Contents

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Comments

Post a Comment
管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

トラックバックURLはこちら
http://ykrr12.blog49.fc2.com/tb.php/21-7c8cfd25

Frank Rijkaard フランク・ライカールト

frank.jpg

フルネーム フランクリン・ライカールト
Franklin Rijkaard
ニックネーム フランク
国籍 オランダ
生年月日 1962/9/30
出身地 アムステルダム
ポジション DF(CB),MF(DH,CH)
身長 190cm
体重 80kg
代表デビュー 1981/9/1(通算73試合,10得点)
所属クラブ
1980-88 アヤックス
1988 レアル・サラゴサ(スペイン)
1988-93 ミラン(イタリア)
1993-95 アヤックス
主なタイトル
1988年 欧州選手権優勝
1988/89 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1989年 インターコンチネンタルカップ優勝
1989/90 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1990年 インターコンチネンタルカップ優勝
1993/94 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1994/95 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
88年から90年初頭にかけてグランデミランと呼ばれたACミラン黄金期を支えたオランダトリオの1人であり、クライフ以来のオランダのカリスマプレーヤー。
オランダトリオでは、ファンバステン、グーリットと比べて地味な印象は残るがその高い守備力からボールを奪うと確実に前線につなぎ攻撃の起点として活躍。ライカールトが奪ったボールはグーリットを経由しファンバステンに繋がり、多くのゴールを生み出したのである。
クライフ率いるアヤックスでキャリアをスタートさせたライカールトは
デビュー戦となった1980年8月23日、対ゴー・アヘッド・イーグルス戦にて若干17歳ながらゴールを決め鮮烈デビューを果たす。
すぐにレギュラーに定着をすると翌年には自身初のリーグ制覇に貢献し、同シーズン、1981年9月1日スイス戦では代表デビューを果たしている。
アヤックスで育ち、屈強なCBとして名を馳る。アヤックス在籍8シーズンで3度のリーグ制覇と2度の国内カップ、1度のカップウィナーズカップを獲得したライカールトは欧州選手権を控えた87/88シーズンには、ポルトガルのS・リスボン、スペインのレアルサラゴサ等が獲得に動くなど既に欧州の注目を集めるほどの成長を遂げていた。
そしてサラゴサにレンタル移籍を果たしたライカールトはシーズン終了後、ドイツで開かれた欧州選手権に挑み、見事優勝を果たしたのである。
決勝のソ連戦ではライカールトはブロヒンのパートナー、プロタソフを
完璧に封じ込め、2-0の完封勝利に貢献したのだった。
欧州選手権優勝はライカールトに転機をもたらし、
88/89シーズンよりサッキ率いるミランへの移籍が決まったのである。ミランに移籍後はCHとして活躍、そこでライカールトは1シーズン早く移籍を果たしていたマルコ・ファン・バステン、ルート・グーリットと共にオランダトリオの一角を担う。ミランでは3度の欧州チャンピオン、2度の世界チャンピオンに輝き、黄金期を築き上げる。あの時のミランこそ歴代世界最強と言う専門家もいる程だ。
守備力と言う最後の1ピースをそろえたミランはその年からチャンピオンズカップ、欧州スーパーカップ、トヨタカップのトリプルを2年連続獲得。ライカールトは90年チャンピオンズカップ決勝対ベンフィカ戦の決勝点(1-0)、同年トヨタカップ対オリンピア戦での先制点と駄目押し点(3-0)と重要な場面で貴重なゴールを決め、トヨタカップでは大会最優秀選手に輝いた。
その後の国際大会では1990年ワールドカップでベスト16、
1994年ワールドカップではベスト8に進出。1990年大会では欧州選手権での雪辱に燃えるドイツとの試合において退場劇を演じることとなる。
この試合、激しいマッチアップを繰り広げていたドイツのルディ・フェラーとライカールトは徐々にヒートアップ。両者イエローカード1枚ずつ受けた状態での前半22分、フェラーのオランダのゴールキーパー、ファンブロイケレンへの突進を契機に争いは強まり、両者2枚目のイエローカードを受け退場となったのである。
そしてこのレッドカード直後、ライカールトがフェラーに唾を吐きかけた映像が世界に放送される事になってしまう。
この退場により、攻守の要を失ったオランダはドイツに敗退。
試合後のインタビューでライカールトはフェラーの度重なる黒人差別発言に我を失ったと告白している。
その後ライカールトはチームとフェラーに謝罪、事態は沈静化した。
代表通算73試合10得点

晩年、ライカールトは1993年チャンピオンズカップ決勝でマルセイユに負けたのを受けて93/94シーズンより古巣アヤックスに復帰。ファン・ハール監督の下、若いチームに自分の経験を伝え、精神的支柱として、重要な中盤のキーマンとして自分を育ててくれたチームに従事した。リーグ2連覇に貢献すると1995年にはチャンピオンズカップ決勝にて古巣ミランと対戦。
決勝点となったクライファートのゴールをアシストし古巣を破り、チャンピオンズカップ優勝を決めるとこの試合を最後に現役を引退した。選手生活最後の4シーズンは、いずれもリーグ制覇を成しており、ライカールトの影響力がうかがえる。

現役引退後はヒディング監督に代わり、オランダ代表監督としてユーロ2000に出場。準決勝のイタリア戦にてPKの末敗れると引責辞任。
その後、オランダのスパルタの監督を経て03/04シーズンよりバルセロナの監督に就任。低迷するチームの復活に務める。

ディフェンシブなポジションゆえ地味な印象は拭えず、バロンドールなどでは常にファンバステン、フリットの後塵を拝していたがその攻守においての幅広い活躍は常にチームの要であり、決して代えのきく選手ではなかった。高い位置でのボール奪取を得意とし、確実に味方に繋ぐ。空中戦でも頼りになり戦術眼にも優れ、更には得点にも絡む。オールラウンダーとはライカールトのためにある様な言葉だ。
オランダ女王ベアトリクスからメダルを授与されたこともある。





0204.jpg

スポンサーサイト

Comments

Post a Comment
管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

トラックバックURLはこちら
http://ykrr12.blog49.fc2.com/tb.php/21-7c8cfd25

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。