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Roberto Baggio ロベルト・バッジョ

20040507_img.jpg

Roberto Baggio



サッカー選手

1967年2月18日生(18時15分)

174cm73kg

イタリア・ベネト州カルドーニョ・マルコニー通り3番地生まれ

好きな色:緑

好きな動物:アヒル

好きな食べ物:ポモドーロのパスタ、ピザ

好きな国:アルゼンチン、日本、カリフォルニア

好きな街:カルドーニョ、フィレンツェ、ボローニャ、ブレッシア

好きなクラブ:インテル

趣味:狩猟、音楽鑑賞

憧れの選手:ジーコ(ブラジル)



愛称
“ロビー”、“ラファエロ”“ディヴィン・コディーノ(聖なるポニーテール)”

比類なき創造力から“モーツァルト”と称されることもある

1990年W杯では“イタリアの新星”と呼ばれその後“イタリアの至宝”と呼ばれる

“ファンタジスタ”という言葉が最も似合うプレーヤーとしても有名



ファン
イタリア国内、国外に数多くのファンを持ち

熱狂的なファンを“バッジスタ”、“バッジーナ”等と呼ぶ



主な出来事
1983年 6月 5日、ヴィチェンツァ(セリエC1)でプロデビュー

1985年 5月 3日、セリエA・フィオレンティーナ移籍

1986年 9月21日、フィオレンティーナでセリエAデビュー

1987年 5月10日、ナポリ戦でセリエA初ゴール。ナポリにはディエゴ・マラドーナ

1988年11月26日、イタリア代表デビュー

1989年 7月 1日、アンドレイナ夫人と結婚

1990年 5月18日、セリエA・ユベントス移籍

1990年12月 2日、長女ヴァレンティーナ誕生

1993年10月31日、ジェノア戦でトリプレッタでセリエA通算100ゴール達成

1993年12月24日、欧州最優秀選手賞(バロンドール)受賞

1994年 5月12日、長男マッティア誕生

1995年 7月 5日、セリエA・ACミラン移籍

1997年 7月18日、セリエA・ボローニャ移籍

1998年 6月 5日、セリエA・インテル移籍

2000年 9月14日、セリエA・ブレシア移籍

2004年 3月14日、パルマ戦でセリエA史上5人目となる通算200得点を達成

2004年 4月28日、スペイン戦(親善試合) バッジョのアズーリ引退試合となる

2004年 5月16日、サン・シーロでのACミラン戦を最後に現役を退く



個人成績
【シーズン成績】

シーズン チーム リーグ 試合 ゴール
1982-83 VICENZA SerieC1 1 0
1983-84 VICENZA SerieC1 6 1
1984-85 VICENZA SerieC1 29 12
1985-86 FIORENTINA SerieA 0 0
1986-87 FIORENTINA SerieA 5 1
1987-88 FIORENTINA SerieA 27 6
1988-89 FIORENTINA SerieA 30 15
1989-90 FIORENTINA SerieA 32 17
1990-91 JUVENTUS SerieA 33 14
1992-92 JUVENTUS SerieA 32 18
1992-93 JUVENTUS SerieA 27 21
1993-94 JUVENTUS SerieA 32 17
1994-95 JUVENTUS SerieA 17 8
1995-96 A.C MILAN SerieA 28 7
1996-97 A.C MILAN SerieA 23 5
1997-98 BOLOGNA SerieA 30 22
1998-99 INTER MILAN SerieA 23 5
1999-00 INTER MILAN SerieA 18 4
2000-01 BRESCIA SerieA 25 10
2001-02 BRESCIA SerieA 12 11
2002-03 BRESCIA SerieA 32 12
2003-04 BRESCIA SerieA 26 12


【所属クラブ別個人成績】

シーズン チーム リーグ 試合 ゴール
1982-85 VICENZA SerieC1 36 13
1985-90 FIORENTINA SerieA 94 39
1990-95 JUVENTUS SerieA 141 78
1995-97 A.C MILAN SerieA 51 12
1997-98 BOLOGNA SerieA 30 22
1998-00 INTER MILAN SerieA 41 9
2000-04 BRESCIA SerieA 95 45


【プロ成績】

シーズン 所属 試合 ゴール
1982-85 SerieC1 36 13
1985-04 SerieA 452 205
1982-04 プロ通算 488 218


【所属クラブ獲得タイトル】

1992-93 ユベントス UEFAカップ優勝

1994-95 ユベントス セリエA優勝

1994-95 ユベントス コパ・イタリア優勝

1995-96 ACミラン  セリエA優勝



【個人獲得タイトル】

1993年 バロンドール=欧州最優秀選手(フランスフットボール)

1993年 FIFA世界最優秀選手

1993年 世界最優秀選手(ワールドサッカー)



イタリア代表成績
【代表個人成績】

イタリア代表通算 56試合 27ゴール(歴代4位)



【ワールドカップ成績】

1990年イタリアW杯 3位

1994年アメリカW杯 準優勝

1998年フランスW杯 ベスト8



【W杯個人成績】

1990年イタリアW杯(No.15) 5試合2ゴール

1994年アメリカW杯(No.10) 7試合5ゴール

1998年フランスW杯(No.18) 4試合2ゴール



言葉
「PKを外すことのできるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」

「PKは決める事より、蹴る勇気の方が尊いんだ」

「思いついたプレーのなかで、 いつも一番難しいものを選択することにしている」

「忘れないで欲しい。君たちの足下には永遠にサッカーボールがあることを」

「サッカーが出来るなら寿命が縮んでもかまわない」

「僕が知っているドーピングはただひとつ、『努力』だけです」

「今を戦えない者に次とか来年とかを言う資格はない」

「“新しいバッジョ”になんて興味はない。それよりも僕を超える選手に出てきてほしい」

「大事なのは、自分の仕事に対して情熱を見せること。仕事の内容によって、情熱、真剣さに相違があってはならない」



エピソード
怪我
1986-87シーズン、フィオレンティーナでセリエAデビューした時

すでにバッジョの右膝には220針もの手術の後があった

(1985年5月5日、リミニ戦での負傷。相手監督はアリゴ・サッキ)



初ゴール
1987年 5月10日、ナポリ戦

ディエゴ・マラドーナ率いるナポリは勝てばスクデッド、フィオレンティーナは降格争い真っ只中

1点を追う展開で得たFKを監督ベルセッリーニがNo.10・アントニオーニではなくバッジョをキッカーに指名

これを決めてセリエA初ゴールと共にフィオレンティーナを降格から救う勝点1を得た

(ちなみに2位インテルの試合結果によりナポリはこの節でスクデッド獲得)



美談
1990年 7月 7日、W杯3位決定戦イングランド戦

得点王がかかっていたサルバトーレ・スキラッチにPKを譲り、得点王獲得



ベストゴール
1990年 6月19日、チェコ・スロバキア戦

左サイドから3人抜きドリブルシュートでW杯デビュー・初ゴール

このゴールが1990年イタリアW杯ベストゴールに選ばれる



アズーリ神話
ロベルト・バッジョのイタリア代表ゴールは22試合27ゴール

その試合の成績は18勝4分で“バッジョが点を決めれば負けない”神話が生まれた



11年ぶり
1993年12月24日、バロンドール受賞

イタリア人として11年ぶりの受賞で、以後イタリア人に受賞者は出ていない



評価点“10”
2000年5月23日、パルマ戦(CL出場権プレーオフ)

前半35分にFKで先制、同点にされた後半38分左足ボレーで決勝点

ガゼッタ・デロ・スポルトでの評価点が“10”

この試合を最後にバッジョが退団、CL出場権を獲得したリッピが続投決定という皮肉な結果に



トリプレッタ(ハットトリック)
1989年11月19日、アスコリ戦  初のトリプレッタ

1992年 2月 2日、フォッジャ戦 2度目のトリプレッタ

1993年 5月 9日、フォッジャ戦 3度目のトリプレッタ

1993年10月31日、ジェノア戦  4度目のトリプレッタ 

1997年11月 2日、ナポリ戦   5度目のトリプレッタ

2001年 5月 6日、レッチェ戦  6度目のトリプレッタ

2001年 9月30日、アタランタ戦 7度目のトリプレッタ



フォーケル(1試合4得点)
1992年11月 8日、ウディネーゼ戦 1試合4得点



恩師
カルロ・マッツォーネ。ロベルト・バッジョの最大の理解者

ブレシアの監督として2000-03の3シーズンを共にプレーする

「私はバッジョをピッチに送り出すとき一つだけ指示をする

 『90分間で一度だけでもいいから君らしいプレイをしてくれ』とね

 それが我々に歓喜をもたらすのを私は知っているからね」

「ネドベドもヴィエリもトッティもいらない。バッジョだけで十分さ」

80年代から現在に至まで、「ファンタジスタ」と言う言葉の代名詞的存在であり、その言葉はR・バッジョのためにあると言っても過言ではないだろう、イタリアの至宝。
ロベルト・バッジョのような選手は、これまでのサッカー史を紐解いてもただ1人として存在しなかった。これからも彼のような選手は現れないだろう。ドラマチックなキャリア、ピッチ上での類稀なインスピレーション、神秘に包まれた人間性。その全てが印象的だった。

ロベルト・バッジョは1967年2月18日、イタリアのカルドーニョに住むバッジョ家の6人目の子として生を受ける。3人の姉、2人の兄、そして後に弟と妹が生まれ8人兄弟という大家族の中で育った。家は決して裕福ではなく、食べてゆくだけで精一杯の生活だったが、家族は大変仲がよく幸せな少年時代だったという。12才でラネロシ・ビチェンツァへ加入し、1982年にデビュー。出場機会は徐々に増えてゆき、ビチェンツァでの最後のシーズン、1984/85シーズンは29試合に出場し12得点を記録。チームのセリエB昇格に大いに貢献した。

イタリアのサッカーにおける情報伝達網は今も昔も大変優秀で、ロベルト・バッジョの名も瞬く間にイタリア全土へと広がり、フィオレンティーナがバッジョ獲得に至る。だが突然の悲劇が彼を襲う。移籍後僅か2日目に右膝十字靭帯を断裂する大怪我。この怪我により1シーズンを棒に振り、さらにもう1シーズン様子を見ながらのプレーが続く。2年越しでようやく怪我の癒えたバッジョは1988年11月のオランダ戦で待望のアズーリのユニフォームに袖を通した。
1989/90シーズンには32試合に出場し、17得点を挙げる活躍を見せたバッジョは、既にアズーリのエースを務め上げるまでに成長を遂げていた。地元開催となった1990年ワールドカップでは惜しくも優勝は逃すものの3位決定戦で得点を挙げるなど評価に違わぬ活躍。同年、イタリア最高の選手を獲得せんとユベントスが動いた。多額の移籍金を積まれたフィオレンティーナは彼を放出せざるを得なくなり、やむなくバッジョのパスをユベントスへと譲渡したが、これに納得のいかないサポーター達は大いにチームを批判、暴動が起きるまでの騒ぎとなった。ビオラに愛され自らもビオラを愛していたバッジョは複雑な心境の中で1990/91シーズンを迎えたが選手として更なる高みへと上り詰めてゆく。移籍1シーズン目にして完全にチームの中心に据えられると目覚しい活躍を見せ、1992/93シーズンにはチームにUEFAカップ優勝をもたらした。
迎えた1994年ワールドカップ。ロベルト・バッジョ擁するイタリアは優勝候補の一角に挙げられ、グループリーグで苦戦は強いられるものの、その前評判通り決勝戦にまで進出する。決勝では炎天下の中、ブラジル代表との緊迫した試合が続き、ついにはスコアレスでPK戦に突入。既に両チームとも疲弊しきっており、特にフランコ・バレージとロベルト・バッジョの消耗は目にも明らかだった。イタリア2人成功、ブラジル3人成功で迎えたイタリア5人目のキッカー、ロベルト・バッジョ。蹴った瞬間に失敗とわかるPKでワールドカップは幕を閉じる。腰に手を当てうつむくバッジョ。セレソンの面々がワールドカップを掲げブラジル国旗を身にまとい喜びを爆発させる。その一方でピッチにうずくまり絶望にくれるチームメートたちを抱きかかえ慰めるバッジョの姿があった。その姿は王者のように誇らしかった。

1994年ワールドカップ後、絶対だったバッジョの存在が揺らぎ始める。所属するユベントスではアレッサンドロ・デル・ピエロという若い才能の台頭がありミランへと放出される。ミランでは戦術的な問題、監督との確執があり出場機会に恵まれず。ボローニャで復活し1998年ワールドカップにも出場したが満足のいく結果は得られず。続いて移籍したインテルでも監督との確執、相次ぐ怪我。バッジョのキャリアは終わったかに思われた。しかし理解者との出会いが彼を蘇らせる。当時ブレシアの指揮を執っていたカルロ・マッツォーネである。マッツォーネはバッジョを戦術に縛り付けるようなことはせず、できるだけ彼を自由にプレーさせた。解き放たれたファンタジスタは全盛期のキレを取り戻し、ボールを意のままに操った。少し顔のしわが増え、体力が落ちたことを除けば、キャリアの終末のバッジョは昔となにも変わらなかった。相変わらず神々しく、独特の雰囲気を醸し、放たれるボールは美しい弧を描いた。

1999年を最後に代表に呼ばれず、その後トラパットーニ体制となった事から2002年ワールドカップ出場を視野に入れ、大きな怪我を克服するもここでもメンバーに選出されなかったのは非常に残念であった。
しかし、その後トラパットーニの粋な計らいにより2004年4月28日スペイン戦をR・バッジョの引退試合とされ約5年振りにそのピッチに立った。
背番号10番を付け、後半からは初のキャプテンマークをまいて魅せたプレーは引退してしまう事が信じられない程ファンタジー溢れるものであった。


2004年5月16日、ミラノ市サンシーロ。ついにお別れの時がやってくる。彼が4シーズンを過ごし、不遇の時を送ったスタジアムが現役最後の舞台となった。左腕に巻かれたキャプテンマークの「必勝」の文字。フランセリーノ・マツザレムへの見事なアシスト。2-4での敗戦。鳴り止まない歓声。惜別の拍手。微笑を浮かべる表情とは逆に愁いに満ちたバッジョの瞳。その全てが印象的だった。

どんな時でもその姿がピッチにある限り、必ず奇跡を起こしてくれる・・、そう思わせる素晴らしい選手であり、私達の心に深く刻まれた記憶は、永遠に消える事はない。






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