面、左右両足からゴールを狙え素晴らしいスピードも持ち合わせるイタリア代表FW。

ファン・バステンに憧れサッカーを始め、13才で地元モデナの育成組織に入る。17才の時にモデナにてプロデビュー( C1 )、その後 SERIE B、C、のチームでプレーし98/99シーズンにはセリエC1最優秀選手に選出、99/00シーズン、トレビソ(B)でも15得点の活躍を見せて注目を集め翌シーズンよりSERIE Bヴィチェンツァへ引き抜かれる。
2000年10月1日のミラン戦にてAデビューを果たすとカロンとのコンビでチームのアイドルとして人気を得た。このシーズン、自身は9得点を記録したものの、チームはB降格の不運、01/02シーズンよりブレッシャへ移籍する。
リーグ序盤こそ怪我で出遅れたが、復帰するや得点を量産、第28節ではハットトリックを達成するなどの活躍を見せ、前季を上回る13得点を記録している。
03/04シーズンよりセリエBパレルモへ引き抜かれると、その才能を遺憾なく発揮、通算30得点を挙げ得点王を獲得し、チームのA昇格に多大なる貢献をすると、A復帰となった翌シーズンにも20得点とゴールを量産しチームのUEFAカップ出場権獲得に貢献した。
シーズン終了後、低迷するフィオレンティーナへ移籍。ゴールを量産しチームを上位に引き上げる原動力となっている。

若い頃から次代のイタリア代表を担う逸材として注目されていたが
そのピッチに初めて立ったのは27才で迎えた2004年8月18日アイスランドとの親善試合、代表2キャップ目となるW杯欧州予選第1節ノルウェー戦では代表初得点を挙げこれは母国イタリアに貴重な勝点3をもたらす値千金の決勝弾であった。
その後はコンスタントにメンバーに選出されており、ジラルディーノと並んで次代のエース候補筆頭株であるのは言うまでもないだろう。

遅咲きのストライカーは今やイタリア代表になくてはならない存在にまで成長した。彼がここまで成長した理由の1つに、ブレシア時代ある男との出会いがあった。イタリアの至宝ロベルト・バッジョその人である。彼のサッカーに対する情熱、高度なテクニックをまじかで見ることでさらなる成長を遂げたのだ。

ルカ・トニ まさにシンデレラストーリーの様な彼のストーリーはまだ終わらない。



Giancarlo ANTOGNONI ジャンカルロ・アントニョーニ

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フルネーム ジャンカルロ・アントニョーニ
国籍 イタリア
生年月日 1954年4月1日
出身地 マルチアーノ
ポジション MF
身長・体重 179cm・73kg
個人タイトル なし
ワールドカップ1978年4位
       1982年優勝

所属クラブ
1970-72 アスティマコビ
1972-87 フィオレンティーナ
1987-89 ローザンヌ(スイス)

70年代から80年代に15年間に渡ってフィオレンティーナの中盤に君臨、抜群のゲームメイクとオールラウンドの才能を併せ持つ典型的なレジスタ。
近年、フィオレンティーナの英雄と言えばバティストゥータの名が挙がるかもしれないがフィオレンティーナのオールドファンは、このアントニョーニの名を挙げることだろう。

1954年4月1日ペルージャ近郊のマルチアーノで生まれる。
彼がキャリアをスタートさせたのはトリノ郊外のセリエDチーム、アスティマコビ。
彼はここで16歳の誕生日にデビューを飾ると、優雅なタッチ、若々しいパワー、そしてオールラウンドの才能を遺憾なく発揮し、人々に強烈な印象を与えると、1971年には若手選手を集めるアッズーリトレーニングセンターにも呼ばれその才能と技術をさらに高める。
そんな彼が当時のフィオレンティーナコーチ、リードホルムの目にとまったのは極自然なことであった。彼の才能に魅せられたリードホルムは
他のビッククラブとの獲得競争に勝ちクラブ史上最高額となる移籍金で
フィオレンティーナに連れて来る事に成功する。

68/69シーズンのスクデットより、低迷していたクラブは当時若返りを図っており、弱冠17歳だったアントニョーニはすぐにトップチームに起用される。
その後15年にわたってフィオレンティーナの中盤を指揮すると74/75シーズンには彼にとって唯一のタイトルとなるコッパイタリア制覇を果たす。
当時最強を誇ったユベントス等、数々の強豪クラブの勧誘にも首を縦に振らずそのキャリアのほとんどをフィオレンティーナに捧げ、自身は341試合61得点を記録、そのゴール数はバティストゥータらに続きフィオレンティーナ歴代5位の記録であった。

代表デビューは1974年11月20日オランダ戦。
1978年ワールド杯にて5試合に出場しベスト4進出に貢献すると
1982年のワールドカップではチームを決勝まで導き優勝の原動力となった。
しかし準決勝ポーランド戦にて負った足首の怪我から決勝の舞台に立つ事は叶わなかった。

キャリアの終盤の1987年にスイスのローザンヌからオファーを受ける。
それから彼の引退までローザンヌは多くの新しいファンを得ることとなった。
フィオレンティーナの多くのサポーターがスイスまで彼見たさに足を運んだのである。彼はスイスで2シーズンプレーをし現役を引退した。

現役引退後、彼はチャリティーマッチに出場するためにフィレンツェの町に戻りそこで彼は大勢のファンに向かってスピーチを行っている。
「私がもしローマやユーベに行っていたなら、恐らく3つか4つのタイトル、そしてチャンピオンズカップでさえ手に入れることが出来たのかも知れない。しかし、私を愛してくれる4万人ものファンと別れる事は私には出来なかった。私にとって皆さんの愛が最も大切なものであり、これが私が15年間、フィレンツェの町を離れることを決して考え無かった理由なのです。」
フィレンツェとフィオレンティーナを愛した男のスピーチを聞いた観衆の割れんばかりの拍手と歓声は、その後5分以上も鳴り止む事は無かった・・・・・。フィレンツェの心の中に今尚記憶される彼は、数々のタイトルとは無縁であってもそれ以上の財産を手中にしていたのは言うまでもないだろう。

Dario Hübner ダリオ・ヒュブナー

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フルネーム ダリオ・ヒュブナー
Dario Hübner
ニックネーム サイボーグ
国籍 イタリア
生年月日 1967/4/28
出身地 トリエステ
ポジション FW(CF)
身長 184cm
体重 77kg
所属クラブ
1987-88 ピエビジーナ
1988-89 ペルゴクレーマ
1989-92 ファーノ
1992-97 チェゼーナ
1997-01 ブレシア
2001-03 ピアチェンツァ
2003 アンコナ
2004- ペルージャ

今尚衰えを知らない強靱でいて柔軟な身体、そこから繰り出される正確なシュートは数多くのゴールを記録する・・、イタリア代表経験はないが、その能力は誰もが認めるストライカーである。

地域リーグのピエヴィジーナでキャリアをスタートさせ25試合10ゴール、C2のペルゴクレーマに加入し通算30試合6ゴール、88/89シーズン途中に同じC2のファーノへ移籍し27試合8得点、チームをC1へ引き上げる。
その後セリエBのチェゼーナへ移籍し通算166試合72得点を記録、
97/98シーズンよりブレッシャへ移籍しセリエAデビューを果たす。
ここですぐに活躍、30試合16得点を挙げ、その能力はセリエAでも
通用する事を証明するが、チームの結果に繋がる事なく、再びセリエBへ。
99/00シーズンには2年連続となる21得点を挙げチームをセリエAに昇格させ、向かえた2度目のセリエA(01/02)シーズンは17得点を記録しチームの躍進に貢献した。
01/02シーズンよりセリエAに昇格したピアチェンツァへ加入し
素晴らしい決定力を発揮、35才にして24得点を挙げトレゼゲ(ユベントス)と並んで得点王を獲得しチームのA 残留に大きく貢献した。
翌02/03シーズン、残念ながらチームのA残留は成し得なかったが
自身は14得点を挙げ、その年齢とは思えぬパフォーマンスで魅了した。
03/04シーズンよりA昇格を果たしたアンコーナに加入したが
活躍出来ず、シーズン途中で不振に苦しむペルージャへ活躍の場を移している。

前述の通りヒュブナーはブレシア所属時の1997/98シーズン、インテル戦で30歳の高齢にしてセリエAデビューを飾った。本来なら「下積みが永い」と表現するのだが、彼の場合は少々理由が異なる。当時セリエBに属していたチェゼーナでプレーをしていた時に憧れのクラブ、インテルからの誘いがあったが、彼はそれを断っている。その理由は「チェゼーナをセリエAに昇格させたかったから。それと会長がいい人だったから」と言う。

これだけの得点能力がありながら、その名前は長い間無名であった。
セリエB時代には数多くのセリエAチームからのオファーもあったが
けして金銭で動く選手ではなかった。
もし若い時代にセリエAチームを渡り歩いていたなら間違いなくイタリア代表にも名を連ねていたと思われる。
セリエBのトップレベルで長い下積みを経た経験が現在の彼を支え、それがあの素晴らしいプレーにつながっているのだろう。
本人が望めば、もっと多くの報酬を得ることができただろう。しかしヒュブナーはそれを良しとしない。妻と子供と酒とタバコと、それと彼の大好きなカルチョがあればよい。人生の豊かさとはなんたるか、それを知る人物である。

一日数本のタバコを吸い、愛妻の作った夕食と食後酒に舌つづみを打つ。休日には家族と一緒にピクニックに出かけ、週末はカルチョを楽しむためピッチへと足を運ぶ。それらはダリオ・ヒュブナーの人生を豊かにするものであって、決して手放すことはできない大切なものである。

Daniele De Rossi ダニエレ・デ・ロッシ

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フルネーム ダニエレ・デ・ロッシ
Daniele De Rossi
ニックネーム -
国籍 イタリア
生年月日 1983/7/24
出身地 オスティア(ローマ)
ポジション MF(CH)
身長 184cm
体重 78kg
代表デビュー 2004/9/4vsNOR
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
2000-02 ローマ - -
2002/03 ローマ 4 2
2003/04 ローマ 17 0
2004/05 ローマ 30 2
2005/06 ローマ

まだ20代前半という年齢にありながら、ベテラン並みの落ち着きと判断力を備え背筋を伸ばしてプレーする事から分かる通り、抜群の視野の広さをも合わせ持つ。
左右どちらの足からでも素晴らしいパスを供給する事が出来るのも持味でありすでにトッティの後継者として期待される逸材である。

ローマ近郊のオスティア出身、サッカープレーヤーであった父親の影響もあり自身も熱狂的なロマニスタとして過ごす。その後ローマの下部組織へ加入、当初攻撃的MFとしてプレーしていたが、その後ボランチへ転向する。
00/01シーズン、トップ昇格を果たし出場機会には恵まれずとも
世界有数のボランチであるエメルソンや、その後チームに加わる事となる元スペイン代表名手グァルディオラ、そして現役時代名ボランチとして名高いカペッロ監督の元で、飛躍的な成長を遂げる事になり02/03シーズン第18節1月25日コモ戦にてセリエAデビューを果たした。
その後しばらくは出場機会に恵まれなかったが、シーズン終盤第31節レッジーナ戦にて再びピッチに立つと、自身3戦目となったトリノ戦、そして4戦目となったアタランタ戦にて得点を記録、その存在は脚光を浴びる事となり、トッティ以来ローマ生え抜きの新たなるスターが誕生した瞬間でもあった。

03/04シーズン、その才能を慎重に育成する元ローマ指揮官カペッロ監督やクラブフロントの意向もありレギュラーポジションを獲得するまでには至らなかったがそれでも通算17試合に出場、際立った存在感を示し、イタリア最大のスポーツ紙であるガゼッタ・デロ・スポルト評価点も常に高いものとなった。
04/05シーズンには間違いなく定位置を確保すると思われ、
更なる進化が期待出来るだろう。また、2003年9月5日ウェールズ戦においてイタリアUー21代表デビュー、以後レギュラーとして活躍、2004年5月開幕となったUー21欧州選手権にも主力として活躍し優勝に貢献、同年五輪にも出場を果たし高いパフォーマンスを見せた。
この年イタリア代表新指揮官となったリッピの元、2004年9月4日W杯欧州予選ノルウェー戦にてスタメンデビューを果たし、貴重な同点弾を記録している。














Christian Panucci クリスチャン・パヌッチ

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フルネーム クリスチャン・パヌッチ
Christian Panucci
ニックネーム -
国籍 イタリア
生年月日 1973/4/12
出身地 サボナ
ポジション DF(RSB)
身長 183cm
体重 73kg
代表デビュー 1994/9/7
所属クラブ
1991-93 ジェノア
1993-96 ミラン
1996-99 レアル・マドリード(スペイン)
1999 インテル
2000-01 チェルシー(イングランド)
2001 モナコ(フランス)
2001- ローマ
主なタイトル
1993/94 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1997/98 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1998年 インターコンチネンタルカップ優勝

確かなデフェンス能力と素晴らしい攻撃センスを備えるイタリア代表サイドバック。
思った事をすぐに口にしてしまう性格が災いするトラブルメーカーでもあるが名将カペッロがミラン時代から絶大な信頼を寄せる選手である。

90/91シーズン、ジェノアにてキャリアをスタートさせ
翌シーズンにセリエ A デビュー、92/93シーズンにはレギュラーとして活躍した後、シーズン終了後にカペッロ率いるミランへ引き抜かれる。
ここでいきなりスクデット、チャンピオンズリーグの2冠に貢献、95/96シーズンには5得点を挙げる活躍を見せるなどして自身2度目のスクデットに貢献した。
96/97シーズン途中カペッロの後を追うようにレアルへ移籍すると
すぐに主力として活躍し、ここでもリーグ優勝に貢献、カペッロが去った後も活躍を続け自身2度目のチャンピオンズ・リーグ制覇を果たし
更にミラン在籍時に成し得なかったトヨタカップの栄冠も手に入れた。
その後加入したインテル、チェルシー、モナコでは監督、チームメイトと衝突しポジションを失いもしたが01/02シーズンより再びカペッロ監督の元ローマにて復活を遂げた。

代表デビューは1994年9月7日スロベニア戦。
しかし世界屈指と言われる実力を持ちながらゾフ、マルディーニ監督の元では重用視されず1998年ワールド杯でもメンバーに選出されなかった。
ローマ移籍後の活躍からトラパットーニ監督によって代表復帰を果たし
2002年ワールド杯にも4試合すべてに出場を果たした。

ミラン、レアル・マドリード等のビッグクラブで活躍したことからも解るように、能力は疑いようもない。右サイドのスペシャリストとしてゲームに置いてはチームに大いに貢献している。

Antonio Cassano アントニオ・カッサーノ

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フルネーム アントニオ・カッサーノ
Antonio Cassano
ニックネーム ロマン
国籍 イタリア
生年月日 1982/7/12
出身地 バリ
ポジション FW(ST),MF(OH)
身長 175cm
体重 81kg
代表デビュー 2003/11/12vsPOL
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1998/99 バリ 0 0
1999/00 バリ 21 3
2000/01 バリ 27 3
2001/02 ローマ 22 5
2002/03 ローマ 27 9
2003/04 ローマ 33 14
2004/05 ローマ 31 9
2005/06(jan) ローマ 5 2
レアル・マドリード

イタリア・カルチョ史上屈指の才能の持ち主と称えられる天才プレーヤー。抜群のスピードとテクニックを誇るイタリア次代のファンタジスタ。パスセンス、ゴールセンスにも優れ、底知れぬポテンシャルは今だ成長中にある。激しい気性が災いしてか、未だ本領の発揮に至っていないが、時折見せるアクロバティックなシュートの数々は彼の類稀な才能を雄弁に物語る。

南イタリア、けっして環境が良いとは言えないバリの旧市街地生まれで、父親はおらず母親は麻薬中毒者という劣悪な環境で育つ。少年の頃はバリでも有名な不良として悪名を馳せたが、同時にフットボールの天才としても知られる存在だった。11歳の時にインテルのテストに合格するものの家庭環境がそれを許さず、結局地元バリの下部組織に加入。1999年12月のレッチェ戦でセリエAデビューを果たし次節のインテル戦では決勝点となるスーパーゴールを記録する。
12才でバリの育成機関へ入り本格的にサッカーを始め、自身の最大の
アイドルは現在チームメイトのフランチェスコ・トッティであった。
やがてトップ昇格を果たし、99/00シーズン12月18日インテル戦にて弱冠17才でのセリエAデビュー、更にこの試合後半42分に決勝弾をも記録し人々を驚かせたのである。そしてこのシーズンの残り試合すべてに出場、結果的に得点は3得点に終わったが、その記録よりも印象に残る記憶を残したシーズンとなった。翌シーズン、残念ながらチームはB降格、国内はもとより海外ビッグクラブから数多くのオファーが殺到し、10代としては破格の30億、40億円ともいわれる移籍金によってローマへ引き抜かれる。
自身のアイドルであるトッティと共にプレーする事で、その才能は更に開花するが人を戸惑わせる性格は変わらず、練習を無断で休むなど指揮官であるカペッロも頭を悩ませ、自身もピッチ上では安定感に欠ける場面も見られた。
ただ、その年齢を見れば、まだ20才そこそこの年齢でありローマでの1年目5得点、2年目9得点はけして悪い数字ではなく、すでにベテランの風格すら伺える彼の今後に、大きな期待を抱いてしまうのも当然である。

イタリアUー18代表当時、2000年にポルトガルで行われた大会では最優秀選手に選出、その後Uー21代表としても活躍するが
ジェンティーレ監督とトラブルを起こすなど、ここでも問題児として本領を発揮しUー21代表を外される。しかし、その後クラブにて見せる高いパフォーマンスはフル代表指揮官であるトラパットーニ監督も認める所となり2003年11月12日ポーランドとの親善試合でデビューを飾った。
更にこの試合でゴールを記録、試合には敗れたがいずれはイタリア代表を担うとされる才能を発揮させている。

シーズンは14得点を挙げローマのリーグ2位に大きく貢献、ようやく本格化の時期を迎えたかと思われたが、最大の理解者であったカペッロがユベントスへと去った2004/05シーズン、再びそのパーソナリティーが問題視されるようになりパフォーマンスは低下。ロマニスタからは反感を抱かれたまま、2006年1月にレアル・マドリードへの移籍が決定した。

しばしば彼の問題行動、自由奔放な発言ばかりが注目されるが彼のサッカー選手としての能力は疑いようもなく、彼のサッカーにかける情熱には敬意を表したい。EURO2004ブルガリア戦(ゴールを決めベンチへと駆け寄るがグループリーグ敗退決定を聞かされ泣き崩れた)の涙は彼のサッカーにかける情熱の深さを感じた瞬間でもあった。




Christian Vieri クリスチャン・ビエリ

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フルネーム クリスチャン・ビエリ
Christian Vieri
ニックネーム ボボ(牡牛)
国籍 イタリア
生年月日 1973/7/12
出身地 ボローニャ
ポジション FW(CF)
身長 185cm
体重 82kg
代表デビュー 1997/3/29
所属クラブ
1989-90 ボラト
1990-92 トリノ
1992-93 ピサ
1993-94 ラベンナ
1994-95 ベネチア
1995-96 アタランタ
1996-97 ユベントス
1997-98 アトレチコ・マドリード(スペイン)
1998-99 ラツィオ
1999-05 インテル
2005 ミラン
2006 モナコ(フランス)

ガッチリとした体格からは想像も付かないスピード感溢れるテクニックを持ちどんな体勢からでもゴールを狙える柔軟な身体能力も持ち合わせる。
左右両足から繰り出される強烈なシュート、身長を生かした空中戦、
ポストプレーに至るまでの高い能力によってイタリア代表エースストライカーと言うに相応しい活躍を見せた。

60年代から70年代にかけて活躍した名プレーヤー、ロベルト・ビエリを父親に持ち、幼少時代をオーストラリアで育つ。
セリエC1ポラトにてキャリアをスタートさせ、翌年よりトリノ養成スクールへ、ここですぐにユースチームのエースとなり1991年12月のフィオレンティーナ戦でAデビューを果たす。
その後、各チームを渡り歩き97/98シーズンよりスペインへ活躍の場所を移す。
ここで24試合24ゴールと言う素晴らしい活躍を見せイタリア人初の得点王獲得、名実ともにスタープレーヤーの仲間入りを果たす。
翌98/99シーズンよりセリエA(ラツィオ)へ復帰した後当時史上最高額となる移籍金58億円でインテルへ加入する。
01/02シーズン、序盤こそ出遅れたものの復帰後はゴールを量産、
22得点を挙げる活躍を見せたが、最終節にユベントスに逆転されスクデット獲得に至らなかったのは非常に残念な所である。
翌02/03シーズンには24得点を挙げ自身初のセリエA得点王となったがリーグ終盤戦の怪我から試合に出場する事が出来ずユベントスの連覇を阻む事はならなかった。
インテル在籍中、常に2桁得点を挙げエースと言うに相応しい活躍を見せたが獲得したタイトルは04/05シーズンのコパ・イタリアただ1つ・・、このシーズン終了後、戦力外となり、ライバルチームであるミランへ加入し人々を驚かせた。現在はフランス、リーグ1のモナコに在籍し2006年W杯メンバー入りへ向け活躍している。

代表デビューは1997年3月29日、ワールド杯欧州予選モルドバ戦。
1998年W杯本大会では5得点を記録しエースストライカーである事を証明して見せた。
2002年本大会でも初戦エクアドル戦にて豪快な2得点を挙げるなど
素晴らしい能力を示し、決勝トーナメント韓国戦でも先制ゴールを奪うなどしたがその後決定的チャンスを逃すなど集中を欠き、試合にも敗れたのは残念であった。
更に2004年欧州選手権では不発に終わり、リッピ体制となった今
序所にその居場所を失いつつあるのは寂しい所、今一度、その雄姿で
ファンを沸せて欲しいのだが・・。

現在はなかなか調子が上がらないもののルイジ・リーバに「私の現代版」といわしめた能力は伊達ではない事を、是非とも証明してもらいたいところだ。



Antonio Cabrini アントニオ・カブリーニ

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フルネーム アントニオ・カブリーニ
Antonio Cabrini
ニックネーム -
国籍 イタリア
生年月日 1957/10/8
出身地 クレモナ
ポジション DF(LSB)
身長 178cm
体重 72kg
代表デビュー 1978/6/2(通算73試合,9得点)
所属クラブ
1973-75 クレモネーゼ
1975-76 アタランタ
1976-89 ユベントス
1989-94 ボローニャ
主なタイトル
1982年 ワールドカップ優勝
1984/85 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1985年 インターコンチネンタルカップ優勝

1980年代、強固なディフェンスで知られるイタリア伝統のカテナチオの一端を担ったのがカブリーニである。1980年代のイタリアを代表するレフトバックであった彼は若くして才能を開花、ユヴェントスで様々なタイトルを獲得すると、1982年ワールドカップスペイン大会では優勝に貢献。
ファケッティに始まる伝統のレフトバックは、このカブリーニが継承し、現在のマルディーニにへと受け継がれている。
また、DFながら高い決定力を誇った事でも知られ、セリエAでは通算35得点、代表では通算9得点というイタリア代表DF最多得点記録を保持している。

1957年10月8日ミラノから約70キロ離れたクレモナで生まれる。
若干15歳にて地元クレモネーゼでトップデビュー、その後アタランタを経て18歳のときにイタリアの名門、ユベントスと契約を結ぶ。
1977年2月13日ラツィオ戦にてセリエAデビューを果たし加入後しばらくは交代要員であったが、攻撃的で闘争心溢れるプレーはファンの人気を集め、やがて不動の地位を確立させる。
ゾフ、シレア、ジェンティーレ、タルデッリらとユベントスの黄金期を築き、在籍した13シーズンで6回のスクデット、2回のコッパイタリア、1回のUEFAカップ、インターコンチネンタルカップ、カップウィナーズカップ等可能な限りのタイトルに大きく貢献、84/85シーズンのチャンピオンズカップでは全9試合にフル出場し、クラブ創設以来祈願のタイトルをもたらしたのである。
ユベントス在籍13シーズン、カップ戦も合わせると通算440試合に出場、またDFながら通算52得点も挙げている。

代表においてはデビューを果たさないまま1978年W杯本大会のメンバーに選出、同大会イタリア代表初戦となった6月2日のフランス戦にて代表デビューを飾り不動の左サイドバックとして全7試合に出場、ベスト4進出の原動力となった。
1982年ワールド杯でも全試合に出場、2次グループリーグアルゼンチン戦では勝ち越し点となる貴重なチーム2点目を決めており勝利に貢献するとともにカテナチオの要としてイタリアのワールドカップ優勝に多大な役割を果たした。
代表通算73試合9得点、うち10試合でキャプテンを務めている。
80年代後半、度重なる膝の怪我から1987年10月17日スイス戦を最後に30歳の若さで代表引退を強いられたが、その数ヵ月後、
若いパオロ・マルディーニが代表デビューを果たし、このポジションを受け継いだ。

89/90シーズンよりボローニャへ移籍。
最後まで質の高いパフォーマンスを見せ1991年に現役を引退、
現役引退後はユベントスで若手育成に努め、2000年にはコズミ監督がペルージャに行った後のアレッツォ監督を引き継ぐなど、サッカー界で今尚活躍を続けている。

スペイン・ワールドカップでは効果的な攻め上がりを何度も見せ、イタリアの優勝に貢献。3年後の1984/85シーズンにはUEFAチャンピオンズカップで優勝を果たし、同年のトヨタカップにも勝利。代表でもクラブでも世界一を経験した。




Francesco Totti フランチェスコ・トッティ

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フルネーム フランチェスコ・トッティ
Francesco Totti
ニックネーム プポーネ,イル・プリンチペ(王子様)
国籍 イタリア
生年月日 1976/9/27
出身地 ローマ
ポジション FW(ST),MF(OH)
身長 180cm
体重 80kg
代表デビュー 1998/10/10vsSUI
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1992/93 ローマ 2 0
1993/94 ローマ 8 0
1994/95 ローマ 21 4
1995/96 ローマ 28 2
1996/97 ローマ 26 5
1997/98 ローマ 30 13
1998/99 ローマ 31 12
1999/00 ローマ 27 7
2000/01 ローマ 30 13
2001/02 ローマ 24 8
2002/03 ローマ 24 14
2003/04 ローマ 31 20
2004/05 ローマ 29 12
2005/06 ローマ * *
主なタイトル
セリエA優勝

創造力溢れるプレーと得点能力に優れたイタリア代表スタープレーヤー。現代のゲームメーカーを象徴する存在。強靭なフィジカルと世界有数のテクニックを併せ持ち、現在最も完成度の高いプレーヤーの一人として数えられる。かのギュンター・ネッツァーをして「現代のクライフ」と言わしめた。
ローマのトゥスコラーノ地区に生まれ幼き頃から熱狂的なロマニスタ。
弱冠16才にして祈願のユニフォームに袖を通し1993年3月28日のブレッシャ戦にてセリエAデビューを果たす。
自身のアイドルであるジャンニーニに憧れ、いつしかその存在を追い抜き現在ローマの象徴的存在とまで成長、ローマの王子として君臨する。
デビュー以来毎シーズン、優勝候補に挙げられながら後一歩で成し遂げられず、批判の対象となる事もあったが00/01シーズン、ついにその夢を達成する事に成功、更に2004年12月19日パルマ戦においてはR・プルッツォの持つローマ歴代得点記録を塗り替える107得点を達成している。

1998年ワールド杯後の10月、欧州選手権予選スイス戦にて代表デビュー、瞬く間にチームの主力に上りつめると欧州選手権本大会では素晴らしいプレーによってチームを準優勝に導く活躍を見せが、2002年ワールド杯では期待以上のプレーは見せる事が出来ず、審判誤審(疑惑)等の不運も重なりチームはベスト16で姿を消す無念を味わった。
また2004年欧州選手権初戦デンマーク戦では相手プレーヤーに唾を吐きかける暴挙に出て残り試合を出場停止、予選リーグ敗退の戦犯とされてしまった。現イタリア代表に最も不可欠な選手と認めるだけに精神的に成長する事を願うばかりである・・。

中田がローマに在籍した事で、その名は日本でも大きく取り上げられて来たが、そのほとんどが両選手を比較したものであった。
トッティがローマの司令塔に君臨する事でベンチに追いやられた形となった中田であったために、日本でのトッティ人気は薄いと感じる事が多いがその実力に疑いの余地はなく、また当時伝えられた両選手の不仲説など実際には存在しなかった事を、改めてここに掲載しておきたい・・。

チームの中心選手として活躍するトッティには、どうしても自分本位なイメージが付きまとう。だが実際はFWを自分に合わせるのではなく自分がFWに合わせる能力に長けており、どんなタイプのFWにも決定的なパスが贈れ器用で献身的なプレーを展開できる。得点能力にも非凡なものがあり、ゲームを決める働きをしばしば見せてくれる。プライベートでは問題も多く、クラブ側とすれば扱いにくい選手だろうが、それ以上に替えの利かないプレーヤーであることは周知の事実である。

ミラン、ウディネーゼに快勝で2位堅守

フリウリで行われた第30節の試合では、ミランがウディネーゼを4-0で破った。得点はシェフチェンコの2点とジラルディーノ、セードルフ。

 先に相手ゴールを脅かしたのはミランだった。ピルロのFKはクロスバーを直撃。これに対してウディネーゼはディ・ナターレがオーバーヘッドキックでゴールを狙い、GKジーダは止められなかったが、フォーゲルがはじいてCKに逃れた。その後も選手たちはよく動き、激しく争い合っていたが、両GKがピンチを迎える場面はそれほどなかった。

 37分にはジラルディーノがゴールを決めたが完全にオフサイド。42分にはミランに先制点が生まれた。オボドの危険なバックパスに対し、GKデ・サンクティスはボールを蹴ることができず、シェフチェンコにボールを渡してしまう。シェフチェンコはこれを確実に決めて1-0とした。
 その2分後にはピルロのパスで抜け出したジラルディーノがシュートを放ったが、デ・サンクティスが足ではじき出して名誉ばん回。前半の最後にはカンデラのシュートをジーダがブロックした。

 パニック状態に陥ったウディネーゼのDF陣はオフサイドが取れなくなり、後半になるとミランが立て続けに2点を加えた。2点目と3点目は同じような形からのゴールだった。62分にはジラルディーノ、66分にはシェフチェンコがエリア手前でボールを受け、低いシュートでデ・サンクティスを破った。だが、ミランは攻撃の手を緩めない。72分にはセードルフが決めて4-0とした。

 後は特に見所もなかったが、マルシオ・アモローゾが久しぶりに古巣フリウリのピッチに姿を現すと、ウディネーゼのサポーターはこのスコア(ミラン戦2試合で9失点)にもかかわらず拍手を送っていた。その後はゼノーニとムンタリがチャンスを迎えたが、ゴールの可能性は感じられなかった。ジーダが危ない場面を迎えたのはクロスを捕り逃したプレーくらいだったが、これもCKを与えるだけで済んだ。

 この結果、ウディネーゼは順位の上でも危険な位置に転落。下には3チームしか残っておらず、メッシーナとの差はわずか1ポイントだ。ミランはインテルの追い上げをかわして2位の座を守っている。

Gianluigi Buffon ジャンルイジ・ブッフォン

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フルネーム ジャンルイジ・ブッフォン
Gianluigi Buffon
ニックネーム ジジ,スーペルマン
国籍 イタリア
生年月日 1978/1/28
出身地 カラーラ
ポジション GK
身長 188cm
体重 83kg
代表デビュー 1997/10/29vsRUS
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1994/95 パルマ 0 0
1995/96 パルマ 9 0
1996/97 パルマ 27 0
1997/98 パルマ 32 0
1998/99 パルマ 34 0
1999/00 パルマ 32 0
2000/01 パルマ 34 0
2001/02 ユベントス 34 0
2002/03 ユベントス 32 0
2003/04 ユベントス 32 0
2004/05 ユベントス 37 0
2005/06 ユベントス * *
主なタイトル
1994/95 UEFAカップ優勝
1998/99 UEFAカップ優勝

抜群の瞬発力と判断力を備え、飛び出しのセンス、ハイボールの処理とも世界最高クラス。
30代半ばかと思わせるベテランの頭脳も合わせ持ったイタリア代表守護神。現在世界最高守護神の1人。

当時パルマGK育成コーチ兼スカウトであったエルメス・フルゴーニによって見い出され1994年にパルマに入団、翌95/96シーズン11月19日のミラン戦において弱冠17才でトップデビューを果たす。このシーズンは9試合のみの出場に終わるが翌シーズンより不動の守護神として君臨、01/02シーズンより強豪ユベントスへ加入すると、このシーズンのスクデットに大きく貢献した。
更に翌02/03シーズンのスクデット連覇も達成し、チャンピオンズ・リーグでは決勝という最高の舞台にも立った。
同じセリエAチーム、ミランとの決勝戦、神憑かり的なセービングを見せ改めて全世界に能力の高さを見せつけた。しかしPK戦までもつれた熱戦にて2本のPKを止める奮闘を見せたが、相手GKヂダの3本セーブには及ばず試合に敗れてしまった。それでも、このシーズンを通しての素晴らしいパフォーマンスは各国から賞賛されUEFAの選ぶ
最優秀選手賞に選出されている。

1997年10月29日のロシア戦にて代表デビュー。
1998年ワールド杯では出場機会はなかったもののメンバーに選出されその後は代表不動の守護神として君臨する2000年欧州選手権を前に左手を故障し、大会への出場はならなかったが2002年ワールド杯では不動のメンバーとして自身初のビッグタイトルに挑んだ。
しかし、決勝トーナメント1回戦にて開催国韓国の前に敗れ失意のままに帰国したのは残念であった。

ディノ・ゾフ、ワルター・ゼンガ、ジャンルカ・パリューカと続くアズーリの系譜を受け継ぐ天才GK。元々はフィールドプレーヤー(右サイドアタッカー)だったが、90年ワールド杯で活躍したカメルーン代表GKトーマス・ヌコノに影響を受け現在のポジションに転身。(更にその理由の1つに「他チームメイトと違うユニフォームが着れる」という事にも魅力を感じたらしい・・・。)
おそらくフィールドプレーヤーとしてでもプロサッカー選手になっていただろうといわれるほど運動能力に優れており、抜群の瞬発力と安定したセービングは世界でも最高峰。ちなみにブッフォン一家はイタリアでも随一のスポーツ一家である。

Fabio Cannavaro ファビオ・カンナバロ

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フルネーム ファビオ・カンナバロ
Fabio Cannavaro
ニックネーム -
国籍 イタリア
生年月日 1973/9/13
出身地 ナポリ
ポジション DF(CB)
身長 176cm
体重 75kg
代表デビュー 1997/1/22vsNIR
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1992/93 ナポリ 2 0
1993/94 ナポリ 27 0
1994/95 ナポリ 29 1
1995/96 パルマ 29 1
1996/97 パルマ 27 0
1997/98 パルマ 31 0
1998/99 パルマ 30 1
1999/00 パルマ 31 2
2000/01 パルマ 33 0
2001/02 パルマ 31 1
2002/03 インテル 28 0
2003/04 インテル 22 2
2004/05 ユベントス 38 2
2005/06 ユベントス * *
主なタイトル
1998/99 UEFAカップ優勝
コメント

1対1には絶対の自信を持ち、俊足で空中戦にも強く、また、
鋭い読みによって相手の攻撃を未然に防いでしまう頭脳派DFでもある。
176cmとCBとしては小柄な方だが、驚異的な身体能力を武器に対人プレーに無類の強さを見せる。又、カバーリングの巧さ、統率力も併せ持ち、理想的なCBといえる。

あのマラドーナが全盛期だった頃にサンパオロスタジアム(ナポリ)で
ボールボーイをしていた少年は、1993年にそのピッチに立ち夢を叶えるが1995年にクラブの経済的理由によってパルマへ移籍、故郷を離れる事となる。
しかし、パルマへ移った事でカンナバーロが大成長を遂げる事となったのは言うまでもなく、98/99、01/02と2度のコパイタリア優勝に貢献、98/99シーズンにはUEFAカップ制覇に大きな役割を果たした。
残念ながら自身の夢であった「パルマでのスクデット獲得」は叶える事が出来ず、その後加入したインテルでも故障に悩まされ本領を発揮出来ないまま終わったが04/05シーズンよりプレーする事となるユベントスにおいて完全復活を果たしデビュー以来12年目にしてスクデットの美酒に酔った。

1994年、96年にUー21欧州選手権優勝に貢献し
1997年1月22日北アイルランド戦にてフル代表デビュー、
1998年ワールドカップでベスト8に貢献、2000年欧州選手権でも素晴らしいプレーを連発し、決勝進出をかけたオランダ戦でのガゼッタ紙の評価点はディフェンダ-では異例の9点(10点満点)をマークしている。
2002年ワールド杯でも予選リーグで素晴らしい能力を発揮したが
累積警告から出場出来なかった決勝トーナメント1回戦
韓国戦でチームが敗れたのは残念であった。
またキャプテンとして挑んだ2004年欧州選手権では2試合に出場するもチームはまさかの予選敗退を屈している。

少年の頃、サン・パオロ・スタジアムでボールボーイをしていたカンナバロは、ナポリの英雄ディエゴ・マラドーナに憧れる。しかしいつからか、マラドーナは憧れから目標に替わっていた。
現在、世界で最も完成されたDFの1人であり、毎年起こる移籍の噂はその実力ゆえ。2002年にはインテルへ、そして2004年はユベントスへと移籍した。ちなみに将来の夢はナポリの職員になる事だという。

Dino Zoff ディノ・ゾフ

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フルネーム ディノ・ゾフ
Dino Zoff
ニックネーム モニュメント,スーペル・ディノ
国籍 イタリア
生年月日 1942/2/28
出身地 マリアノ・デ・フリウリ(ウディネ)
ポジション GK
身長 182cm
体重 78kg
代表デビュー 1968/4/20vsBUL(通算112試合,83失点)
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1960/61 ウディネーゼ 0 0
1961/62 ウディネーゼ 4 0
1962/63 ウディネーゼ 36 0
1963/64 マントーバ 27 0
1964/65 マントーバ 32 0
1965/66 マントーバ 38 0
1966/67 マントーバ 34 0
1967/68 ナポリ 30 0
1968/69 ナポリ 30 0
1969/70 ナポリ 30 0
1970/71 ナポリ 30 0
1971/72 ナポリ 23 0
1972/73 ユベントス 30 0
1973/74 ユベントス 30 0
1974/75 ユベントス 30 0
1975/76 ユベントス 30 0
1976/77 ユベントス 30 0
1977/78 ユベントス 30 0
1978/79 ユベントス 30 0
1979/80 ユベントス 30 0
1980/81 ユベントス 30 0
1981/82 ユベントス 30 0
1982/83 ユベントス 30 0
獲得タイトル
イタリア代表
1968 欧州選手権優勝
1982 ワールドカップ優勝
ユベントス
1972/73 イタリアリーグ優勝
1974/75 イタリアリーグ優勝
1976/77 UEFAカップ優勝
1976/77 イタリアリーグ優勝
1977/78 イタリアリーグ優勝
1978/79 イタリアカップ優勝
1980/81 イタリアリーグ優勝
1981/82 イタリアリーグ優勝
1982/83 イタリアカップ優勝

イタリアカルチョ史に多大な足跡を残した真のカンピオーネ。派手さはなくとも常に安定したセービングと抜群のポジショニング、冷静な判断力でチームメイトから絶大な信頼を得ていたイタリア史上最高のゴールキーパーである。
イタリア人として唯一、欧州選手権とワールドカップ両方の優勝を経験しており、スクデット獲得回数はなんと6回にも及ぶ。技術的な面においては文句の付けようがなく、精神的にもチームの柱となった。

4才でボールを蹴り始めた頃からゴールキーパーのポジションに身を置き14才の時にインテル、ユベントスの入団テストを受けるが、当時ゾフの身長が149cmだった事で落選、故郷のクラブ、マリアネーゼにてプレーした後19才でウディネーゼとプロ契約を果たす(この頃には身長も182cmに伸びていた)
1961年9月24日フィオレンティーナ戦にてセリエ A デビュー、5失点と不運なデビュー戦であったが、その後経験を積む事で着実に成長しナポリに加入する頃にはイタリア屈指と言われるまでになっていた。
1972年、ユベントスに引き抜かれるが、30才という年齢から周囲からは批判の声も上がる。しかし、その能力は衰える事を知らず、引退する1983年41才まで不動の守護神として安定したプレーを見せ、6度のスクデッド、2度のコパ・イタリア、1度の UEFA カップのタイトルに大きく貢献する。

1968年4月20日、欧州ネーションズ・カップ(現欧州選手権)
準々決勝ブルガリア戦にて代表デビューを果たし同大会準決勝、決勝でも守護神としてプレーし、早くも欧州チャンピオンのメンバーとして名を列ねる。
その後1970年ワールド杯ではアルベルトシにポジションを奪われるが1971年以降は不動の守護神として君臨、引退間近の1982年ワールド杯ではキャプテンとして1938年大会以来の栄冠を手中にし、その両手にワールドカップは高々と掲げられた。

セリエ A 67/68シーズンから213試合に連続出場、1972年に骨折のため記録はストップしたが7試合休んだ後ピッチに復帰、引退する1983年まで連続332試合に出場した記録を持つ。更にセリエ A では903分間無失点を記録、代表ではなんと1143分間無失点という驚異的な記録を持つ。
また、代表通算112試合出場は2000年11月にマルディーニに抜かれるまでの代表出場最多記録であった。

引退後はユベントスのGKコーチ、イタリアのオリンピック代表監督(ソウル五輪)、1988年にはユベントスの監督となる。
ユベントスの監督としてコッパイタリア、 UEFA カップ優勝、という記録を収めるが1年で解雇、次にラツィオの監督として4シーズンを過ごすと会長にまで上り詰める。
2000年欧州選手権ではフル代表監督をつとめイタリアを準優勝に導きその後再びラツィオの監督となって手腕を振るった。

ユベントス在籍時にはフルシーズン、全ての試合に出場するという偉業を達成し、数々のタイトルを手中に収める。だが現役生活の晩年に「老眼のGK」とも揶揄され、1982年ワールドカップではディノ・ゾフがゴールマウスを預かることに反対するものもあった。しかしいざ大会が終わってみるとイタリアは1938年以来、実に44振りのワールドカップ優勝。ゾフは得点王に輝いたパオロ・ロッシにも劣らぬ素晴らしい活躍を見せ、ワールドカップ史上最も高齢の優勝メンバーとして歴史に記録された。

アルベルティーニ、有終の美

15日夜(現地時間)、MFデメトリオ・アルベルティーニの引退記念試合がバルセロナを招いてミラノのサン・シーロで行われた。ファン・バステンのダイビングヘッドやロナウジーニョの美技に3万5千人の観衆は酔い、アルベルティーニはサッカー現役生活に別れを告げた。

そのプレーと人格で誰からも愛されたアルベルティーニの引退試合には、まさにサッカーの殿堂と呼ぶにふさわしい顔ぶれが揃った。ミラン側にはファン・バステン、マルディーニ、バレージ、デサイー、パパン、ウェア、フーリット、ボバンなどが集い、バルセロナ側のベンチにはクライフが陣取った。ライカールト現監督もラウドルップ、ストイチコフらとともにプレー。ミランで14シーズンを戦ったアルベルティーニ自身もそのキャリアの中でスクデット5回、チャンピオンズ・カップ優勝1回、そしてバルセロナへ渡ってからリーガ・スパニョーラ優勝1回という華々しい戦績を誇っている。

スタンドにアリゴ・サッキ氏の姿はあったものの、ミランのベンチで並んで指揮を執っていたのは黄金時代を率いたカペッロ氏(現ユベントス監督)とアンチェロッティ現監督。前半は引退組のプレーとあって厳しいプレッシングはなかったが、彼らは現役時代の素晴らしいプレーを忘れるはずもなかった。後半は現役組がプレーし、今季チャンピオンズ・リーグ準決勝で対戦する可能性もある中で慎重なプレーが続いた。試合は3対2でミランが勝利をおさめた。

「マイ・ウェイ」の音楽にのって、アルベルティーニが場内を一周する。ピッチの中央でマイクを手にしたアルベルティーニは涙声で最後に言った。「僕は素晴らしいキャリアを持つことができたと言いたい。成功に満ちた現役生活だった。ここまで支えてくれた全員、友に、ミランに、バルセロナに、そして家族に感謝したい。そして、僕のファンたちへ。本当にありがとう。君たちは僕の心の中にずっといるだろう」。

Gianluca Pagliuca ジャンルカ・パリュウカ

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フルネーム ジャンルカ・パリュウカ
Gianluca Pagliuca
ニックネーム -
国籍 イタリア
生年月日 1966/12/18
出身地 ボローニャ
ポジション GK
身長 190cm
体重 88kg
代表デビュー 1991/6/16(通算38試合,0得点)
所属クラブ
1985-86 ボローニャ
1986-94 サンプドリア
1994-99 インテル
1999- ボローニャ
主なタイトル
1997/98 UEFAカップ優勝

1990年代イタリアを代表するGK。抜群の反射神経を持ち、至近距離からのシュートにも素晴らしい反応を見せゴールマウスを死守、ハイクロスにも強く常に安定した力を発揮する元イタリア代表守護神。

1984年、生まれ故郷のチームでもあるボローニャへ加入するが
デビューを果たす事なくサンプドリアへ移籍、
87/88シーズン終盤のピサ戦でセリエAデビューを果たす。
88/89シーズンより不動の守護神として君臨、89/90シーズンのカップウィナーズ・カップ優勝に貢献すると翌シーズンには
チーム初となるスクデット獲得にも大きく貢献した。94/95シーズンよりインテルへ加入、低迷を続けるチームにあってもその能力の高さと存在感は言うまでもなかった。
その後古巣ボローニャへ復帰、00/01シーズンより現在まで
連続試合出場を記録しており、そのパフォーマンスも年齢を重ねる度に
更に進化を遂げ、今尚イタリア屈指のGKとして称されている。

1991年6月16日ソ連戦にて代表デビュー。
1990年W杯においてゼンガの控えとしてメンバーに選出されると
続く1994年W杯にはレギュラーとして出場、予選リーグ第2戦で
退場となる不運もあったが、準優勝に大きく貢献した。
1998年W杯ではペルッツィの控えGKとなるはずであったが、
そのペルッツィの怪我もあって、全試合にフル出場しベスト8進出に貢献した。
代表通算39試合。

イタリア「不運のPK戦負け」が大きく取り上げられ、その主人公に
R・バッジョが話題となるが、2大会連続でそのPK戦に挑んだパリュウカもまた、その主人公であった事を忘れてはならない・・・。

1994/95シーズンから1997/98シーズンまでの4シーズン連続でリーグ戦全試合出場を達成し、チームに欠かせない存在としてサポーター、チームメートから慕われた。





Gianfranco Zola ジャンフランコ・ゾラ

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フルネーム ジャンフランコ・ゾラ
Gianfranco Zola
ニックネーム サルディーニャの魔法使い
国籍 イタリア
生年月日 1966/7/5
出身地 サルディーニャ
ポジション MF(OH),FW(ST)
身長 168cm
体重 67kg
代表デビュー 1991/11/13(通算35試合,9得点)
所属クラブ
1984-86 ヌオレーゼ
1986-89 トーレス
1989-93 ナポリ
1993-96 パルマ
1996-03 チェルシー(イングランド)
2003-05 カリアリ
主なタイトル
1994/95 UEFAカップ優勝

小柄な体格ながらファンタジー溢れるプレーでファンを魅了すると同時に右足から放たれるFKは欧州でも最高レベルにあり、数多くのゴールを記録している。
また、その人柄から絶大な人気を誇り、キャリアの中で一番長く過ごしたチェルシーではファンの選出するクラブ歴代最優秀選手にも選出、イングランドで最も成功したイタリア人プレーヤーとしての足跡を残した。
ただ、代表クラスではロベルト・バッジョの影に隠れた感が強くその実力に見合うだけの結果を残せていないのは不運としか言いようがない。

ヌオレーゼ、トーレスを経て1989年にナポリにてセリエAデビュー、当時世界最高プレーヤーと言われたマラドーナと共にプレーする事で能力に磨きをかけると同時に、このシーズンにスクデット獲得という最高のデビューシーズンを飾る。
翌シーズン、現チェルシー指揮官ラニエリが監督に就任するとマラドーナの後を継ぎ「10番」を背負ってプレー、類い稀なテクニックによってファンを魅了し、1991年11月13日ノルウェー戦にて代表デビューも果たしている。
93/94シーズンよりネビオ・スカラ率いるパルマへ移籍、
当時パルマはセリエA初昇格(90/91)したばかりの新参チームであったが、すでに強豪チームの1つに数えられる力を備えており
ゾラの加入によって94/95シーズンには初のUEFAカップ優勝を成し遂げている。
しかし、当時イタリア国内ではファンタジスタ不要システムへと移行する風潮にあり、1996年11月、30才でフリット率いるプレミアリーグチェルシーへ渡る事となる。
その年齢から加入当初はゾラが活躍出来るかどうかは不安視されていたが移籍後すぐにファンを納得させる活躍と誠実さで高い人気を得る事に成功、1996年11月16日ブラックバーン戦でのプレミアデビューから始まり2003年2月22日の同カードにてプレミア通算300試合を達成、在籍7シーズンでリーグ優勝こそ達成出来なかったが2度のFAカップ、1度のリーグカップ、そして欧州カップウィナーズカップ等のタイトルに絶大な役割を果たして見せた。その年齢から02/03シーズン開幕前には限界説まで噂されながら、最後まで衰えを見せず契約をまっとうしたのである。
02/03シーズン終了後、母国へ戻る事を表明、自身本意であれば
イングランドに残る事も有り得たのであろうが、家族の将来を考えた末の決断であったと思われる。

イタリア代表としては、同年代で同じポジションにロベルト・バッジョという非常に稀有な選手がいた為、目立った活躍には至らず。1994年ワールドカップ決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦に途中出場したが、退場処分を受けてしまい、苦い思い出となった。
イタリア復帰後はカリアリを00/01シーズン以来のA昇格に導くと
セリエAの舞台でも素晴らしい技術を披露している。
残るキャリアは少ないであろうが
その姿を永遠に見ていたいと思わせる名選手に数えられるだろう。
代表通算35試合7得点。2004-2005シーズン終了後、現役引退を表明した。

FKの名手として名高いゾラのFKは曲がるのでは無い。切れるのだ。ボールは狂ったような弧を描き、凄まじいスピードでゴールネットに吸い込まれる。相手選手はゾラにFKを与えた時点で失点を覚悟する必要がある。「FKを決めるほうが、PKを決めるより簡単だ。」と豪語するほど絶対の自信を持っていた。

2004年、ゾラは英国女王に、英国サッカーのための貢献と良い面目で「イングランドのカヴァリエーレ」の名誉称号を与えられた。


おはようございます

日曜日は友人の結婚式の為、昨日は有休をもらいお休みさせていただきました。
結婚式良かったよ。
なんか感動して泣いちゃったよ。
式に時にさ友達が母ちゃんと腕組んで席を回ってたんだけどね、それ見たら泣いちゃったよ。
昔さそいつの家行った時に、母ちゃんが「あんたなんか生まなきゃ良かった」とか言ってすげー喧嘩とかしてたのに、ホント幸せそうな顔してんだもん。きたよね。泣いたよ。
あと新婦の両親への手紙の時なんて、もう皆号泣ね。いやーやばいね。
友達はあと3日位は思い出して泣ける、なんて言ってたけどホント感動したね。

なんか心の底からおめでとう、って言っちまったよ。
でも幸せになってほしいね。
やっぱ友達の結婚式は良いもんだよ。

ちなみに飲みすぎて昨日は1日グッタリしてました。
なのでサッカーの話題はまた明日から。

私事ですですが・・・

実は明日友人の結婚式なんです。めでたい。
昔から仲の良い友達なので明日は気合入れて盛り上げようと思います。
僕は根が目立ちたがりなもので、新郎よりも何とかして目立とうと考えています。もちろん式をブチ壊すつもりはありませんが
思えば僕が出席した結婚式は良い思い出がありません。

以前先輩の結婚式に行ったときのこと。
式は順調に進み、披露宴。僕達は恥ずかしながら以前暴走族をやっていたため、披露宴の出し物は特攻服を着よう、ということに。
新婦の親戚方は結構引いてましたが、それなりに盛り上がり、無事披露宴終了。
そこで事件は起こりました。以前からあまり仲のよくない先輩同士がちょっとしたことで揉め始めました。他の先輩方が止めに入ったものの、止めに入った先輩まで切れちゃいました。
もう色んなところで喧嘩が始まっちゃいました。僕と友人は先輩なんで一応止めに入ったんですが、僕も殴られちゃって、切れましたね。
結婚式場の外で大乱闘ですわ。
しばらくするとパトカーが4台。まずい。さりげなく逃げようとしたんですが、新郎の父親が今日は結婚式だし酒も飲んでるんで大目にみてくれということで無事事なきを得て、パトカーは帰っていきました。
しかし怒りの収まらない先輩方はまたまた始まっちゃいました。
もう無理。
するとそこに一旦帰ったはずの○○組の先輩参上。
「おどれらなにさらしとんじゃい」
どすの利いた声でどなられ一件落着。
と、まーこういう事があったので、明日は誰も暴れないよーに皆でお祝いしよー。

Gaetano Scirea ガエターノ・シレア

Scirea.jpg

フルネーム ガエターノ・シレア
Gaetano Scirea
ニックネーム -
国籍 イタリア
生年月日 1953/5/25 - 1989/9/3
出身地 ナビリオ
ポジション DF(CB)
身長 178cm
体重 75kg
代表デビュー 1975/12/30(通算78試合,2得点)
所属クラブ
1972-74 アタランタ
1974-88 ユベントス
主なタイトル
1982年 ワールドカップ優勝
1976/77 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1984/85 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1985年 インターコンチネンタルカップ優勝

あのバレージが越えることの出来なかったイタリア史上最高のリベロ。
穏やかで謙虚であり、紳士的な性格から人望も厚く、敵味方問わず万人に愛された。
ピッチの中でもその性格は変わらず686試合にも及ぶ現役生活において一度もレッドカードを受けたことが無い。
ユベントスを、イタリアを代表するリベロ。キャリアのほとんどをユベントスで過ごし、7回のスクデット獲得を果たした。高い守備能力と正確無比なロングフィードでチームを牽引し、精神的な支柱でもあった。

アタランタでMFとしてキャリアをスタートさせると1972年9月24日、19歳でカリアリ戦にてセリエAデビューを果たす。
デビューシーズンから20試合に出場するとリベロとして自分のポジションを確立、1974年には名門ユベントスに引き抜かれる。
コパイタリア、ヴァレーゼ戦でデビューを飾るとその後リーグ戦でも
欠かせない存在となりほとんどの試合に出場、この年のリーグ制覇の立役者となる。
その後もレギュラーとして出場し続け引退まで実に552試合に出場、
チームの歴代最多出場記録を現在も保持している。
ユベントスではリーグで7度のスクデットを獲得、
欧州でもUEFAカップ(76/77)、カップウィナーズカップ(83/84)、
欧州スーパーカップ(1984)、チャンピオンズカップ(84/85)、
トヨタカップ(1985)と欧州の主要な5つのトロフィー全てを手中にした初の選手となった。
(84/85チャンピオンズカップ決勝のリヴァプール戦では試合開始1時間前にヘイゼルの悲劇と呼ばれる暴動が起こり、シレアはキャプテンとして群集に対しスピーチを行い騒ぎの沈静化を求めた。)
1970年代から1980年代にかけてありとあらゆるタイトルを獲得したユベントスにあって、弱冠21歳でレギュラーに定着し、最も重要な存在としてピッチに君臨。その判断力は見事という他なく、何度もの決定的なピンチを、冷静に、何事も無かったかのように乗り越してしまうのだった。

イタリア代表としては3回のワールドカップに出場。1974年9月29日Uー23で国際デビューを飾るとすぐに当時の代表監督エンツォ・ベアルツォットの目にとまり、翌年12月30日ギリシャ戦で22歳にしてファケッティの後継ぎとしてA代表デビューを飾る。
以後11年間プレーし、78試合2得点を記録。
10試合でキャプテンを務めチームを牽引、1982年ワールドカップでは優勝。
また1978年ワールドカップ4位、1980年欧州選手権4位、
1986年ワールドカップベスト16と数々の記録を残し、同年6月17日に代表を引退した。

87/88シーズンを最後に現役を引退、その後は盟友ディノ・ゾフの依頼を受けユベントスのアシスタントコーチに就任、彼の第2の人生が始まるはずだった。
しかし就任してわずか1年3ヵ月後の1989年9月3日、次のユベントスのUEFAカップでの相手、G・サブジェ(ポーランド)の視察を終え、空港に向かう途中、石油トラクターと衝突、36歳であまりにも早すぎる死を迎えた。

1990年、新しくできたユベントスのホームスタジアム、
スタジオ・デッレ・アルピには”クルヴァ・ガエタノ・シレア”と呼ばれるサポーター席が設けられ、今でもユヴェントスを見守っている。

1986年ワールドカップ終了後には、アズーリのリベロはフランコ・バレージに替わっていたが、それはシレアが代表を引退した後の事。結局最後までバレージはシレアからポジションを奪えなかったのだ。
1985/86シーズンにスクデットを獲得したユベントスは、次のスクデットを獲得するまでに9シーズンを要している。それは何よりもシレアの偉大さを示している。
バレージが超えられなかった男。最高のジョカトーレ。

Alessandro Del Piero アレッサンドロ・デル・ピエロ

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フルネーム アレッサンドロ・デル・ピエロ
Alessandro Del Piero
ニックネーム アレックス,ピントリッキオ
国籍 イタリア
生年月日 1974/11/9
出身地 カネリアーノ
ポジション MF(OH),FW(ST)
身長 173cm
体重 73kg
代表デビュー 1995/3/25vsEST
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1991/92 パドバ 4 0
1992/93 パドバ 10 1
1993/94 ユベントス 11 5
1994/95 ユベントス 29 8
1995/96 ユベントス 29 6
1996/97 ユベントス 22 8
1997/98 ユベントス 32 21
1998/99 ユベントス 8 2
1999/00 ユベントス 34 9
2000/01 ユベントス 25 9
2001/02 ユベントス 32 16
2002/03 ユベントス 24 16
2003/04 ユベントス 22 8
2004/05 ユベントス 30 14
2005/06 ユベントス * *
主なタイトル
1995/96 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1996 インターコンチネンタルカップ優勝

才能豊かな繊細かつ華麗なテクニックは見る者を魅了し、
かつてプラティニやバッジョがユベントス時代に付けた背番号「10番」を若くして受け継ぎ、今やイタリア代表の主役とも言える存在。
「デルピエロゾーン」とまで言われる得意のシュートコースを持ち、
左サイドから中央に切れ込んで振り抜かれる右足は抜群の決定力を誇る。

91/92シーズン、セリエBパドバにてキャリアをスタートさせ
その非凡な才能を買われて1993年名門ユベントスへ。
94/95シーズン、R・バッジョの故障によって出場機会を増やし
その能力を発揮、スクデット獲得に大きく貢献すると同時に
その評価も急激に上昇する。(この年の欧州年間優秀賞4位であった。)1995年、ユベントスはアズーリのエース、ロベルト・バッジョをミランへと放出した。同じポジションのデル・ピエロをエースと認めたからだった。そしてデル・ピエロはエースに相応しい活躍を見せる。1995/96シーズンにはバッジョも成し得なかったUEFAチャンピオンズリーグ優勝をユベントスにもたらし、自身もグループリーグで5試合連続ゴールを挙げるなど、攻撃の中心として活躍した。
1996年トヨタカップでも来日し決勝点を記録、MVPにも選出されている。
96/97シーズンよりスクデット2連覇を達成、97/98シーズンには自身最高の21得点を記録する。
しかし、天才にもスランプは訪れる。1998年ワールドカップでは主役をクリスチャン・ビエリに譲り、ユベントスでも良い所が無かった。その評価を落とす事もあったが彼ほど「華のある選手」と言う言葉が似合う選手はなくジダンのいなくなった01/02シーズンには16得点を挙げる活躍を見せ、最終節の逆転スクデット獲得に貢献、翌シーズンにも16得点を挙げてスクデット連覇に大きく貢献している。
2000年欧州選手権で若干の復調を見せるも、まだまだ本調子では無かったが、2002年ワールドカップ欧州予選で完全復調。フィリッポ・インザーギの7ゴールに次ぐ5ゴールを挙げ、再びアズーリのエースに返り咲いた。

代表デビューは1995年3月25日エストニア戦。
1998年、2002年ワールド杯と出場を果たし、
2002年ワールド杯予選リーグでは、第3戦のメキシコ戦にて途中出場から
劇的な同点弾を記録し、予選敗退の危機にあったチームを救った。

体格には恵まれないが、技術の高さ、一瞬の閃きを武器に多種多様なゴールを演出。見る者を魅了する優雅なプレースタイルは、イタリアの画家ピントリッキオのタッチになぞらえられる。現在、世界で最も魅力的なプレーヤーの1人であることは周知の事実である。




Giuseppe Bergomi ジュゼッペ・ベルゴミ

bergomi.jpg

フルネーム ジュゼッペ・ベルゴミ
Giuseppe Bergomi
ニックネーム ツィオ(おじさん)
国籍 イタリア
生年月日 1963/12/22
出身地 ミラノ
ポジション DF(SB,CB)
身長 183cm
体重 78kg
代表デビュー 1981/4/14(通算81試合,6得点)
所属クラブ
1980-99 インテル
主なタイトル
1982年 ワールドカップ優勝
1990/91 UEFAカップ優勝
1993/94 UEFAカップ優勝
1997/98 UEFAカップ優勝

強靱な肉体を駆使したマンマークと、的確な指示によってDFラインに安定をもたらし、時には痛烈な激を飛ばしてチームを鼓舞、80~90年代におけるインテルの偉大なるキャプテンであり、イタリア代表でも不可欠なDFであった。
インテルの選手として史上最多となる518試合に出場したグランデインテル終焉後の同クラブを象徴する存在。1981年2月のコモ戦でデビュー後、1999年に現役を退くまで常にネッラズーロのユニフォームを身にまとい、イタリア代表の一員としても絶大なる存在感を発揮した。

80/81シーズン終盤の1981年2月コモ戦にてSERIE Aデビューを果たすとすぐにレギュラーを獲得、以後インテルにとって最も重要なプレーヤーへと成長する。
98/99シーズンに引退するまでインテル一筋、このクラブにキャリアのすべてを注ぎ518試合同一クラブ試合出場のSERIE A記録も持つ(23得点)。
在籍19シーズンでのスクデット獲得は88/89シーズンの1回のみという記録はあまりにも物足りないが、そのキャリアの中で見せ続けた高い能力は疑う余地もなかった。

1982年に代表デビュー(東ドイツ戦)を果たし、同年に行われたワールドカップでは18才でメンバーに選出され、2次リーグのブラジル戦で途中出場ながら素晴らしい活躍を見せて実力を証明、続く準決勝、決勝とスタメンフル出場を果たしてイタリアの優勝に大きく貢献した。特に決勝では当時ヨーロッパ最高のプレーヤーと称えられた西ドイツのエース、カール=ハインツ・ルンメニゲを完全に押さえる活躍を見せた。
1986年、90年のワールドカップではDFの要として君臨し活躍、
1994年大会にはメンバーから外れたものの、キャリアの晩年となる1998年大会ではその勇姿を再び現し、衰えを見せない経験溢れるプレーを見せてくれた。
1999年のインテル退団と同じに引退を表明、引退試合には
代表の元同僚ロッシやインテル新旧チームメイト、マテウス、ロナウド等が顔を揃えその存在の終演に華を添えた。
代表通算81試合。

1998年まで実に16年越し、4回のワールドカップに出場し、その度に素晴らしいプレーを見せてくれた。インテルの一員としては若し頃はSBとして、ベテランと呼ばれる年齢になった後はCBとしてインテルを支え、リーグ優勝こそ現役を通じて1度だけだったが、3度のUEFAカップ優勝を経験した。

彼ほどのDFにも現役時代悪夢の様な存在が3人いたという。
マラドーナ、ファンバステン、バッジョである。
しかし彼は皆歴史に名を残すようなスーパースターである。
そんな彼等と名勝負を演じたベルゴミもまた歴史に残るスーパースターなのである。


Roberto MANCINI ロベルト・マンチーニ

mancini.jpg

フルネーム ロベルト・マンチーニ
Roberto Mancini
ニックネーム マンチョ
国籍 イタリア
生年月日 1964/11/27
出身地 イエージ(アンコナ)
ポジション MF(OH),FW(ST)
身長 179cm
体重 76kg
代表デビュー 1984/5/26vsCAN(通算36試合,4得点)
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1977-81 ボローニャ - -
1981/82 ボローニャ 30 9
1982/83 サンプドリア 22 4
1983/84 サンプドリア 30 8
1984/85 サンプドリア 24 3
1985/86 サンプドリア 23 6
1986/87 サンプドリア 26 6
1987/88 サンプドリア 30 5
1988/89 サンプドリア 29 9
1989/90 サンプドリア 31 12
1990/91 サンプドリア 30 12
1991/92 サンプドリア 29 6
1992/93 サンプドリア 30 15
1993/94 サンプドリア 30 12
1994/95 サンプドリア 31 9
1995/96 サンプドリア 26 11
1996/97 サンプドリア 33 15
1997/98 ラツィオ 34 5
1998/99 ラツィオ 33 10
1999/00 ラツィオ 20 0
2000/01 レスター・シティ 4 0
獲得タイトル
サンプドリア
1985/86 イタリアカップ優勝
1987/88 イタリアカップ優勝
1988/89 イタリアカップ優勝
1989/90 UEFAカップウィナーズカップ優勝
1990/91 イタリアリーグ優勝
1993/94 イタリアカップ優勝
1994 イタリアスーパーカップ優勝
ラツィオ
1997/98 イタリアカップ優勝
1998 イタリアスーパーカップ優勝
1998/99 UEFAカップウィナーズカップ優勝
1999 UEFAスーパーカップ優勝
1999/00 イタリアリーグ優勝
1999/00 イタリアカップ優勝

ファンタジー溢れる創造力を見事にプレーに表現する事の出来た数少ない選手であり、得点能力にも抜群のセンスを見せた天才プレーヤー
ミスターサンプドリア。

ボローニャのユースで育ち、1981年に17歳でセリエAデビューを果たすと、翌シーズンにはサンプドリアに移籍。その後15年間に渡り
チームのエースとして君臨、攻撃の要として自らゴールも奪えるが、
その素晴らしいパス能力によってビアリ、キエーザ、モンテッラなどの
ストライカーの成長になくてはならない存在だった。
多くの有能なプレーヤーを擁したサンプドリアは、1980年代後半にコパ・イタリアを3度制覇、1990年代にも1度、同カップを制し、1990/91シーズンにはクラブの念願だったスクデットを獲得した。その間、マンチーニはキャプテンとして、中心選手としてチームの勝利に大きく貢献。マンチーニはまさにジェノバの象徴だった。
90/91シーズンにはチーム悲願のスクデット獲得にも貢献し、ジェノアの英雄「ミスターサンプ」の呼名に相応しい存在でもあった。
キャリアの終盤にはラツィオに移籍、年齢的な衰えを見せる所か、その芸術性は一層輝きを増して99/00シーズンのスクデット獲得にも貢献している。

イタリア代表としては1984年8月のアメリカ遠征で初キャップを刻むもこの合宿中に宿泊先を抜け出し夜遊びをする暴挙が当時監督を務めたベアルツォットの怒りを買い、その後長期に渡り代表から追放されてしまう。
1986年、監督交代に伴い代表復帰を果たし1988年欧州選手権には出場したが、イタリアが3位となった1990年W杯では、そのピッチに立つ事はなかった。
R・バッジョにも劣らぬ逸材であった事は周知の事実であり
思った事を口にしてしまうその性格が災いしなければ、イタリア代表としても素晴らしい栄光を掴んでいただろう。

99/00シーズンのスクデット獲得後引退を表明し、当時ラツィオ指揮官であったエリクソン監督の元でアシスタントコーチを勤めるが、
2001年1月の監督辞任と同時に自らもレスター(プレミア)へ渡り現役復帰を果たす。
その後約1ヶ月で再び現役を退き、フォオレンティーナ監督に就任する。
チーム事情によりチームは低迷する事となったが、そのカリスマ性を買われて02/03シーズンよりラツィオの監督に就任すると、素晴らしい采配を見せチームを上位に押し上げている。2004年サマーオフに低迷の続くネッラズーロの監督に就任。現在、最も注目を浴びるイタリア人監督である。

サンプドリアの歴史はマンチーニと共にある。そう言っても過言ではない。なにしろロベルト・マンチーニという男はサンプドリアがクラブ創設から現在に至までに獲得したタイトル全てに関わっているのだから。1985/86シーズンに獲得したコパ・イタリアを手始めに、1回のリーグ優勝、4回のコパ・イタリア優勝、1回のスーパーカップ優勝、1回のカップ・ウィナーズカップ優勝を果たした。天才的なオフェンスの才能を有し、シュートは勿論の事、パスにも非凡な能力を発揮。コンビを組んだFWに多くのアシストを記録し、特にジャンルカ・ビアッリとのコンビネーションは素晴らしかった。



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