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George Weah ジョージ・ウェア

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フルネーム ジョージ・マネー・オポング・オスマン・ウェア
George Manneh Oppong Ousman Weah
ニックネーム リベリアの怪人
国籍 リベリア
生年月日 1966/10/1
出身地 モンロビア
ポジション FW(CF)
身長 185cm
体重 82kg
代表デビュー 1986/2/23
所属クラブ
1981-83 ヤング・サバイアーズ
1983 ボンラン・カンパニー
1984 マイティ・バロール
1985-87 インビシンブル・イレブン
1987-88 トネール・ヤウンデ(カメルーン)
1988-92 モナコ(フランス)
1992-95 パリ・サンジェルマン(フランス)
1995-00 ミラン(イタリア)
2000 チェルシー(イングランド)
2000 マンチェスター・シティ(イングランド)
2000-01 マルセイユ(フランス)
2001-03 アル・ジャジーラ(UAE)
主なタイトル
1989年 アフリカ年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1994年 アフリカ年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1995年 アフリカ年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1995年 アフリカ年間最優秀選手(CAF)
1995年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1995年 世界年間最優秀選手(FIFA
「リベリアの怪人」の異名をもつ、アフリカの生んだ史上最高のストライカー。将来の大統領候補と目されるリベリアの英雄。驚異的なフィジカルを持ち、時に不可能とさえ思われるプレーもやってのける。オールラウンドな能力はDFやGKでさえこなしてしまう。
高い身体能力を生かした突破力、空中戦の強さ、さらに独特のリズムの
ドリブルを生かしアイデアに富んだチャンスメイクは見る者を釘付けにし、1995年にはアフリカ人として初のバロンドールを受賞、1998年には、ベッケンバウアーはヨーロッパの、ペレは南米の、そしてこのウェアはアフリカの、世界中のスポーツジャーナリストが選ぶ20世紀最優秀選手に選出されている。

本名ジョージ・マネー・オポン・オスマン・ウェアは、モンロヴィア郊外のシャンティタウンにて14人兄弟の3番目として生まれる。
幼い時に父親を失い、祖母に育てられた彼の最初の夢はモンロヴィアの
テレフォンオペレーターになることであったという。
15歳の時に当時3部リーグ所属の地元のクラブ、ヤング・サバイバーズと契約するとGKとしてキャリアをスタート。
すぐに得点をする事へ楽しさを覚え、フォワードへ転向し、
30試合に出場し31得点を記録。チームを2部リーグに押し上げたのだった。
その後1部リーグのクラブを経て、1986年にはリベリアで最高のチームであったインビンシブル・イレブンへ移籍をする。
このクラブではキャプテンを務め得点王にもなる活躍を見せると
この活躍がカメルーンのスカウトの目にとまり1987年に国外デビューを果たす。
1シーズンカメルーンで過ごしたウェアはその後フランスのモナコへ移籍。フランスの地でそのポテンシャルを開花させたウェアは91年にフランスカップをもたらすと翌年にはチームを欧州カップウィナーズカップの決勝に導いた。
その後移籍したパリSGでもチームをリーグ優勝に導くと1995年には再びフランスカップをチームにもたらしたのであった。
こうしてフランスで数々の成功を収めたウェアは1995年にアフリカ人として初のバロンドールを受賞し、同年にFIFA選出の世界年間最優秀選手賞も受賞。
最後に自身3度目(89年、94年、95年)となるアフリカ年間最優秀選手賞とこの年の個人タイトルを総なめにしたのであった。

95/96シーズンよりイタリアの名門ACミランへ移籍をしたウェアはここでも2度のリーグ制覇に貢献。
移籍初年度から3シーズン連続クラブの得点王となり
ミラニスタたちに色濃く残るファンバステンの残像を打ち消したのであった。
中でも1996年9月8日ヴェローナ戦で見せた自陣ペナルティエリア付近から相手ペナルティエリア内までドリブルによって駆け上がり記録したゴールは今尚多くのファンに語られる所である。
また、1996年にはFIFAフェアプレイ賞を受賞している。
しかし膝の怪我も重なりかつての輝きに陰りが見え始めると99/00シーズン途中にチェルシーにレンタル移籍。
イングランドではFAカップ獲得に貢献するもその後ミランは契約更新をせず、週給2万5千ポンドでマンチェスター・Cへ。
その後マルセイユを経て、UAEのアル・ジャジーラにてプレー。

代表デビューは1986年2月23日ブルキナ・ファソ戦。
リベリア代表としての実績は、サッカーが盛んではない事もあって
ほとんどないが、そのキャリアを通じて母国代表への援助を怠る事は無かった。
1995年には代表がFIFAに毎年支払う5000ドルを肩代わりし、その他にも代表のユニフォームや遠征時の飛行機のチケットの購入、コーチや監督への給料支払いと母国のサッカーの発展に常に尽力してきたのである。
代表通算記録65試合10得点。

ウェアの祖国への貢献はサッカーに留まらず、内戦に傷ついた人や施設への援助のためにジョージ・ウェア基金を設立。
リベリアのユニセフ親善大使をも務めるウェアは名実共にリベリアの英雄なのである。アフリカの弱小国でしかなかったリベリアだが、20年の歳月を経て、リベリアはアフリカでもトップレベルのチームに成長していた。それはウェアの存在なくしてあり得なかったことだろう。
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