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Gary NEVILLE ギャリー・ネビル

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フルネーム ギャリー・アレクサンダー・ネビル
国籍 イングランド
生年月日 1975年2月18日
出身地 バリー
ポジション DF ・ MF
身長・体重 180cm・74kg
個人タイトル なし
ワールドカップ 1998年ベスト16
所属クラブ
1993- マンチェスター・ U

クラブレベル、代表レベル共に不動の右サイドバックとして活躍するスタープレーヤー。
右サイドを俊足で駆け上がる攻撃力も大きな武器であるが、そのディフェンス能力からセンターバックなどでもプレー出来る器用さも兼備える。また、得意のロングスローも持味の1つである。

1991年夏、マンチェスター・ユナイテッドとトレイニー契約、
育成機関で才能に磨きをかけると3年後となる93/94シーズン5月、コベントリー戦にてトップデビューを果たす。
リーグ終盤でのデビューという事もあり、このシーズンは1試合の出場に終わったが翌94/95シーズンには18試合出場、さらに95/96シーズンより不動のレギュラーとして君臨、現在までで6度のリーグ優勝に貢献している。
2001年5月にはチームとの契約を2007年まで更新、チームにとって、いかに重要なプレーヤーであるかが分る。

代表デビューは1995年6月に行われたアンブロ・カップ日本戦。
その後1996年欧州選手権、1998年ワールドカップなどで活躍、
2002年ワールドカップ欧州予選でも7試合に出場し出場権獲得に貢献し、2002年2月13日のオランダ戦(親善試合)にて代表50キャップを達成した。

エヴァートン所属のミッドフィールダー、フィリップ・ネヴィルは弟にあたる。
マンチェスター・ユナイテッドのユースアカデミー出身。1992年のFAユースカップ優勝メンバーであり、同じくユース出身のベッカムやギグス、スコールズなどマンチェスター・ユナイテッドの黄金期を築いたいわゆる「ファーギー・ベイブス」の一員である。その中でも彼のトップデビューは早く、1992年のUEFAカップでデビューを果たす。
以来、赤い悪魔の一員として、またイングランド代表の一員として、現在でも常にスタメンに名を連ねる不動の右サイドバックとして知られる。決してフィジカルやテクニックが傑出しているわけではないが、その抜群の安定感と豊富な運動量は、計算できるプレーヤーとして監督から重宝がられる。特に、ユース時代から共にコンビを組み、イングランド代表では現在でも一緒に右サイドでプレーするベッカムとの相性は抜群。センタリングの精度も高く、センターバックもこなせるというユーティリティー性も兼ね備える。近年は体力的な衰えが指摘されがちだがまだふけこむ年ではない。

ちなみにベッカムとはプライベートでも親友で、ビクトリアとの結婚式では新郎の仲介役も務めた。
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Steve MCMANAMAN スティーブ・マクマナマン

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フルネーム スティーブン・マクマナマン
国籍 イングランド
生年月日 1972年2月11日
出身地 リバプール
ポジション MF
身長・体重 181cm・67kg
個人タイトル なし
ワールドカップ 1998年ベスト16
所属クラブ
1990-99 リバプール
1999-03 レアル・マドリード(スペイン)
2003-05 マンチェスター・シティ

抜群のテクニックを持ち、足下に吸い付いたようなドリブルによって
サイド付近から突破口を開いた元イングランド代表ウィンガー。

1990年12月15日シェフィールド・U戦にてプレミアデビューを果たし翌シーズンよりレギュラーとして活躍する。1992年のFAカップ優勝に貢献し94/95シーズンのリーグ優勝にも大きく貢献すると1994年11月16日のナイジェリア戦にて代表デビューも果たす。
1996年欧州選手権、大きな期待の中、初の国際大舞台でのピッチを経験し今後のイングランドを担うであろうと思われたが、多少安定性に欠けていたため1998年ワールド杯ではベンチから飛び出す事はなかった。
98/99シーズン終了後、ユベントスやミランなどのビッグクラブが獲得に乗り出す中、欧州屈指の強豪レアル・マドリードへ加入し2度のチャンピオンズ・リーグ優勝、2度のリーグ優勝に貢献、99/00チャンピオンズ・リーグ決勝のバレンシア戦での試合を決定付ける2点目をたたき出したシーンはファンの記憶に深く残った。

フィーゴやジダンなどのビッグスターの加入により多くの出場機会に恵まれず毎シーズン終了後に移籍の噂が絶えなかったが、レアル・マドリードで頑なにプレー、契約をまっとうし、2003年より母国プレミアリーグへ復帰、多くの出場機会を得る事でイングランド代表復帰も期待されたが怪我に悩まされた時間の方が多く04/05シーズン終了後に現役を引退した。

残念だったのは2002年ワールド杯メンバーに選出されなかった事・・
そのプレーが日本で見れなかったのは非常に寂しい所であった。

Bryan Robson ブライアン・ロブソン

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フルネーム ブライアン・ロブソン
Bryan Robson
国籍 イングランド
生年月日 1957/1/11
出身地 ダーラム
ポジション MF(OH,SH)
身長 175cm
体重 79kg
代表デビュー 1980/2/6vsIRL(通算90試合,26得点)
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1972-74 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン - -
1974/75 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 3 2
1975/76 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 16 1
1976/77 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 23 8
1977/78 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 35 3
1978/79 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 41 7
1979/80 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 35 9
1980/81 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 40 10
1981/82 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 5 0
1982/83 マンチェスター・ユナイテッド 33 10
1983/84 マンチェスター・ユナイテッド 33 12
1984/85 マンチェスター・ユナイテッド 33 9
1985/86 マンチェスター・ユナイテッド 21 7
1986/87 マンチェスター・ユナイテッド 30 7
1987/88 マンチェスター・ユナイテッド 36 11
1988/89 マンチェスター・ユナイテッド 34 4
1989/90 マンチェスター・ユナイテッド 20 2
1990/91 マンチェスター・ユナイテッド 17 1
1991/92 マンチェスター・ユナイテッド 27 4
1992/93 マンチェスター・ユナイテッド 14 1
1993/94 マンチェスター・ユナイテッド 15 1
1994/95 ミドルスブラ 22 1
1995/96 ミドルスブラ 2 0
獲得タイトル
マンチェスター・ユナイテッド
1982/83 イングランドカップ優勝
1983 イングランドスーパーカップ優勝
1984/85 イングランドカップ優勝
1989/90 イングランドカップ優勝
1990 イングランドスーパーカップ優勝
1991/92 イングランドリーグカップ優勝
1992/93 イングランドリーグ優勝
1993 イングランドスーパーカップ優勝
1993/94 イングランドリーグ優勝

いつの時代にも優秀なキャプテンを擁したイングランド代表の歴史の中でも一、二を争うほど優れたキャプテンで、ボビー・ムーアと双璧を成すほどのキャプテンシーでチームを牽引した伝説のプレーヤー。卓越したボール捌きでゲームを組み立てると共に得点能力も発揮し、代表通算26得点を挙げた。
80年代イングランド代表を支えたプレーメーカー。
高い戦術眼に卓越したパスセンスを備え、常に闘争心溢れるプレーでチームを鼓舞、長期に渡って偉大なるキャプテンとして君臨したスタープレーヤーであり彼に憧れて成長した現在のスタ-選手も数多い。

イングランド古豪ウエスト・ブロムウィッチ・アルビオンで育ちその才能を開花、1981年に当時リーグ優勝から見放されていたマンチェスター・Uへ引き抜かれる。
ここで3度のFAカップ優勝、1度の欧州カップウィナ-ズ・カップを制し強豪復活に大きな役割を果たすと92/93シーズンには実に26年振りのリーグ優勝を成し遂げキャプテンとしてこれ以上ない成功を収めた。
彼の存在が、現在華々しい活躍を見せるベッカム等に多大なる影響をもたらしたのは言うまでもない。
1994年よりプレーイング・マネージャーとしてミドルスブラに移り
1996年の現役引退後もチームの監督として活躍、2度のプレミア昇格とFAカップ決勝進出の功績を残した。

代表デビューは1980年2月6日アイルランド戦。
2度の膝の故障を経験するなどの不運もあったが、それでも3度のワールド杯にて活躍するなど代表通算90試合に出場、その内65試合はキャプテンとしてチームを牽引(歴代3位)し抜群の存在感を示した。通算26得点。また、初出場となった1982年ワールド杯緒戦フランス戦にて開始27秒でゴールを挙げる歴代3位の記録を持つ。
更に1989年12月13日に母国で行われたユーゴスラビア戦では
開始38秒のウェンブリー最速得点記録を持つ。
 
マット・バスビー監督が退き、ボビー・チャールトンを始めとするバスビー・ベイブスが現役を終えた後に低迷期を迎えたユナイテッドだったが、ロブソンの加入で一気に息を吹き返す。1982/83シーズンにカップ戦優勝を果たし、1986年にアレックス・ファーガソンが監督に就任後は、イングランドサッカーはユナイテッドを中心に回っていく事となる。ロブソンが選手として晩年にあった1992/93シーズンには念願のリーグ優勝を飾り、現在まで続く赤い悪魔の黄金時代の礎を築いた。

Stanley Matthews スタンレー・マシューズ

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フルネーム スタンレー・マシューズ
Stanley Matthews
ニックネーム ドリブルの魔術師
国籍 イングランド
生年月日 1915/2/1 - 2000/2/23
出身地 ヘンリー
ポジション FW(WG)
身長 174cm
体重 71kg
代表デビュー 1934/9/29(通算54試合,11得点)
所属クラブ
1930-47 ストーク・シティ
1947-61 ブラックプール
1961-65 ストーク・シティ
主なタイトル
1956年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

1956年、あのバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)が
フランス・フットボール誌によって創りだされた。
その初代受賞者となったのがこのスタンリー・マシューズである。
右サイドのスペシャリストであり、卓越されたボールコントロールと
素晴らしい加速から織り成されるドリブルから「ドリブルの魔術師」の異名を持つ。
彼が生み出した、左足の素早いステップで相手の注意を奪いその瞬間に
右足で一瞬にして抜き去るボールテクニックは「マシューズ・トリック」と呼ばれ、後にこれをもとに多くのフェイントテクニックが生まれることとなった。

1915年2月1日、プロボクサーの息子としてマシューズは生まれる。
彼の父親、ジャック・マシューズはフェザー級のボクサーをしながら
床屋も経営していたことから「戦う床屋」と呼ばれており、
幼いマシューズは土曜の朝に父親の床屋の床掃きを手伝うとわずかなお金を貰い、そのお金で後にマシューズが所属するストーク・シティのライバル、ポート・ヴェイルの試合に足を運ぶのを日課としていた。
14歳の時、週給1ポンドでストーク・シティのグラウンドスタッフとして働き始めたのをきっかけに、15歳で選手としてストーク・シティへ加入。
17歳の誕生日にプロ契約を結ぶと同年3月19日にはトップデビューを飾る。
デビュー後マシューズはそのドリブルの才能をいかんなく発揮し、ストーク・シティでレギュラーを確保すると1934年9月29日にはウェールズ戦で代表デビューも果たした。

マシューズがトップデビューを果たしてから7年後の1939年、第2次世界大戦の影響によりイングランドのプロリーグ中止が決定する。
これによりマシューズはキャリアの全盛期といえる24歳から31歳までの間、非公式の試合への出場を余儀なくされた。
戦時中は24試合に出場、代表戦でも4勝を記録した。

7年ぶりにリーグ戦が再開された46/47シーズンの翌年、ストーク・シティのファンの間に激震が走った。
なんとクラブが既にストーク・シティのシンボルとなっていたマシューズをブラックプールに1万1500ポンドで譲ってしまったのだ。
マシューズはすぐにこの値段が破格である事を証明してみせる。
ブラックプールはその後6シーズンでそれまで一度も成し遂げられなかったFAカップの決勝進出をなんと3度も果たすことになる。
最初2回は敗れてしまうが3度目の挑戦でクラブ初となるタイトルを獲得。
FAカップ初制覇となった1953年5月3日のボルトンとの決勝戦は
FAカップ史上最も素晴らしい試合の1つとして歴史に刻まれている。
この試合、ブラックプールは後半55分の段階で3ー1とリードされていた。
しかしロスタイム直前の89分、ブラックプールFWスタン・モルテンセンが
ハットトリックとなる3点目を決め同点に追いつくと、迎えたロスタイムの92分、右サイドを駆け上がったマシューズからのクロスをペリーが決めブラックプールは4ー3で劇的な逆転勝利を飾った。この試合で終始素晴らしいパフォーマンスを見せたマシューズの活躍に人々は敬意を表し、この試合を『The Matthews Final』と称して今でも語り継いでいる。
このときマシューズは38歳。ブラックプールでは1948年(33歳)に英国年間最優秀選手賞の初代受賞者になると、1956年(41歳)にはバロンドール初代受賞者に、そして翌年1957年にはOBE(大英帝国勲章)を受賞している。

14シーズンをブラックプールで過ごした1961年10月、マシューズが3500ポンドで再びストーク・シティに戻ることが決定した。
当時ストーク・シティはマシューズがいた14年前の活気は無くクラブは3部落ち目前の19位。
ところがマシューズの帰還が決定するとその活気は再び戻ることとなる。
彼が戻る直前のある試合の観客動員数は8409人。
しかしマシューズが戻ってきてからわずか2週間後には観客動員数は35288人を記録していたのである。
クラブもそのシーズンを最終的に8位で終えると1年後にはリーグ優勝を決め1部昇格を決めたのだった。
この年、マシューズは48歳にもかかわらず42試合中35試合に出場と驚くべき記録を残し、同年1963年に2度目となる英国年間最優秀選手賞を受賞。
そして1965年1月には英国女王エリザベス2世により、サッカー選手として、そして現役選手として初のナイトの称号を授かっている。

彼のキャリアの最終戦は1965年2月6日のフルハム戦。
この試合でマシューズは50歳と5日というトップリーグ最年長選手の出場記録を樹立し現役から退いた。
リーグ通算出場記録710試合ストーク・シティ通算記録(カップ戦含む)355試合62得点代表通算記録54試合11得点、イングランド代表歴代最年長勝利記録 ・・・42歳と103日

引退後はポート・ヴェイル、ハイバーニアンの監督を歴任すると共に
アフリカ、マルタ、カナダ等世界中でサッカーの指導に従事。
1989年にはストーク・シティの会長に就任している。
最後の最後までサッカーと共に生きたマシューズは2000年2月23日、85歳でこの世を去った。

マシューズの選手としての経歴は決して栄光に溢れていたわけではない。
しかしマシューズほど多くの人々に愛され、これほど評価され、
そしてマシューズほどサッカーに生涯を捧げた選手もいないだろう。
「サー・スタンリー・マシューズ」 サッカーの母国、イングランドで生まれた彼こそまさに真の伝説のプレイヤーと言えるかもしれない。

1956年に始まったバロンドールの初受賞者。そもそも同賞自体がマシューズに受賞させるために始まったと言われており、彼がバロンドールを獲得したのは41歳の時だった。1930年にキャリアをスタートし、1965年に50歳の高齢で引退するまで一度のファールも犯さなかった。サッカー史上最高のジェントルマンといえる。
皆はマシューズを褒め称えたが、マシューズが一番嫌ったのは甘い言葉と過度の賞賛だった。それを示すように、こんなマシューズの名言が残っている。
「誰かが私を誉めだすと逃げ出したくなる。チームには私の他に10人もの選手がおり、彼らなしにプレーすることは不可能なんだから」
1965年に現役を引退。その僅か3週間後にエリザベス女王からサーの称号を授与される。それはさながら戴冠式。その時、エリザベス女王はこう言ったという。「Mr.スタン、あなたは伝説ですね」
誰もがマシューズに憧れ、マシューズを愛した。彼女もまた、マシューズを愛していた。

Gary Lineker ギャリー・リネカー

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フルネーム ギャリー・ウィンストン・リネカー
Gary Winston Lineker
ニックネーム リンクス(山猫)
国籍 イングランド
生年月日 1960/11/30
出身地 レスター
ポジション FW(CF)
身長 177cm
体重 74kg
代表デビュー 1984/5/26(通算80試合,48得点)
所属クラブ
1974-85 レスター・シティ
1985-86 エバートン
1986-89 バルセロナ(スペイン)
1989-92 トッテナム・ホットスパー
1992-94 名古屋グランパスエイト(日本)

得点感覚、瞬発力、ポジショニング、その全てにおいて優れた80年代を代表する元イングランド代表ストライカー。
足と頭、両方から繰り出される確実かつ、冷静なシュートでクラブと代表両チームにおいて得点を量産、クラブチームでは3度のリーグ得点王に輝くと、代表では1986年ワールドカップメキシコ大会にて大会得点王となり、代表通算48得点をマーク。
ボビー・チャールトンの49得点に続きイングランド代表歴代2位の記録を持つ。
またそのプロキャリア全てにおいて1枚もイエローカードを貰ったことが無く、英国紳士を体現したフェアなプレーヤーとしても知られている。ミスター・イングランドの異名をとる。

1960年11月30日レスターで生まれたリネカーは地元のクラブ、
レスター・シティに所属すると、18歳にてトップデビューを果たす。
最初こそ、なかなか出場機会に恵まれなかったが81/82シーズンに
17得点を記録したのを皮切りに26得点、22得点と毎シーズン得点を量産。
84/85シーズンには24得点を記録しリーグ得点王を獲得した。
そして翌シーズンより、エバートンへ移籍を果たすがここではなんと30得点を記録。
2年連続となる得点王に輝くとプレミアリーグ年間最優秀選手賞を受賞。
しかしリネカーの素晴らしい得点力を得たにも関わらず、エバートンは
リーグ、FAカップ共にライバルであるリバプールに続いて2位で終わっている。

そして迎えた1986年ワールドカップメキシコ大会。
イングランド代表はグループリーグで苦戦を強いられていた。
初戦のポルトガル戦を1ー0で落とすと続くモロッコ戦はスコアレスドロー。
そしてグループリーグ最終戦の相手はそのポルトガルを1ー0で破っていたポーランドであった。苦戦が予想された試合だったがふたを開けてみればリネカーのハットトリックにより3ー0で圧勝。
得失点差でポーランドをかわしたイングランドが決勝トーナメント進出を果たした。
この試合で勢いをつけたリネカーは続くパラグアイ戦でも先制点を含む2ゴールを記録。
3ー0でパラグアイを退けると準々決勝にこまを進める。
準々決勝の相手はマラドーナ率いるアルゼンチン。
試合はマラドーナの「神の手ゴール」と「60メートル5人抜きゴール」の前に負けをきっするが、リネカーはこの試合でも一矢報いる1得点を記録。
通算6ゴールで大会得点王の栄誉を勝ち取った。
1990年ワールドカップイタリア大会ではイングランドは4位で大会を終え、リネカーはこの大会でも4得点を記録し大会通算10得点の記録を残している。
代表デビュー1984年5月26日スコットランド戦代表通算80試合48得点

メキシコ大会で得点王に輝いたリネカーは86/87シーズンよりスペインのバルセロナへ。
3シーズン在籍し国王杯とカップウィナーズカップ獲得に貢献するが
監督のクライフと折り合いが会わず89/90シーズンよりトッテナムへ移籍。
ここでガスコインと絶妙のコンビを見せ、移籍初年度に24得点で自身3度目となるリーグ得点王となると翌シーズンにはFAカップを獲得。
91/92シーズンには2度目となるプレミアリーグ年間最優秀選手賞を受賞した。

1992年に代表を引退すると晩年は日本に渡り名古屋グランパスにてプレー。
活躍が期待されたが度重なる怪我によりその期待を果たせず、1994年シーズンを最後に現役を引退した。
現役引退後はテレビのスポーツ番組でプレゼンターを務めながら4人の子どもの父親として母国にて暮らしている。

余談だが代表通算48得点で迎えた1992年5月17日ブラジルとの
親善試合において自ら得たPKを外してしまい、ボビー・チャールトンの記録に並ぶ事が出来ず、その後数試合でも得点を記録出来ないまま代表を引退している。

1974年にレスター・シティでキャリアをスタートし、1994年に名古屋グランパスでキャリアを終えるまで、レッドカードはおろか、イエローカードを受けることさえ1度も無かった。サッカー史に残るクリーンなプレーヤーとして、今なお多くの尊敬を集めている。

Bobby Moore ボビー・ムーア

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フルネーム ロバート・フレデリック・チェルシー・ムーア
Robert Frederick Chelsea Moore
ニックネーム ボビー
国籍 イングランド
生年月日 1941/4/12 - 1993/2/24
出身地 バーキング(ロンドン)
ポジション DF(CB)
身長 178cm
体重 72kg
代表デビュー 1962/5/20(通算108試合,2得点)
所属クラブ
1958-74 ウェストハム・ユナイテッド
1974-77 フルハム
1976 サンアントニオ・サンダー(アメリカ合衆国)
1978 シアトル・サウンダーズ(アメリカ合衆国)
主なタイトル
1966年 ワールドカップ優勝

常に冷静沈着で、高度なディフェンス能力により奪ったボールは、
正確なパスにより的確にフィードされ、チャンスを創りだす事にも優れた。
60年代最高のイングランド代表ディフェンダーでありウェストハムの象徴的存在、その紳士的な態度から 抜群の信頼を寄せ、クラブでも代表でも長くに渡りキャプテンを努め、「生まれながらのキャプテン」として賞賛された。

1941年4月12日、ロンドン東部の町バーキングで生まれる。
幼い頃からの憧れのチーム、地元ウェストハムにてキャリアをスタートさせ、トップデビューは1958年9月のマンチェスター・ユナイテッド戦。
当初はあまり出場機会に恵まれなかったが1961年に新監督、グリーンウッドが就任すると彼の目にとまりレギュラーとして定着、すぐに才能を開花させた。ウェストハムではリーグ制覇こそ成し遂げられなかったが1964年にFAカップ初制覇を成し遂げると、彼自身も史上最年少となる23歳でプレミアリーグ年間最優秀選手賞を受賞、1965年にはカップウィナーズカップ決勝で1860ミュンヘンを破り欧州タイトルも獲得する。
16シーズンに渡ってウェストハムのディフェンスラインを統率した彼は常にクラブの象徴でありクラブ年間最優秀選手賞も4度受賞した。

1962年5月20日ペルー戦にて代表デビューを果たすと同年に開催されたワールド杯チリ大会にて全4試合にフル出場、翌年には若干22歳でキャプテンを任されるまでになり、代表通算108試合中90試合をキャプテンとしてプレーした。
1966年、母国開催となったワールド杯では彼の統率するディフェンスラインは最高の守備力を発揮、準決勝ポルトガル戦にてエウゼビオのPKを許すまで無失点で勝ち進み、決勝では延長戦の末ベッケンバウアー等素晴らしいタレントを誇った西ドイツをも下し、イングランドに初のワールドカップをもたらすと同時に自身もこの大会の最優秀選手に選出されている。

続く1970年ワールド杯コロンビア大会にてムーアを悲劇が襲う。
直前合宿を行っていたコロンビア、ボゴタのホテルに滞在中彼はそのホテルの宝石店にて625ポンドのエメラルドをあしらった金のブレスレットを盗んだ罪で現地の警察につかまり4日間拘留された。
すぐにFAが介入しムーアは釈放されたが、本大会ではそのショックを引きずり満足なパフォーマンスが出来ず、ベスト8進出に終わってしまう。
この事件の真相は明らかになっていないが、当時の中南米の国々と欧州の国々との外交摩擦からこの事件がでっち上げられたと言う説が有力である。余談だがこのような時代背景があった為、当時の対ブラジル戦での試合終了後のムーアとペレとのユニフォーム交換の写真は南米と欧州の和解の象徴としてワールド杯で最も有名な写真の1つとして残っている。

この後、ムーアは代表引退、それを機にウェストハムを去ることを決意。
新天地をフルハムに求めここでカップ戦を含め150試合以上に出場。
3シーズン在籍後、アメリカに渡りここで現役を引退した。
現役引退後、体調を崩したこともあり指導者としての活躍は数えるほどしかなかった。
そして1991年に癌を発症。2年間の闘病生活の後、1993年2月24日癌のため51歳の若さでこの世を去った。イングランド史上最高のDFであり世界最高のキャプテン、ボビー・ムーア。全てのDFの理想、ボビー・ムーアは1993年2月24日、永遠の眠りにつく。その日、イギリス中が喪に服した。
癌との闘病生活を世間に公表してからわずか9日後のことだった。
当時ウェストハムのスタジアムの門にはウェストハムのファンであるかどうかに関わらず多くの人々がマフラーを結びつけ追悼の意を示したと言う。
ウェストハムのファンにより今でも愛され、伝説としてあがめられているムーアは、今も熱狂的なサポーターが陣取るスタジアムの南スタンドにその名前を残している。

Wayne Rooney ウェイン・ルーニー

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フルネーム ウェイン・マーク・ルーニー
Wayne Mark Rooney
ニックネーム ワンダーボーイ
国籍 イングランド
生年月日 1985/10/24
出身地 リバプール
ポジション FW(CF,ST),MF(OH)
身長 176cm
体重 73kg
代表デビュー 2003/3/12
属クラブ
2002-04 エバートン
2004- マンチェスター・ユナイテッド

天性の得点感覚とテクニックを備えるだけでなくパスセンスも有り
ゲームメーカーとしてのポテンシャルも高いイングランド期待の逸材。
各クラブの監督もその潜在能力を高く評価しておりアーセナル名将ベンゲル監督に「私がイングランドに来てから見た中で最高のプレーヤー」
とまで賞賛される程の才能の持ち主。

熱狂的なエバートンファンの家族の中で育ち自らもエバートンのアカデミーにてその才能に磨きをかける。14才で早くもエバートンのU-19に抜擢され01/02シーズンには21試合に出場し17得点を記録、
更に FA ユース杯ではオーウェンの持つ最多9ゴールに後1つと迫る8ゴールを挙げチームの準優勝に貢献し能力の高さを証明して見せた。
同シーズン4月、弱冠16才ながらトップチームに昇格すると4月22日サウサンプトン戦にて初めてトップリーグのベンチに座り翌02/03シーズン開幕トッテナム戦にてリーグスタメンデビューを果たした。
U-14から各年代のイングランド代表として活躍している事もありイングランド国内ではすでに注目される存在であったがその名を世界中に知らしめる事となったのは2002年10月19日に行われたリーグ戦(アーセナル戦)。完成されたスペクタクルフットボールで2001/02シーズンのリーグチャンピオンに輝いたアーセナルを相手に、エバートンはなんとか同点に持ちこたえていた。
後半36分から途中出場を果たすと1ー1で迎えた44分にイングランドの歴史を変える25メートルの素晴らしいミドルシュートを決めオーウェンが1997年5月に記録した17才145日のプレミア最年少ゴール記録を塗り替えチームを勝利に導き更にアーセナルのリーグ戦不敗記録を30で止める決勝点でもあった。04/05シーズンより約50億円という多額の移籍金でマンチェスター・Uへ引き抜かれ、現在まで着実な成長を遂げている。

2003年2月12日、ロンドンで行われたオーストラリア戦にて代表デビュー、17才111日でのデビューは、20世紀最年少記録のオーウェンを上回る所か1879年にジェームス・プリンセスが樹立した17才252日を上回り言うまでもなく最年少イングランド代表出場記録となった。
同年9月6日に行われた欧州選手権予選マケドニア戦では、それまでオーウェンが保持していた18才147日という最年少得点記録を塗り替える同点弾を叩き込み、17才317日最年少ゴール記録を樹立している。
2004年欧州選手権では、その若さでエリクソン監督の信頼を完全に勝ち取りその期待に応える大活躍を見せ、通算4得点という数字以上の印象深いものであった。
準々決勝ポルトガル戦前半27分の骨折により、ルーニー、そしてイングランド代表の大会は終演を迎えたが、今後その力でチームを牽引し久々のタイトルをもたらしてくれる事に期待したい。

監督批判やサポーターへの挑発行為に始まり、取材のドタキャン、音信不通など当たり前、明らかなハンドでのゴールを「あれは神の手だった」と呼べば、ある者は観客席からの野次に突如カンフーキックをくらわせた。だが、その一方で誰にも真似のできないすばらしいプレーを披露する彼らは、まさに非常識の我が道を突き進み、そして称賛を得る。マラドーナ、カントナ、ジョージ・ベスト、エジムンド、ガスコイン、ロマーリオ……。そんな彼らの系譜を継ぐ者の1人がルーニーである。
リヴァプールの売春宿の常連。というレッテルを貼られ、ナイトクラブでは暴力行為を働く。さらには人前で婚約者に平手打ちをくらわせたとも報じられるなど、ピッチ外で多くの話題を振りまくルーニーだが、ピッチのなかでもその活躍ぶりはまったく色あせない。イングランド代表でキャプテンのベッカムと罵(ののし)り合いを演じてみれば、チャンピオンズリーグでは納得いかない審判の判定に拍手で応え退場。仇敵(きゅうてき)リヴァプール戦でゴールを決めたときには、「歌ってみろよ」とばかりに手の平を耳に当て、“コップ(ゴール裏)”に陣取るリヴァプールサポーターの目の前でけんかを売ってみせた。
ルーニー以前のイングランドでは、「ホットテンパー」と言えば“永遠の悪ガキ”ガスコインがまず思い出されたが、今ではその代名詞もこの20歳の若者の手に渡った感がある。まるで試合中に吹き出たアドレナリンが、自らの肉体だけには収まり切らずそのまま噴き出すかのように。そんな印象を強く抱かせる彼の爆発に、監督たちは若さ特有のものと擁護するが、審判に向かって「F**K」を20連発見舞うことを若さで片付けてしまっていいものか……。未だ底を見せない彼のプレーぶりを含め、この愛すべき怪童からはまだまだ目が離せそうにない。

Frank Lampard フランク・ランパード

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フルネーム フランク・ジェームス・ランパード
Frank James Lampard
国籍 イングランド
生年月日 1978/6/20
出身地 ロンフォード(エセックス)
ポジション MF(CH,OH)
身長 183cm
体重 75kg
代表デビュー 1999/10/10vsBEL
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1994/95 ウェストハム・ユナイテッド 0 0
1995/96 ウェストハム・ユナイテッド 2 0
スウォンジー・シティ 9 1
1996/97 ウェストハム・ユナイテッド 13 0
1997/98 ウェストハム・ユナイテッド 31 4
1998/99 ウェストハム・ユナイテッド 38 5
1999/00 ウェストハム・ユナイテッド 34 7
2000/01 ウェストハム・ユナイテッド 30 7
2001/02 チェルシー 37 5
2002/03 チェルシー 38 6
2003/04 チェルシー 38 10
2004/05 チェルシー 38 13
2005/06 チェルシー

抜群のキャプテンシーを擁しチームを統率、2列目からゲームをコントロールしながらセンスある飛び出しによって得点も狙えるイングランド代表MF。
イングランド代表にも選ばれた名DFを父に持ち、ハリー・レドナップが叔父、ジェイミー・レドナップが従兄弟というフットボールの名家の出身。高い決定率を誇るミドルシュートを始め、長短を問わない正確無比のパス、更には守備力まで兼備する。しかし最も筆頭すべきはそのフィジカル面にあり、90分間絶え間なく動き続けるスタミナはもちろん、シーズンを通して常にトップコンディションを崩さない鋼の肉体は驚異的と言う他ない。

11才でウェストハムに加入、育成機関で英才教育を施され95/96シーズン、弱冠17才でトップデビューを果たす。
(ウェストハムトレイニー(育成機関)はランパード以外にもリオ・ファーディナンド(リーズ)、ジョ-・コール(ウェストハム)など素晴らしいプレーヤーを育成している。)
シーズンを重ねる事に才能を開花させ97/98シーズンよりレギュラーに定着、以後チームの中心となり活躍する。(ウェストハムでの試合出場148試合、23得点)
しかし2001年5月、叔父であるハリ-・レドナップ監督の辞任、
それに伴い父親のフランクSrコーチの辞任によってチームを去る事を決意し01/02シーズンよりチェルシーへ移籍する(移籍金推定18億円)。
移籍後、そのパフォーマンスは更に磨きがかかりチームをFAカップ決勝に導くなど素晴らしい存在感を示し、04/05シーズンにはMFながらチーム最多の18得点を記録、50年振りとなるリーグ優勝を成し遂げ、サッカー記者協会主催のプレミア最優秀選手に選出された。

イングランドUー21代表としてもキャプテンとして活躍、1999年10月10日ベルギー戦にてフル代表デビュー、2002年ワールド杯ではメンバーから外れたが2004年欧州選手権では全試合に出場しベスト8進出に貢献、代表において今や欠かす事の出来ない選手の1人として認められている。

現在代表では、ベッカム、ジェラード、J・コール等と共に黄金の中盤を築き、6月母国を栄光に導くため鉄人ランパードは今日もピッチに立つ。

Gordon Banks ゴードン・バンクス

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フルネーム ゴードン・バンクス
Gordon Banks
国籍 イングランド
生年月日 1937/12/30
出身地 シェフィールド
ポジション GK
身長 183cm
体重 84kg
代表デビュー 1963/4/6(通算73試合,0得点)
所属クラブ
1953-54 ミルスポー・スティールワークスFC
1954-55 ロマーシュ・ウェルフェア
1955-59 チェスターフィールド
1959-67 レスター・シティ
1967-72 ストーク・シティ
1975-77 フォートローダーデール・ストライカーズ(アメリカ合衆国)
主なタイトル
1966年 ワールドカップ優勝

イングランド史上最高の守護神と名高く、その驚異的なセービングと判断力に常に安定した力を発揮する事でイングランドの一時代を築いた。
絶対的な信頼をおける存在である事から、その名になぞられ
Banks Of England(イングランド銀行)の異名を持つ。

ミルスポーやロマーシュといったアマチュアクラブを経た後、
当時ディビジョン3にあったチェスタ-フィールドとプロ契約を結ぶ。
バンクスが加入した翌年、チームはFAユースカップの決勝に進出するが、ボビー・チャ-ルトン率いるマンチェスター・Uの前に惜しくも敗れてしまった。
しかし、その後移籍したレスタ-・シティでは1963年のFLカップ優勝を果たしFAカップでは2度に渡って決勝の舞台に立った。
この時の活躍から1963年4月6日スコットランド戦にて代表デビューも果たした。
代表デビュー後は正GKとして君臨、1966年ワールド杯では予選リーグから準々決勝アルゼンチン戦までを無失点に抑え勝利に貢献、準決勝ポルトガル戦82分にエウゼビオの1失点を許すまでの443分の無失点記録を打ち立て母国開催のワールド杯優勝に大きく貢献して見せた。
1970年大会ではベスト8に終わったものの1次リーグで対戦したブラジル戦では見事なまでのスーパーセーブを連発、中でも前半18分にペレが放った完璧なヘディングシュートを驚異的な反応で弾き出し、このプレーは今尚語られるワールド杯のハイライトとなっている。

代表通算73キャップ、1972年10月22日の悲劇(自動車事故)から右目を失明し引退を余儀無くされてなければ、代表通算キャップは容易に100を超えていた事であろう。

その後アメリカにて再起をはかるが、怪我前の素晴らしさは影を潜めてしまった。
それでも1977年にはNASL最優秀GKに選出され有終の美を飾り、そのキャリアに終止符をうった。

彼のハイライトは恐らく1970年ワールドカップのブラジル戦だろう。前回大会優勝国のイングランドと、成熟したペレ率いるブラジルがグループリーグでぶつかることになる。ブラジルが優勢に試合を進め、18分に大きなチャンスを得る。カルロス・アウベルトのダイナミックな縦パスが右サイドへ渡りそジャイルジーニョがセンタリング。それをペレが完璧なヘディングシュートを放つ。バンクスはトスタンに釣られてシュートとは逆のニアサイドにいた。少なくともペレがシュートを放った瞬間はニアサイドにいたはずだった。しかしバンクスはこのシュートを止めることに成功する。ペレは信じられない様子だった。神様ペレに「私が見た中で最高のセーブ」と言わしめたスーパープレーだった。
まさにイングランド史上最高のGKであった。

Rio Ferdinand リオ・ファーディナンド

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フルネーム リオ・ギャビン・ファーディナンド
Rio Gavin Ferdinand
ニックネーム -
国籍 イングランド
生年月日 1978/11/7
出身地 ペッカム
ポジション DF(CB)
身長 188cm
体重 76kg
代表デビュー 1997/11/15vsCMR
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1995/96 ウェストハム・ユナイテッド 1 0
1996/97 ウェストハム・ユナイテッド 15 2
ボーンマス 10 0
1997/98 ウェストハム・ユナイテッド 35 0
1998/99 ウェストハム・ユナイテッド 31 0
1999/00 ウェストハム・ユナイテッド 33 0
2000/01
(nov) ウェストハム・ユナイテッド 12 0
リーズ・ユナイテッド 23 2
2001/02 リーズ・ユナイテッド 31 0
2002/03 マンチェスター・ユナイテッド 28 0
2003/04 マンチェスター・ユナイテッド 20 0
2004/05 マンチェスター・ユナイテッド 31 0
2005/06 マンチェスター・ユナイテッド

正確なボールコントロールと、卓越した戦術眼を兼ね備えて、ディフェンスに必要な全ての要素を持つ世界最高峰のDF。強靭なフィジカルで相手FWを弾き返し、鋭い読みでボールをカットする。見とれるような素晴らしい守備のセンスを持つ。

少年時代はMFやFWとして活躍、ウェストハムのユースで育ち、96/97シーズンにトップデビューを果たす。
00/01シーズン途中ディフェンダーとしては当時最高の移籍金1800万ポンドにてリーズへ電撃移籍、大きな話題となり注目を集める。
移籍後、すぐに素晴らしいレベルでのプレーを見せて00/01プレミアベスト11にも選出、その能力の高さを証明した。
02/03シーズンよりマンチェスター・ U へ加入し着実にキャリアアップ、このシーズンの覇権奪回に大きく貢献しイングランド最強DFである事を証明した。

代表デビューは19才となったばかりの1997年11月15日カメルーン戦。
翌年に開催されたワールドカップでは出場機会に恵まれなかったものの
メンバーには選出されている。
一時期、そのディフェンス能力に疑問の声も上がるが、試合を重ねる事に克服し、最も信頼のおけるディフェンダーの1人にまで成長すると、
2002年ワールド杯ではディフェンスリーダーとして君臨
大会を通して高いパフォーマンスを披露し、ベスト8進出の原動力となった。

2004年1月、ドーピング検査をすっぽかした事から8ケ月の出場停止処分、クラブ、代表共にプレーする事が出来ず、2004年欧州選手権を前にイングランド代表にとって最大の痛手となったのは記録に新しい。
同年10月W杯欧州予選ウェールズ戦にて代表復帰を果たし後は
代表、クラブレベル共に、改めてその存在の大きさを知らしめている。

守備能力は勿論の事、リーダとしての素質も兼ね備え、かのボビー・ムーアと比較される事もある。2002年ワールドカップでは世界一と称されたイングランド代表のDF陣を束ね、得意のヘディングで得点も記録。まだ若く、これから更なる成長が見込める大器である。

John Terry ジョン・テリー

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フルネーム ジョン・ジョージ・テリー
John George Terry
ニックネーム -
国籍 イングランド
生年月日 1980/12/7
出身地 バーキング(ロンドン)
ポジション DF(CB)
身長 185cm
体重 82kg
代表デビュー 2003/6/3
所属クラブ
1997-00 チェルシー
2000 ノッティンガム・フォレスト
2000- チェルシー

鉄壁の守備を誇るチェルシーのキャプテン。瞬発力の無さを指摘されるが、それを補って余りあるポジション取りの巧さ、対人プレーの強さを持つ。また、FW転向の噂が立つほど得点力にも優れており、セットプレー時のテリーは得点源としても期待できる。
生まれ持ったリーダーとしての資質は今後のイングランド代表キャプテン候補筆頭と期待されている。

元イングランド代表DFアーセナル主将であったトニー・アダムスに憧れチェルシーのユースチームで育つ。97/98シーズンにトップ昇格、ヴィアリ監督の元1998年10月28日リーグカップアストン・ヴィラ戦にてデビューを果たすと2ヶ月後のサウサンプトン戦にてプレミアデビューを飾った。
99/00シーズン、開幕から国内カップを含め8試合に出場した後、
2000年3月後半から5月初旬まで1部リーグのノッティンガム・Fで経験を積み再びチェルシーに合流する。このシーズンFAカップ優勝のタイトルを手に入れ翌シーズンより貴重な戦力として活躍、チームメイトであるデサイーや元チームメイトであったルブーフやゾラと共にプレーする事で飛躍的成長を遂げた。

ピッチ外では2001年同時多発テロの惨劇翌日、アメリカ人の出入りするホテルで酒に酔い大暴れする他2002年1月にはナイトクラブにて暴行事件容疑から裁判沙汰を起こすなど問題児振りも発揮している。しかし、その後はチームの主将として絶大な存在感を示し、04/05シーズンにはリーグカップ優勝に加え、チームにとって50年振りとなるリーグ優勝を成し遂げ、自身も選手協会によるリーグ最優秀選手に
選出、心身共に大きく成長した事が認められた。

2003年3月29日欧州選手権予選リヒテンシュタイン戦にて代表初召集、2003年6月3日セルビア・モンテネグロ戦、サウスゲートに代わり後半から出場し代表デビューを飾った。その後着実に経験を積み
2004年欧州選手権には3試合に出場、チームのベスト8進出に貢献し不動の地位を確立させた。

2004年サマーオフには更なる補強に成功し世界でも最高峰のタレント集団と化したチェルシー。そのチームにあってキャプテンとしてチームをまとめると共に、世界最高とも言われる守備網を率いるリーダーの役割を見事に果たしている。
指揮官モウリーニョに「世界最高のセンターバック」と言わしめた実力を6月ドイツの地で更なる活躍を見せてくれるに違いない。

~サッカー名(迷)言集~ その3

ルート・ファンニステルローイ(マンチェスターU&オランダ代表)
情熱なら誰にも負けない。

ジャック・ルメール(元フランス代表監督)
我々指導者は学ぶことを止めたときに教えることを止めなければならない。

中田 英寿
基本があれば、1を100にだってすることができる。

イビチャ・オシム(ジェフユナイテッド市原監督)
我々がストリートサッカーから学ぶものは多い。路地裏にはそれをしろ、それはいいプレーだと怒鳴る監督はいない。選手は何の制約のない中から自分で判断せざるを得ない。同時に人数も足りないからすべての役割を担わなくてはならない。トータルな組織の考えをそこで学ぶのだ。

肉離れ?ライオンに襲われた野うさぎが逃げ出すときに肉離れしますか?準備が足りないのです。

ドゥンガ(元ブラジル代表キャプテン)
サッカーは理屈じゃない。身体の芯まで、やるべきことをしみこませるスポーツなんだ。

ドラガン・ストイコビッチ(元ユーゴスラビア代表)
日本の選手には常にシンプルなプレーを心掛けるよう言ってきた。

奥寺 康彦(元日本代表)
上手い選手は、出来ないことはやらないんだよ。

セルジオ越後(サッカー解説者)
個性というのは教えられないからね。

トンマージ
「今日は2度目のセリエAデビューを飾ったような気持ちだ。給料ダウンの申し出をしたのは、ローマとサッカーを愛しているから。自分に対する賭けだった。賭けに勝ったかどうか、明らかになるのはまだこれからさ」
1年5ヶ月の長期離脱から月給20万円を申し出たトンマージのヴィオラ戦後のコメント

フランコ・バレージ
引退を撤回して臨んだ、95/96シーズンの開幕戦。最終ラインから上がってスパイクの裏でゴールに流し込んだ男は言った。
「ゴールキーパーも俺のシュートを受けられて光栄だろう。」

ファビオ・カペッロ
選手が結果を出せれば私は嫌われても構わない。

勝つことが私の興味の大部分。残りは哲学であり、ポエムであり無駄話だ。

サー・マット・バスビー
成功は確かに喜ばしい。しかし、勝利した試合に浮かれているだけでは何かを成し遂げたとは言えない。

名誉のための勝利に価値はないが、全力を尽くしたのなら敗戦を恥じる必要はない。

私にとってフットボールはロマンであり、ミステリーであり、詩にも似ている。

人生そのものなのだ。時を越えた魔力を持つ永遠のスポーツと言ってもいい。

中山雅史
行かないところへ行く、走れないところまで走るそれをやめたら 僕の価値なんてないんです。だからそれを続けていくのが使命なんです。

ジェンナーロ・ガットゥーゾ
「何かをやろうと決めた時には、ただ漠然と事を進めるだけでなく、満足いくようにしっかりとやらなければならない。それが真の男と、そうでない者を分ける。」

ルート・グーリット
「私達はゲームを99%支配していた。負けたのは残りの3%のせいだ。」

ロイ・キーン
「このタイトルが一番嬉しいんじゃない。次のタイトルの方が常に嬉しい。」

ヨン・ダール・トマソン
「ボクにも君と同じ試練を持っている姉がいます。 その彼女のためにボクは手話を覚えたんですよ。」
「君の試練は君にとって辛いことだと思いますが、君と同じように君の家族も、その試練を共有しています、君は一人ぼっちじゃないという事を理解していますか?「わかっているなら、オーケー!誰にも辛いことはあります。君にもボクにも、そして君のお母さんにも辛いことはあるのです。それを乗り越える勇気を持ってください。」
キャンプ地和歌山で耳の聞こえない少年に対して。

エレニオ・エレーラ (元インテル監督)
「勝ったらみんなで喜べ、負けても誰も責めるな」

オリバー・カーン
2002WC対韓国戦前
「誤審?関係無い。全部俺が止めればいいんだ」

モリエンテス
「審判に2点を奪われた。これは親善試合じゃない。W杯というビッグな舞台なんだ」

ディエゴ・マラドーナ
ナポリ時代
「とにかくボールをオレに回してくれそしたら、勝つ方法を考えるから余計な心配は、要らない」

1990年WCイタリア大会で、ユーゴスラビアに勝ったとき、泣いていたストイコビッチに
「泣くな。君には未来がある」

ズボニミール・ボバン
代表引退を決心したボバンは
「誰も代表で戦うのをやめたくはない、だからキャプテンである自分が先例になる。今のクロアチアには若い力が必要なんだ…」

ビル・シャンクリー(元リバプール監督)
「あなたにとってサッカーとは生き死にと同じくらい大事なものなのですね?」というインタヴュアーの問いに
Football is not a matter of life and death. It's much more important than that.
サッカーは生き死にの問題ではない。それよりももっと重要だ。

デビット・ベッカム(レアル・マドリー)
サッカーと戦争を同じ次元で語るべきではない。
しかし、我々が勝利することで人々に微笑みを与えることが出来るなら、ぜひ勝ちたい。

ロベルト・バッジョ
子どもの頃に夢見たような素晴らしいことばかりじゃない辛いことは山ほどある。サッカーの世界は厳しいのさ。それに気づいたからこそ、その後の自分があるんだと思う。

10番にはファンタジーな世界観を持っている選手のみが背負うことのできるナンバーって意味もある。

夢中になることが大切なんだ。
面倒くさいと感じたり、情熱を失ってしまったら、何もかもが終わりだからね。時には僕だってそれを忘れそうになる。だからこそどんな時も集中しなければならないんだ。

デニス・ベルカンプ(アーセナル)
僕にとって大事なのは、エレガンスが感じられるプレーだ。ある種のスタイルのある点のとり方をしたい。僕には、ゴール前で押し込むようなシュートのほうが難しく思える。押し込める位置にいなかったり、いたとしてもミスしたりする。いずれにしても、それは僕の点の取り方じゃない。

フランチェスコ・トッティ(ASローマ&イタリア代表)
サッカーは僕にとって楽しみでありショーなんだ。だから、難しいことでもやってのけられるんだよ。

クラレンス・セードルフ(ACミラン)
誰もが川を渡って、金持ちの岸に行きたがる。だけど、もし世界中の人々が人類は一つの大家族だと思うようになれば、自分一人で川を渡ろうとする事は止めるだろう。一人ひとりが協力して川に橋を架けようと努力すれば、人生の川は皆で一緒に渡る事だって出来るんだ。

アーセン・ベンゲル(アーセナル監督)
「人生で大切なことは、自分を信じること」

ドゥンガ(元ブラジル代表)
「人生において勝利を得る方法はいろいろとある。しかし、苦労を伴わずしてそれを得ることはできない。 」
「私は絶えず「勝つ」という目的意識を明確に持ってサッカーに取り組んできた。」

マイケル・オーウェン
「プロ生活の中で、いろいろなことを学んだよ。いいこともあったからね。でも僕はいつも自分を見失わなかった。」

ペレ
「私にとって背番号10番というのは特別な意味を持っています。」
「厳しい戦いであればあるほど、勝ったときの喜びは大きいもんさ。」

ロイ・キーン
「観客がハーフタイムに食事に行くのはいいが、遅れて席に戻ってくる
くらいならスタジアムに最初から来なければいい」

「アイルランドサッカー協会の役員がファーストで、何で俺たちがエ
コノミーで移動するのか」

ホルヘ・バルダーノ
当時レアルの監督だったバルダーノがロマーリオについて聞かれていった一言
「全く不公平な話だ。彼はアニメマンガに出てくるような選手なのだから…。」

ピエル・ルイジ・コッリーナ
「間違いは誰でも犯すその間違いもサッカーの一部なのだ」

Paul Scholes ポール・スコールズ

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フルネーム ポール・スコールズ
Paul Scholes
ニックネーム -
国籍 イングランド
生年月日 1974/11/16
出身地 サルフォード
ポジション MF(OH,CH)
身長 170cm
体重 74kg
代表デビュー 1997/5/24
属クラブ
1991- マンチェスター・ユナイテッド
主なタイトル
1998/99 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1999年 インターコンチネンタルカップ優勝

相手の視界から消えたかと思うと、絶妙なタイミングでゴール前へ現れ
あっさりとゴールを決めてしまう選手であり、また、味方に点を取らせる事にも優れた素晴らしいパサーでもある元イングランド代表。
大きな舞台や、重要な試合には必ずと言っていいほどの活躍を見せ、
その勝負強さも眼を見張るものをもっている。

幼年時代を地元オルダム・アスレティックの熱烈なファンとして過ごし
1991年にマンチェスター・Uの下部組織入り、1993年にトップ契約を果たす。
94/95シーズンにトップデビュー、翌シーズンからレギュラーに定着すると95/96、96/97シーズンのリーグ連覇に大きく貢献、更に98/99シーズンから00/01シーズンまでのプレミアシップ3連覇、98/99シーズンのトレブル(国内リーグ、FAカップ、チャンピオンズリーグの3冠)など、マンチェスター黄金時代の中心的存在として抜群の働きを見せている。
02/03シーズンには自身最高となる14得点を挙げ昨シーズンの雪辱を果たしている。

代表デビューは1997年5月24日南アフリカ戦。
代表前監督キーガン、現監督エリクソンから絶大な信頼を得ていて、
代表デビュー以来その存在は不可欠なものとなっている。
1998年ワールド杯では初戦チュニジア戦にて貴重な追加点挙げるなど全4試合に出場、続く2002年ワールド杯でも全5試合に出場しベスト8進出の原動力となった。

ボールに対する執着心が人一倍強くそれが時折警告の対象と
なる事もあるが、間違いなくそれも魅力の一つと言えるだろう。

Steven Gerrard スティーブン・ジェラード

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フルネーム スティーブン・ジョージ・ジェラード
Steven George Gerrard
ニックネーム スティービーG
国籍 イングランド
生年月日 1980/5/30
出身地 ウィストン
ポジション MF(CH)
身長 185cm
体重 79kg
代表デビュー 2000/5/31vsUKR
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1998/99 リバプール 12 0
1999/00 リバプール 29 1
2000/01 リバプール 33 7
2001/02 リバプール 28 3
2002/03 リバプール 34 5
2003/04 リバプール 34 4
2004/05 リバプール 30 7
2005/06 リバプール * *
主なタイトル
2000/01 UEFAカップ優勝
2004/05 UEFAチャンピオンズリーグ優勝

イングランドに突如現れたワールドクラスのCH。強烈なミドルシュートと正確なボールコントロールによって中盤を支配する、リバプール、そしてイングランド代表に不可欠であろうゲームメーカー。
04/05チャンピオンズリーググループリーグ最終節オリンピアコス戦で見せたファイナルトーナメントへ導くゴールは今後永遠に語り継がれるであろうスーパーゴールであった。

オーウェン等と共にリバプールユースアカデミーで育ち、1998年11月29日ブラックバーン戦にて弱冠18才でトップデビューを果たす。
00/01シーズンにはカップ3冠に大きく貢献、プレミアベスト11選出に加えJ・コール等活躍した選手を抑え、このシーズンの最優秀若手選手賞も受賞、まだ20才過ぎの年齢とは思えない能力の高さを証明した。03/04シーズンより主将としてチームを牽引すると04/05シーズンチャンピオンズ・リ-グでは決勝に進出、決勝ミラン戦では前半終了時0ー3と苦境に立たされたが後半開始早々、彼の貴重な追撃弾によりチームは勢いを増し同点に追い付きPK戦の末、ミランを破りビッグイヤーを掲げる事に成功したのである。
このシーズンのUEFA最優秀選手に選出されたのは言うまでもないだろう。

イングランド代表として2000年5月31日ウクライナ戦にてデビュー、その半月後の欧州選手権にも、わずかながら出場を果たし経験を積んだ。活躍が期待された2002年ワールド杯を怪我により棒に振ったのは残念であったが復帰後は欠く事の出来ないプレーヤーとして活躍、2004年欧州選手権では主力として全4試合に出場しベスト8進出に貢献している。

リバプールの顔だったマイケル・オーウェンがレアル・マドリードへと去った2004/05シーズン、クラブはラファエル・ベニテスを監督に迎えUEFAチャンピオンズリーグで大躍進を遂げる。優勝候補を次々と退け、決勝のミラン戦では前半45分で喫した3点のビハインドを追いつきPK戦にて勝利。ジェラードは反撃の狼煙を上げる1点目を決めチームを鼓舞。強烈なキャプテンシーを発揮し、次代のリーダーとしての頭角を現した。

David Seaman デイビッド・シーマン

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フルネーム デイビッド・アンドリュー・シーマン
David Andrew Seaman
ニックネーム Mr.セーフハンド,ポニーテール
国籍 イングランド
生年月日 1963/9/19
出身地 ロザラム
ポジション GK
身長 191cm
体重 83kg
代表デビュー 1988/11/16
所属クラブ
1981-82 リーズ・ユナイテッド
1982-84 ピーターボロ・ユナイテッド
1984-86 バーミンガム・シティ
1986-90 クィーンズ・パーク・レンジャーズ
1990-03 アーセナル
2003 マンチェスター・シティ

現代イングランドを代表するGK。母国イギリスではポニーテールの愛称でデイビッド・ベッカムと並ぶ人気を誇った。長年の経験を活かした冷静さと安定感は衰える事なく、40才近い年齢まで強豪アーセナル、イングランド代表の守護神として君臨したベテランプレーヤー。
近年幾度かのミスを犯しチーム敗退の要因に挙げられるも年間と通じて見れば常に安定したプレーで勝利に貢献、ミスターセイフハンドと
異名をとった実力は世界でも有数であった。

リーズのユースチームで過ごし81/82シーズンにトップ昇格を果たすがデビューをする事なく翌年に当時ディビジョン4にあったピーターボロへ活躍を場を求める。ここで守護神として活躍した後バーミンガムを経てクィーンズ・パーク・レンジャーズへ加入、ここでその才能を大きく開花させ1988年11月16日サウジアラビア戦では代表デビューも果たしている。
1990年より強豪アーセナルへ正GKとして迎えられるとすぐにリーグ優勝に貢献、その後も常に安定した力を発揮し通算3度のリーグ優勝、3度の FA カップ優勝、93/94シーズンには欧州カップ・ウィナーズ・カップ制覇も果たしている。
02/03シーズン終了後、契約切れからベンゲル監督よりGKコーチとして就くよう慰留されていたが、現役続行を決意し出場機会のあるマンチェスター・シティへ移籍、しかし2004年年明け後ポーツマスとの試合で肩を故障した事をきっかけに現役引退を決意した。

1996年欧州選手権では最優秀ゴールキーパーに選出されるプレーを見せて母国のベスト4進出に貢献、1998年、2002年と2大会連続でイングランドの守護神として全試合に出場を果たした。
しかし2002年ワールド杯での準々決勝ブラジル戦での痛恨のミスからロナウジーニョに決勝弾を決められチームは敗退、各メディアが揃って非難を浴びせた。ただ1度や2度のミスであっても許されないポジションにありそれを擁護するつもりもないが、今まで見せた数々のスーパーセーブもまたシーマンならではであったのを忘れてはならない・・。
代表通算75試合。

シーマンがいるから攻撃に専念できる。そう思ったプレイヤーは数多くいるはずだ。それほどの存在感と安定感を兼ね備え最後の砦として君臨し続けた。偉大なるGKの記憶は今だ母国の誇りとして多くのファンの胸に焼き付いている。

ミラン、二けた得点4人は55年ぶり

キエーボ戦でハットトリックを達成したミランのブラジル人MFカカは今季のリーグ戦でのゴール数を12に伸ばした。カカにとってミランで初めてのハットトリックであることに加え、ミランにとっても2重の意味で歴史的な結果である。

 キエーボ戦の4-1という結果により、ミランはシーズン合計100ゴールを突破(現在102ゴール)。また、カカが12ゴールに到達したことでリーグ戦での二けた得点者は4人になったが、これはミランにとってセリエAで実に55年ぶりのことである。1950-51シーズンにはグンナー・ノルダールが34ゴール、カルロ・アンノバッツィが17ゴール、ノルダールとともに“グレ・ノ・リ”トリオの1人であるニルス・リードホルムが13ゴール、レンツォ・ブリーニが12ゴールを記録した。
 この年のミランは合計107ゴールを記録し、インテルを1ポイント差で抑えてスクデットを獲得。4人の二けた得点者がミランの全ゴールの71パーセント(76点)、そのほかの5選手が残りのゴール(31点)を決めた。

 今季のミランはアンドリー・シェフチェンコ(19点)を筆頭にアルベルト・ジラルディーノ(16点)、カカ(12点)、フィリッポ・インザーギ(10点)が続く。74ゴール中57ゴールが4人のもので、全体の77パーセントに当たる。残りの16ゴールは9人の選手で記録しており、合計13人がリーグ戦で1点以上のゴールを決めている(オウンゴールも1点)。

<ミランでの二けた得点者4人>
1931-32(57):パストーレ13、アルカーリ、マニョッツィ、モレッティ各11
1949-50(118):ノルダール35、ブリーニ21、リードホルム、グレン各18
1950-51(107):ノルダール34、アンノバッツィ17、リードホルム13、ブリーニ12
2005-06(74):シェフチェンコ19、ジラルディーノ16、カカ12、インザーギ10

※( )内はシーズン終了時のチーム総得点(05-06は第33節終了時点)

Joe Cole ジョー・コール

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フルネーム ジョセフ・ジョン・コール
Joseph John Cole
ニックネーム ジョー
国籍 イングランド
生年月日 1981/11/8
出身地 イズリントン(ロンドン)
ポジション MF(OH,LSH,RSH)
身長 178cm
体重 73kg
代表デビュー 2001/5/25vsMEX
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1998/99 ウェストハム・ユナイテッド 8 0
1999/00 ウェストハム・ユナイテッド 21 1
2000/01 ウェストハム・ユナイテッド 30 5
2001/02 ウェストハム・ユナイテッド 30 0
2002/03 ウェストハム・ユナイテッド 36 4
2003/04 チェルシー 35 1
2004/05 チェルシー

創造性溢れるパスセンス、素晴らしいボールコントロールはまぎれも無くビッグプレーヤーとなるに相応しいイングランド代表、次代のファンタジスタであり、あの名将ファーガソン監督も「10年に1人の逸材」と言わしめるほどの選手。

ウェストハム・ユナイテッドの下部組織育ちで、1998年11月、ウェスト・ハムと5年契約を結ぶと、その才能を一気に開花させ、1999年1月FAカップにてトップデビューを飾る。
このデビュー戦で、いずれスター選手となるであろう活躍を見せ、ウェスト・ハムはもとより、イングランドサッカー界の期待を背負う事となった。
やがてチームにて不動の地位を確立、安定感に欠ける時期もあったが
プレミアシップを代表するスターへの階段を着実に上り03/04シーズンより大型補強を敢行するチェルシーへ電撃移籍を果たす。
しかし、周囲の過剰過ぎる期待からか、その後パフォーマンスを落とし
成長に陰りを見せるが04/05シーズンより監督に就任したモウリーニョの元で完全復活、抜群の存在感でチームにとって50年振りとなるリーグ優勝を達成させた。

コール自身のアイドルはガスコイン、またベッカムやオーウェンなどの
スター選手も敬愛しており、そんなスターに囲まれ
2001年5月25日メキシコ戦にてフル代表デビューを果たした。
2002年ワールド杯ではメンバーに選出されながら1試合の出場に終り2004年欧州選手権では出場機会にも恵まれなかったのは残念であったが04/05シーズンの成長を見れば今後イングランドを担うプレーヤーである事は疑う余地もないであろう。

イングランドが誇る偉大な才能は、現在イングランド代表にとってもかけがえのないプレイヤーに成長した。
ジェラード、ランパード、ベッカム等と共に6月素晴らしい活躍を見せてくれるに違いない。



ミランがキエーボに圧勝

ミランはサン・シーロで行われたセリエA第33節の試合に4-1の勝利を収めた。主役はハットトリックを達成したカカ。前夜にマルペンサ空港で一部のサポーターに襲撃された“従兄弟”インテルへのサポートを表すため、試合のキックオフは10分間遅らされた。

 ジラルディーノが惜しいチャンスを逃した後、意外にも先制したのはキエーボ。前半13分、カフーに競り勝ったペリジエールがGKジーダを破った。ミランは同点ゴールを狙って押し込んでいく。セードルフの右足のシュートはフォンターナに阻まれたが、28分にはネスタが見事なゴール。カカのアシストから右足でシュートを突き刺した。

 その後両チームは間延びし、同点のままハーフタイムへ。ミランは59分にセードルフが勝ち越しゴールを狙ったがGKフォンターナが防いだ。62分には2-1のゴール。インザーギのシュートをフォンターナがはじいたところをカカがうまく押し込んだ。

 70分にはカカが自身2ゴール目。マラゴのハンドで得たPKを成功させた。試合はトーンダウンしたが、カカは引き続き3点目を狙う。76分には回転をかけたシュートがわずかにフォンターナの左に外れた。86分には右足アウトサイドでのシュートをフォンターナがセーブ。91分にはついにカカに自身3点目のゴールが生まれ、ミランがスコアを4-1とし、サン・シーロ全体が彼の活躍に沸き上がった。

 ミランは勝ち点3を加えて計73ポイント。首位ユベントスとの差は7ポイント。キエーボは勝ち点48のままで、UEFAカップ出場権を争うラツィオに抜かれてしまった。

Ashley Cole アシュリー・コール

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フルネーム アシュリー・コール
Ashley Cole
ニックネーム アッシュ
国籍 イングランド
生年月日 1980/12/20
出身地 ステップニー(ロンドン)
ポジション DF(LSB)
身長 173cm
体重 68kg
代表デビュー 2001/3/28vsALB
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1998/99 アーセナル 0 0
1999/00
(feb) アーセナル 1 0
クリスタル・パレス 14 1
2000/01 アーセナル 17 3
2001/02 アーセナル 29 2
2002/03 アーセナル 31 1
2003/04 アーセナル 32 0
2004/05 アーセナル 35 2
2005/06 アーセナル

90分間に渡り絶え間なくアップダウンを繰り返す驚異的な走力を持ち、攻撃においては高い連携意識から度々ゴールを脅かす。また守備においても体を張ったプレーで見せ場を作る事のできる世界最高峰のLSB。サイドのプレーヤーらしく空中戦は不得手だが、小柄ながらフィジカルコンタクトにも定評がある。イングランド代表レフトサイドバック。

10才の頃、ア-セナルの下部組織に加入し1999年11月30日の
イングランドリーグカップミドルスブラ戦でトップデビューを果たす。
その後1部リーグ、クリスタルパレスにて経験を積みアーセナルへ復帰、2000年5月14日ニューカッスル戦にてプレミアデビューを果たした。
その後着実に力をつけ00/01シーズン途中からレギュラ-に定着、
17試合に出場し3得点と活躍した。
01/02シーズンも超攻撃的サイドバックとして君臨し29試合に出場このシーズンのリーグ優勝、FAカップ優勝の2冠に不可欠な存在であった。
02/03シーズンにはリーグ優勝を逃すもFAカップ連覇、翌シーズンにはリーグ優勝奪還に貢献し2004年UEFAベスト11にも選出されている。

クラブでの活躍はイングランド代表指揮官エリクソンの目にもとまり
2001年3月28日アルバニア戦においてスタメンフル出場デビューを果たし、左サイドの選手不足に悩む同国の不安を一掃してみせた。
2002年ワールド杯にも全5試合に出場、ベスト8進出に大きな役割を果たした。

2005年1月にはチェルシーのピーター・ケニオンCEOとの不正な接触により罰金処分を科され、グーナーからの信頼も失いかけたが、同シーズンはアーセナルに残留。同年10月には追い討ちをかけるように疲労骨折による戦線離脱を余儀なくされ、ここまで苦しいシーズンを送っている。アーセナルとの契約は2008年6月末までとなっているが、レアル・マドリードやチェルシーといったビッグクラブが獲得を希望しているとの噂もあり、今後の動向が注目される。

Sol Campbell ソル・キャンベル

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フルネーム スルジール・ジェレマイア・キャンベル
Sulzeer Jeremiah Campbell
ニックネーム ソル
国籍 イングランド
生年月日 1974/9/18
出身地 ニューハム
ポジション DF(CB)
身長 188cm
体重 89kg
代表デビュー 1996/5/18
所属クラブ
1992-01 トッテナム・ホットスパー
2001- アーセナル

長身を駆使した空中戦には絶対の強さを誇り、高い身体能力も備える。
また、本来センターバックでプレーするが、サイドでもプレー出来る
器用さも兼ね備える。イングランド代表ディフェンダー。

92/93シーズンにトッテナムにてトップデビュー、
このシーズンこそ1試合の出場に止まったが、翌シーズンより
不動のレギュラーとして活躍、時にはフォワードでプレーする事もあったがその後センターバックとしての地位を確立し、98/99シーズンにはリーグカップ優勝に貢献した。
しかし、00/01シーズン終了後、クラブチームと喧嘩別れ、
(収入面でのトラブルと言われているが)
ライバルチームであるアーセナルへ移籍し大論争を巻き起こした。
アーセナルでも言うまでもなく、守備の要として活躍、
このシーズン、リーグ優勝、カップ戦優勝の2冠を達成したアーセナルにおいてキャンベルの存在は絶大であり、改めてその能力の高さを証明して見せた。

イングランド代表としてもユース世代から活躍し
1996年5月18日のハンガリー戦にてフル代表デビュー。
1996年欧州選手権にて初の大舞台を経験した後1998年ワールド杯欧州予選からレギュラーとしてプレー、本大会でも全4試合にフル出場を果たした。
2000年欧州選手権に臨む頃にはキャンベルは狡猾さも持ち合わせた、より優れたDFに成長していた。チームはグループリーグで敗退したが、キャンベルは終始安定したパフォーマンスを披露。特にドイツ戦では巨漢FWのカルステン・ヤンカーを完璧に抑え勝利に貢献した。
2002年ワールド杯でもファーディナンドと素晴らしいコンビを見せれば初戦スウェーデン戦では強烈なヘディングから先制弾を記録するなどの活躍を見せ、ベスト8進出に大きく貢献した。

現在はスピードとフィジカルの衰えを指摘されることもしばしあるがそれでも一旦ピッチに立てば、依然彼が世界最高のディフェンダーである事は一目瞭然である。

Kevin Keegan ケビン・キーガン

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フルネーム ジョセフ・ケビン・キーガン
Joseph Kevin Keegan
ニックネーム マイティマウス
国籍 イングランド
生年月日 1951/2/1
出身地 ドンカスター
ポジション MF(OH),FW(ST)
身長 172cm
体重 73kg
代表デビュー 1973/1/24(通算63試合,21得点)
所属クラブ
-1966 ドンカスター・ローバーズ
1966-71 スカンソープ
1971-77 リバプール
1977-80 ハンブルガーSV(ドイツ)
1980-82 サウザンプトン
1982-84 ニューカッスル・ユナイテッド
主なタイトル
1972/73 UEFAカップ優勝
1975/76 UEFAカップ優勝
1976/77 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1978年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1979年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

ボビー・チャールトン引退後のイングランドを代表するプレーヤー。旺盛なスタミナでピッチを動き回り、切れ味鋭い動き出しで多くのゴールを挙げた。ブンデスリーガで成功した数少ないイングランド人でもある。
小柄ながら、気迫溢れるプレーでファンを魅了、重心の低いドリブルから相手DFに果敢に挑み、数多くの得点を記録した70年代イングランド代表スター選手。
抜群の運動量を誇り縦横無尽に駆け回るその姿からマイティ・マウス(力強いネズミ)の愛称で愛され、更に無類の勝負強さを持ち合わせていたのも魅力の1つであった。

1952年、聖バレンタインデーの日にドンカスターのアームソープで生まれる。
地元ドンカスター・ローバーズ等のクラブを経て1966年、3部チームのスカンソープ・ユナイテッドへ加入し17才でプロデビューを果たす。
その後3シーズンを過ごし通算124試合17得点と平凡な成績を残すが当時リバプール監督であったビル・ジャンクリーはキーガンの秘められた才能にいち早く目を付け1971年にリバプールへ引き抜く事となる。
リバプールへ加入後すぐに主力として絶大な存在感を示し、在籍した6シーズンで3度のリーグ制覇、2度のUEFAカップ、そして、クラブ祈願のチャンピオンズカップ制覇を達成し70年代リバプールの黄金期を担った。
72/73シーズンのUEFAカップ決勝、対ボルシアMG戦にてホームの試合で2得点を決め、チームを3ー0と勝利に導き、優勝に貢献。
また、75/76シーズンの同大会決勝、対ブルージュ戦においても
ホームでの初戦において、逆転弾となるPKを決めチームを勝利に導くと(3ー2)迎えたアウェー戦では引き分けに持ち込む貴重な同点弾を決め、チーム2度目のUEFAカップ優勝に導いたのだった(2試合トータル4ー3)。
このシーズンのリーグ最優秀選手にも選出されている。
そして迎えた76/77チャンピオンズカップ決勝。
当時ドイツ国内3覇を果たしていたシモンセン率いるボルシアMGを破り、リバプールに初となるチャンピオンズカップをもたらしたのである。

当時ドイツ国内で無敵を誇っていたボルシアMGを破ったことにより、
キーガンはドイツ国内で注目を集め、その翌シーズンよりハンブルガーSVへ移籍。
ここでも彼は傑出したプレーを見せた。
77/78シーズンにブンデスリーガ年間最優秀選手を受賞すると
78/79シーズンには実に19シーズンぶりとなるリーグ制覇にチームを導く活躍。
この活躍が認められ78年79年と2年連続でバロンドールに輝くという名誉を受けた。
また、80年にはHSVを初のチャンピオンズカップファイナルへ導くがここでは惜しくも1ー0でノッティンガム・フォレストに破れている。
このドイツで成功したキーガンをレアル・マドリード等
多くのクラブが欲しがったが、イングランドに戻りたがっていたキーガンはサウサンプトンに移籍。
ここでは81/82ーズンに26得点を挙げ自身初となる得点王に輝いている。
その後ニューカッスルへ移籍、在籍2シーズンどちらも20得点以上をあげ最高のパフォーマンスを見せ、最高の状態のまま現役を引退した。

一方、クラブでは栄光の日々を過ごしたキーガンも、
代表では日の目を見ることが出来なかった。
1972年11月15日のウェールズ戦で代表デビューを果たして以来、63試合21得点と多くの得点を記録したが、唯一出場した1982年ワールド杯では怪我により1試合の出場にとどまっており、チームも2次リーグ敗退に終わっている。

現役引退後はニューカッスルの監督として1時代を築くと、
その後フルハムの監督を経てイングランド代表監督に就任。
代表監督として2000年欧州選手権に出場を果たす。
そして01/02シーズンよりマンチェスター・シティの監督に就任するとチームをプレミアリーグ昇格に導いた。
選手として数々の成功を手にしたキーガンは監督としてもこれから
多くの成功を収めていくことだろう。


Bobby Charlton ボビー・チャールトン

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フルネーム ロバート・チャールトン
Robert Charlton
ニックネーム ボビー
国籍 イングランド
生年月日 1937/10/11
出身地 アシントン
ポジション FW(CF),MF(OH)
身長 173cm
体重 72kg
代表デビュー 1958/4/19(通算106試合,49得点)
所属クラブ
1954-73 マンチェスター・ユナイテッド
1974-75 プレストン・ノースエンド
主なタイトル
1966年 ワールドカップ優勝
1967/68 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1966年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

卓越した得点能力とテクニックを備え、あのディ・ステファノの後継者とまで称されるファンタジーで人々を魅了した60年代イングランド代表ストライカー。
「ミュンヘンの悲劇」から生還し、マンチェスター・ユナイテッドの復活、そして黄金期に大きく貢献した事でも知られる。
大英帝国が誇るサッカーの遺伝子を最も濃く受け継いだのが、チャールトン家の弟、ボビーことロバート・チャールトンだ。母方の叔父たち、ジャック、ジミー、ジョージ、スタンは全員プロのフットボーラーであり、また母の従弟であるジャッキー・ミルバーンはイングランド代表としてもプレーした。それだけではない。ボビーの兄、ジャッキー・チャールトンもイングランド代表としてプレーし世界的な名選手となった。そんな華麗なフットボール一族の中でもひときわ輝いているのがボビーなのだ。

イングランドの北東部にある小さな町アシントンに生まれ母親はニューカッスルの伝説的スターとして君臨したジャッキー・ミルバーンの姉。
素晴らしい血統を持つ彼は、このミルバーンに憧れ2才年上の兄ジャッキーと共に幼年時代よりサッカーを始める。15才の頃、約20ものクラブから誘いを受け1954年10月4日にマンチェスター・ユナイテッドの一員となるとその2日後、チャールトン・アスレティック戦にてデビューを果たす。
当時チームにはトップ・テイラーという絶対的なストライカーがいたため多くの出場機会は与えられなかったが、彼が怪我から戦列を離れたのきっかけにチャンスをものにすると1957年のリーグ連覇に大きく貢献する。
そんな中、1958年2月6日に悲劇は起こる・・このシーズンのチャンピオンズ・カップにて敵地でレッドスターを敗り帰国途中、給油で立ち寄ったミュンヘンにて飛行機は離陸に失敗し炎上、犠牲者22人の中にはチームの主力8人も含まれていた。彼もまた重傷を負うが、当時の指揮官マッド・バスビーと共に奇跡的に命はとりとめ、やがてこの2人によってチームは再建される事になる。
チームの象徴的存在として君臨し事故から5年の歳月を経た頃には
デニス・ロー、ジョージ・ベストといったスーパースターを擁し最強のチームを形成、1963年FAカップにて優勝を遂げ久々のタイトルを獲得すると64/65、66/67シーズンリーグ優勝、そして、あの事故から10年後となる67/68シーズンには祈願であったチャンピオンズ・カップのタイトルをクラブにもたらしヨーロッパ制覇の夢を達成して見せた。
1973年、ブレストン・ノースエンドにてプレーイングマネージャーとして迎えられ1年間プレーした後現役生活に別れを告げた。

1958年4月19日スコットランド戦、ゴールを挙げる華々しい代表デビューを果たすが当時代表監督であったウィンター・ボトムは2ヶ月後に控えたワールド杯メンバーから外す。その後レギュラーに定着し
1962年大会には全4試合に出場1得点でベスト8に貢献、1966年大会では全6試合に出場し3得点を挙げ優勝に大きく貢献した事から、この年の欧州最優秀選手(バロンドール)にも選出された。
イングランド史上最も成功した伝説的プレーヤーであり、彼の武器でもあった左足から繰り出す強烈な「キャノンシュート」は今尚真似出来たプレーヤーは存在しないといわれている。

1968年にヨーロッパの頂点に立った。レフティの彼は決勝のベンフィカ戦で2点を挙げたがなんと、頭と、右足で挙げたゴールだった。彼には珍しいゴールだが、きっと人生の中でも最高のゴールだっただろう。



欧州CL、ACミランが4強入り

チャンピオンズリーグ(以下CL)は現地時間4日、準々決勝セカンドレグの2試合が行なわれ、ミラン(イタリア)がインザーギの活躍で3対1とリヨン(フランス)を下して準決勝へ駒を進めた。

敗退の危機に陥ったミランをインザーギが救った。初戦を0対0で終えて、ミランのホームで行なわれたセカンドレグ、まずは25分にクロスに頭で合わせて先制点を記録する。しかし、その直後の31分、チームはリヨンのディアッラにゴールを許して1対1の同点に追い付かれる。そのまま時間が過ぎ、アウェイゴールルールでの敗退が濃厚となり始めた88分、再びインザーギがゴールネットを揺らす。シェフチェンコのシュートが左右両ポストに当たってゴール前に転がったところを蹴り込み、歓喜を呼ぶ勝ち越し点を挙げた。これで集中の切れたリヨンに対し、ミランはロスタイムにシェフチェンコのゴールを追加して、最終的には3対1。昨季決勝で敗れた屈辱を晴らすべく、ベスト4進出を決めた。
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先制ゴールを決めたACミランのインザーギ

「心で勝ち取った勝利」

リヨンを3-1で下した試合で、フィリッポ・インザーギは2ゴールを記録した。準々決勝第2戦の文句なしの主役となったのは彼だった。

タイムアップの笛を迎えた後、インザーギは次のように語った。
「みんな喜んでいる。準決勝に進むことができてうれしい。リヨンは素晴らしいチームだということを証明した。心で勝ち取った勝利だ。内容が悪かった? いや、チャンスは何度も作ることができた」

さらに彼は続けた。
「準決勝に進めるのはいいことだ。ミスが多かったって? 相手のマークが良かったし、時間が経つごとにボールが重くなっていった。終了間際に混戦の中からボールを押し込めたのは良かった。このゴールは明日誕生日の弟にささげたい」

Duncan Edwards ダンカン・エドワーズ

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フルネーム ダンカン・エドワーズ
Duncan Edwards
ニックネーム ブームブーム
国籍 イングランド
生年月日 1936/10/1 - 1958/2/21
出身地 ダッドリー(ウースターシャー)
ポジション MF(DH),DF(LSB)
身長 185cm
体重 82kg
代表デビュー 1955/4/2vsSCO(通算18試合,5得点)
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1952/53 マンチェスター・ユナイテッド 1 0
1953/54 マンチェスター・ユナイテッド 24 0
1954/55 マンチェスター・ユナイテッド 33 6
1955/56 マンチェスター・ユナイテッド 32 3
1956/57 マンチェスター・ユナイテッド 34 5
1957/58 マンチェスター・ユナイテッド 26 6
獲得タイトル
マンチェスター・ユナイテッド
1955/56 イングランドリーグ優勝
1956/57 イングランドリーグ優勝
1957 イングランドスーパーカップ優勝

50年代、名将マッド・バスビーが率いた「バスビー・ベイブス」の象徴的存在。パワー、テクニック、戦術眼、その若さから想像すら出来ないプレーで観客を魅了し当時将来を最も嘱望されたスタープレーヤーであったが「ミュンヘンの悲劇」によって弱冠21才で命を落とした。

第2次世界大戦後、低迷するマンチェスター・Uを率いた名将マッド・バスビーは、クラブを欧州トップクラスのチームにするため若手の育成に力を入れた。
そんな中でも傑出した存在であったエドワーズは16才でトップデビューを果たすとその後クラブのキャプテンとして活躍、55/56シーズンからの2連覇を達成し1955年4月2日スコットランド戦では18才と183日の20世紀イングランド最年少代表デビュー記録を樹立する。

ユナイテッドはマット・バスビー監督に率いられた非常に若いチームだったが、エドワーズはピッチの監督としてチームを指揮し、1955/56、1956/57シーズンと2シーズン連続でリーグ優勝を飾った。
イングランド代表としてはリーグ連覇を果たす以前、1955年4月のスコットランド戦でデビューを飾り、スタンリー・マシューズ、トム・フィニーらと共に伝説のチームを創り上げた。また守備的なポジションだったにも関わらず18試合で5得点を記録しており、オフェンスにおいても非凡なセンスを持っていたことが伺える。

今後華々しいキャリアを積んで行くであろうと思われた矢先の1958年2月6日、UEFAチャンピオンズカップ準々決勝でレッドスター・ベオグラードを下したユナイテッドの一団は、飛行機の給油のためミュンヘンへと立ち寄った。
彼らを乗せた英国欧州航空のエリザベス号が飛び立とうとした瞬間、悲劇は起こった。離陸に失敗したエリザベス号は猛火に包まれ、選手、スタッフ、ジャーナリスト、合わせて23人もの犠牲者を出した。その中の1人は事故の後、2週間もの間、奇跡的に病院のベットで生き続けるが、1958年2月21日に亡くなった。
その青年は死の寸前まで次の試合の事をうわごとで呟いていたという。その青年こそ、リーダーシップと責任感の塊、ダンカン・エドワーズに他ならない。

その10年後、あの事故で奇跡的に生き残ったバスビー監督やボビー・チャールトン等によって初のチャンピオンズ・カップをクラブにもたらし大きな感動を呼んだのはあまりにも有名な話である。
もしエドワーズが存命であったならば、今以上の名声は言うまでもなく
18キャップに止まった代表出場記録も100キャップ以上に達していた事だろう。

1998年にマイケル・オーウェンに記録を塗り替えられるまで40年以上もの間イングランド代表の史上最年少デビュー記録を保持しており、もし存命なら1966年のワールドカップで最初にトロフィーを掲げただろうと信じられている。あのボビー・チャールトンでさえエドワーズの前では未熟なプレーヤーに過ぎず、頑丈な体とテクニックを非常に高いレベルで併せ持ち、リーダーシップまで備えた完璧なフットボーラーだった。





Alan Shearer アラン・シアラー

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フルネーム アラン・シアラー
Alan Shearer
ニックネーム メリーポピンズ
国籍 イングランド
生年月日 1970/8/13
出身地 ゴルフォース(ニューカッスル)
ポジション FW(CF)
身長 183cm
体重 76kg
代表デビュー 1992/2/19vsFRA(通算63試合,30得点)
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1987/88 サウザンプトン 5 3
1988/89 サウザンプトン 10 0
1989/90 サウザンプトン 26 3
1990/91 サウザンプトン 36 4
1991/92 サウザンプトン 41 13
1992/93 ブラックバーン・ローバーズ 21 16
1993/94 ブラックバーン・ローバーズ 40 31
1994/95 ブラックバーン・ローバーズ 42 34
1995/96 ブラックバーン・ローバーズ 35 31
1996/97 ニューカッスル・ユナイテッド 31 25
1997/98 ニューカッスル・ユナイテッド 17 2
1998/99 ニューカッスル・ユナイテッド 30 14
1999/00 ニューカッスル・ユナイテッド 37 23
2000/01 ニューカッスル・ユナイテッド 19 5
2001/02 ニューカッスル・ユナイテッド 37 23
2002/03 ニューカッスル・ユナイテッド 35 17
2003/04 ニューカッスル・ユナイテッド 37 22
獲得タイトル
イングランド代表
1996 欧州選手権得点王
ブラックバーン・ローバーズ
1994/95 イングランドリーグ優勝
1994/95 イングランドリーグ得点王
1995/96 イングランドリーグ得点王
ニューカッスル・ユナイテッド
1996/97 イングランドリーグ得点王
個人タイトル
1995 イングランド年間最優秀選手(PFA選出)
1997 イングランド年間最優秀選手(PFA選出)
2002 プレミアリーグ創設10周年記念国内最優秀選手

抜群の得点感覚、両足から放たれる強烈なシュート力、思いきりの良いヘディング、ストライカーとして必要な要素をすべて兼ね備え、94/95シーズンから3シーズン連続のプレミア得点王、90年代のイングランド代表の絶対的存在でもあった。
代表から退いた今尚、絶大なる存在感と決定力で魅了するスーパースターである。

15才でサウサンプトンのユースチームに加入し、17才の時アーセナル戦でトップデビュー、いきなりハットトリックを達成する。
ここで過ごしたシーズンでの活躍は注目を集めるようになり、やがてプレミア最大のクラブ、マンチェスターUからの熱心なオファーが来るが、それを断り、プレミア昇格したての未知のクラブ、ブラックバーンへ移籍する。
人々はその愚かな行為を噂したが、94/95シーズンには34得点を記録してチームをリーグ優勝に導き、その選択が間違いではなかった事を証明する。
日々を追って、その名前は世界中に響き渡るようになり、イタリア名門ユベントス、さらに再びマンチェスターUなどのクラブからの誘いを受けるが、自らの夢でもあった故郷のチーム、ニューカッスルへ移籍、栄光の背番号9に袖を通したシアラーは、不動のエースとして長年に渡って活躍し2002年4月20日チャ-ルトン戦にてプレミアシップ200ゴールを達成している。
02/03シーズンには32才という年齢を感じさせないパフォーマンスを見せ通算17得点を記録、チームをリーグ3位に導いき、チャンピオンズ・リーグでも抜群のパフォーマンスを見せて、衰えを見せる事はまったくない。
2003年にプレミアシップ10周年を記念したファン投票の10周年国内最優秀選手、FAプレミア特別功労賞、10周年ベスト11と3部門にて選出されている。

代表デビューは1992年2月19日フランス戦。
1996年の欧州選手権では5得点を記録し得点王を獲得、1998年ワールドカップではキャプテンも務めたが、2000年欧州選手権を
最後に代表からの引退を表明、まだ29才と言う若さでもあった。
このまま代表を続けたならば、間違い無くボビー・チャ-ルトンにも並ぶ代表得点記録(49得点)も塗り替えていた事だろうが、
「後進に道を譲る」の言葉通り、イングランドの若き選手達の台頭を
最も喜んでいるのもまた、シアラーであるのかもしれない・・。
代表通算63試合30得点。

イングランドの古き良きスタイルを受け継ぐサッカーの母国の誇り。技術的な凄みを感じさせるプレーヤーではないが、ポジショニングの巧さと鋼のような精神力でゴールを量産する。紳士的な人物として知られ、激しくも決して荒れることは無く、カードを貰うことは非常に稀。尊敬すべき存在である。
残念ながら今シーズン限りでの現役引退を表明している。


Paul Gascoigne ポール・ガスコイン

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フルネーム ポール・ジョン・ガスコイン
Paul John Gascoigne
ニックネーム ガッザ
国籍 イングランド
生年月日 1965/5/27
出身地 ゲイツヘッド
ポジション MF(OH)
身長 178cm
体重 74kg
代表デビュー 1989/6/7(通算57試合,10得点)
所属クラブ
1976-88 ニューカッスル・ユナイテッド
1988-92 トッテナム・ホットスパー
1992-95 ラツィオ(イタリア)
1995-98 レンジャーズ(スコットランド)
1998-00 ミドルスブラ
2000-02 エバートン
2002-03 甘粛天馬(中国)
2003 アル・ジャジーラ(UAE)
2003 ウルバーハンプトン・ワンダラーズ

サッカー選手として理想的な体型とはいえない。だがガスコインは理想的なMFであり、ピッチの上ではこの上なく頼りになる。正確なパスを始め、技巧的なドリブル、強烈なシュートはチームにとって大きな武器となる。
アルコールによって選手生命を狂わせてしまったが人々の心に強烈な記憶を残した元イングランドのスタープレーヤーである。愛称「ガッザ」。

ニューカッスル、ゲイツヘッドに生まれ1980年に地元名門ニューカッスルのユースチームへ入団、ここで育成された後17才でプロ契約を果たし1985年4月13日QPR戦にてリーグデビューを飾る。
翌シーズンよりチームの中心的存在となり、リーグ、カップ戦合わせ
通算107試合25得点の活躍を見せると、87/88シーズンには
PFA(プロサッカー選手協会)主催の若手最優秀賞にも選出された。
マンチェスター・U等各クラブが獲得に動き、テリー・ヴェナブルズの
熱烈なラブコールを受け、当時移籍金としては破格の200万ポンドで
トッテナムへ引き抜かれる。ここでもリネカーとの素晴らしいコンビで
ファンを魅了し90/91シーズンにはFAカップ優勝のタイトルに大きく貢献した。しかし、この大会の決勝戦において右膝靱帯損傷という大怪我を負い約1年間をリハビリに費やす事となる。怪我の癒えた後
クラブの経営難によりイタリアへ移籍するも、ここでは怪我の影響も重なり思うようなプレーは出来なかったが、その後加入したレンジャーズにて移籍初年度から14得点とゴールを量産、リーグ優勝に加え、自身もリーグ最優秀選手に選出されている。翌年にはリーグ、国内カップの
2冠達成に貢献し完全復活を印象付けたが、この頃からアルコールによる悪影響がプレーにも災いするようになる。
97/98シーズン途中、3月に母国へ復帰するも全盛期のプレーは
影を潜め、現役にこだわり移籍した中国リーグではわずか4試合に出場し退団、アルコール依存症克服のため渡米した後、イングランド4部リーグのボストン・U選手兼監督となったが半年も経たず退団している。

代表としてはトッテナムに移籍して間もない1988年9月14日
デンマーク戦にてデビューを果たし通算57試合10得点を記録している。
1990年W杯ではレギュラ-として活躍したが、準決勝西ドイツ戦、
延長戦にまで及ぶ激闘中、自身にとっては痛恨の警告を受けてしまう。
この警告により、たとえチームが決勝へ進めても累積警告で決勝の舞台に立てない事を悟り、人目もはばからず大泣きした姿は、見てる者の胸をうった。
結果的にPK戦の末チームは敗退したが、この大会で、その名は世界的に知られる事となったのである。
1994年W杯は欧州予選で敗れ、1998年W杯はアルコールの影響からメンバーから外され、彼にとってのW杯はこの1990年大会のみであった。
それでも1996年欧州選手権グループリーグスコットランド戦では
後世まで語られるであろうスーパーゴールを披露している。

ピッチ内外で問題児的存在でもあり、キャリアの終盤はアルコールに苦しみけしてキャリアを通して大成功を収めたとは言いがたい・・
しかし、今尚、彼を愛するファンを数多く、自身の言葉でもある
「楽しむ事を忘れるな」通りのプレーは人々の記憶に深く刻まれているのである。

David Beckham デイビッド・ベッカム

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フルネーム デイビッド・ロバート・ジョセフ・ベッカム
David Robert Joseph Beckham
ニックネーム ベックス
国籍 イングランド
生年月日 1975/5/2
出身地 レイトンストーン
ポジション MF(RSH,CH)
身長 180cm
体重 75kg
代表デビュー 1996/9/1
所属クラブ
1991-94 マンチェスター・ユナイテッド
1994-95 プレストン・ノースエンド
1995-03 マンチェスター・ユナイテッド
2003- レアル・マドリード(スペイン)
主なタイトル
1998/99 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1999年 インターコンチネンタルカップ優勝

90年代最強を誇ったマンチェスター・ユナイテッドの代名詞的存在として活躍。強烈、そして正確なFKと右サイドからのシュート性のクロスは世界最高と称するに相応しい技術を擁すイングランド代表キャプテン、誰もが認めるスタープレーヤー。

14才でマンチェスター・Uと契約、92年にはスコールズ、G・ネビル等と共にFAユースカップ優勝に貢献、94/95シーズンにトップ昇格を果たす。
一時期プレストン・ノースエンドへレンタル移籍をするが、95/96シーズンにチームに復帰すると同時に優勝に貢献、以後現在に至まで、リーグ3連覇や98/99シーズンのトレブル(3冠=リーグ、FAカップ、チャンピオンズリーグ)獲得の原動力となり、イングランド最高のスタープレーヤーとなる。
プライベートでも、ささいなニュースがトップを飾るほどの人気とカリスマ性をも備え、デニス・ローやジョ-ジ・ベスト等、当時のマンチェスターの英雄達ですら、今のベッカム人気には及ばないと考えられる。
02/03シーズン終了後、世界有数のタレントが揃うレアルへ電撃移籍、これだけのスターを手放したマンチェスター・Uの将来が懸念される所なのだが・・。 

1996年9月1日モルドバ戦にて代表デビュー後すぐに代表に定着する。
1998年フランスワールド杯、決勝トーナメント1回戦アルゼンチン戦にてシメオネの挑発に乗ってしまい1発退場、チーム敗退のA級戦犯とされ不本意な経験をするも、その後のクラブでの経験を活かし心身面に大きく成長、2002年ワールド杯欧州予選最終ギリシャ戦では後半終了間際に得意のFKから貴重な同点弾を決め母国を救って見せた。
本大会前に足に重傷を負い、出場が危ぶまれたが奇跡的に復活、
迎えた本大会予選グループでは再びアルゼンチンと戦い、自ら志願して
PKを決め勝利に貢献、1998年のリベンジに成功している。
イングランドの象徴とも言えるその存在は現在も揺るぐ事はなく、今後しばらくはサッカー界主役の1人として君臨するであろう。
 





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