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Stanley Matthews スタンレー・マシューズ

sirstan.jpg

フルネーム スタンレー・マシューズ
Stanley Matthews
ニックネーム ドリブルの魔術師
国籍 イングランド
生年月日 1915/2/1 - 2000/2/23
出身地 ヘンリー
ポジション FW(WG)
身長 174cm
体重 71kg
代表デビュー 1934/9/29(通算54試合,11得点)
所属クラブ
1930-47 ストーク・シティ
1947-61 ブラックプール
1961-65 ストーク・シティ
主なタイトル
1956年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

1956年、あのバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)が
フランス・フットボール誌によって創りだされた。
その初代受賞者となったのがこのスタンリー・マシューズである。
右サイドのスペシャリストであり、卓越されたボールコントロールと
素晴らしい加速から織り成されるドリブルから「ドリブルの魔術師」の異名を持つ。
彼が生み出した、左足の素早いステップで相手の注意を奪いその瞬間に
右足で一瞬にして抜き去るボールテクニックは「マシューズ・トリック」と呼ばれ、後にこれをもとに多くのフェイントテクニックが生まれることとなった。

1915年2月1日、プロボクサーの息子としてマシューズは生まれる。
彼の父親、ジャック・マシューズはフェザー級のボクサーをしながら
床屋も経営していたことから「戦う床屋」と呼ばれており、
幼いマシューズは土曜の朝に父親の床屋の床掃きを手伝うとわずかなお金を貰い、そのお金で後にマシューズが所属するストーク・シティのライバル、ポート・ヴェイルの試合に足を運ぶのを日課としていた。
14歳の時、週給1ポンドでストーク・シティのグラウンドスタッフとして働き始めたのをきっかけに、15歳で選手としてストーク・シティへ加入。
17歳の誕生日にプロ契約を結ぶと同年3月19日にはトップデビューを飾る。
デビュー後マシューズはそのドリブルの才能をいかんなく発揮し、ストーク・シティでレギュラーを確保すると1934年9月29日にはウェールズ戦で代表デビューも果たした。

マシューズがトップデビューを果たしてから7年後の1939年、第2次世界大戦の影響によりイングランドのプロリーグ中止が決定する。
これによりマシューズはキャリアの全盛期といえる24歳から31歳までの間、非公式の試合への出場を余儀なくされた。
戦時中は24試合に出場、代表戦でも4勝を記録した。

7年ぶりにリーグ戦が再開された46/47シーズンの翌年、ストーク・シティのファンの間に激震が走った。
なんとクラブが既にストーク・シティのシンボルとなっていたマシューズをブラックプールに1万1500ポンドで譲ってしまったのだ。
マシューズはすぐにこの値段が破格である事を証明してみせる。
ブラックプールはその後6シーズンでそれまで一度も成し遂げられなかったFAカップの決勝進出をなんと3度も果たすことになる。
最初2回は敗れてしまうが3度目の挑戦でクラブ初となるタイトルを獲得。
FAカップ初制覇となった1953年5月3日のボルトンとの決勝戦は
FAカップ史上最も素晴らしい試合の1つとして歴史に刻まれている。
この試合、ブラックプールは後半55分の段階で3ー1とリードされていた。
しかしロスタイム直前の89分、ブラックプールFWスタン・モルテンセンが
ハットトリックとなる3点目を決め同点に追いつくと、迎えたロスタイムの92分、右サイドを駆け上がったマシューズからのクロスをペリーが決めブラックプールは4ー3で劇的な逆転勝利を飾った。この試合で終始素晴らしいパフォーマンスを見せたマシューズの活躍に人々は敬意を表し、この試合を『The Matthews Final』と称して今でも語り継いでいる。
このときマシューズは38歳。ブラックプールでは1948年(33歳)に英国年間最優秀選手賞の初代受賞者になると、1956年(41歳)にはバロンドール初代受賞者に、そして翌年1957年にはOBE(大英帝国勲章)を受賞している。

14シーズンをブラックプールで過ごした1961年10月、マシューズが3500ポンドで再びストーク・シティに戻ることが決定した。
当時ストーク・シティはマシューズがいた14年前の活気は無くクラブは3部落ち目前の19位。
ところがマシューズの帰還が決定するとその活気は再び戻ることとなる。
彼が戻る直前のある試合の観客動員数は8409人。
しかしマシューズが戻ってきてからわずか2週間後には観客動員数は35288人を記録していたのである。
クラブもそのシーズンを最終的に8位で終えると1年後にはリーグ優勝を決め1部昇格を決めたのだった。
この年、マシューズは48歳にもかかわらず42試合中35試合に出場と驚くべき記録を残し、同年1963年に2度目となる英国年間最優秀選手賞を受賞。
そして1965年1月には英国女王エリザベス2世により、サッカー選手として、そして現役選手として初のナイトの称号を授かっている。

彼のキャリアの最終戦は1965年2月6日のフルハム戦。
この試合でマシューズは50歳と5日というトップリーグ最年長選手の出場記録を樹立し現役から退いた。
リーグ通算出場記録710試合ストーク・シティ通算記録(カップ戦含む)355試合62得点代表通算記録54試合11得点、イングランド代表歴代最年長勝利記録 ・・・42歳と103日

引退後はポート・ヴェイル、ハイバーニアンの監督を歴任すると共に
アフリカ、マルタ、カナダ等世界中でサッカーの指導に従事。
1989年にはストーク・シティの会長に就任している。
最後の最後までサッカーと共に生きたマシューズは2000年2月23日、85歳でこの世を去った。

マシューズの選手としての経歴は決して栄光に溢れていたわけではない。
しかしマシューズほど多くの人々に愛され、これほど評価され、
そしてマシューズほどサッカーに生涯を捧げた選手もいないだろう。
「サー・スタンリー・マシューズ」 サッカーの母国、イングランドで生まれた彼こそまさに真の伝説のプレイヤーと言えるかもしれない。

1956年に始まったバロンドールの初受賞者。そもそも同賞自体がマシューズに受賞させるために始まったと言われており、彼がバロンドールを獲得したのは41歳の時だった。1930年にキャリアをスタートし、1965年に50歳の高齢で引退するまで一度のファールも犯さなかった。サッカー史上最高のジェントルマンといえる。
皆はマシューズを褒め称えたが、マシューズが一番嫌ったのは甘い言葉と過度の賞賛だった。それを示すように、こんなマシューズの名言が残っている。
「誰かが私を誉めだすと逃げ出したくなる。チームには私の他に10人もの選手がおり、彼らなしにプレーすることは不可能なんだから」
1965年に現役を引退。その僅か3週間後にエリザベス女王からサーの称号を授与される。それはさながら戴冠式。その時、エリザベス女王はこう言ったという。「Mr.スタン、あなたは伝説ですね」
誰もがマシューズに憧れ、マシューズを愛した。彼女もまた、マシューズを愛していた。
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