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Gary Lineker ギャリー・リネカー

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フルネーム ギャリー・ウィンストン・リネカー
Gary Winston Lineker
ニックネーム リンクス(山猫)
国籍 イングランド
生年月日 1960/11/30
出身地 レスター
ポジション FW(CF)
身長 177cm
体重 74kg
代表デビュー 1984/5/26(通算80試合,48得点)
所属クラブ
1974-85 レスター・シティ
1985-86 エバートン
1986-89 バルセロナ(スペイン)
1989-92 トッテナム・ホットスパー
1992-94 名古屋グランパスエイト(日本)

得点感覚、瞬発力、ポジショニング、その全てにおいて優れた80年代を代表する元イングランド代表ストライカー。
足と頭、両方から繰り出される確実かつ、冷静なシュートでクラブと代表両チームにおいて得点を量産、クラブチームでは3度のリーグ得点王に輝くと、代表では1986年ワールドカップメキシコ大会にて大会得点王となり、代表通算48得点をマーク。
ボビー・チャールトンの49得点に続きイングランド代表歴代2位の記録を持つ。
またそのプロキャリア全てにおいて1枚もイエローカードを貰ったことが無く、英国紳士を体現したフェアなプレーヤーとしても知られている。ミスター・イングランドの異名をとる。

1960年11月30日レスターで生まれたリネカーは地元のクラブ、
レスター・シティに所属すると、18歳にてトップデビューを果たす。
最初こそ、なかなか出場機会に恵まれなかったが81/82シーズンに
17得点を記録したのを皮切りに26得点、22得点と毎シーズン得点を量産。
84/85シーズンには24得点を記録しリーグ得点王を獲得した。
そして翌シーズンより、エバートンへ移籍を果たすがここではなんと30得点を記録。
2年連続となる得点王に輝くとプレミアリーグ年間最優秀選手賞を受賞。
しかしリネカーの素晴らしい得点力を得たにも関わらず、エバートンは
リーグ、FAカップ共にライバルであるリバプールに続いて2位で終わっている。

そして迎えた1986年ワールドカップメキシコ大会。
イングランド代表はグループリーグで苦戦を強いられていた。
初戦のポルトガル戦を1ー0で落とすと続くモロッコ戦はスコアレスドロー。
そしてグループリーグ最終戦の相手はそのポルトガルを1ー0で破っていたポーランドであった。苦戦が予想された試合だったがふたを開けてみればリネカーのハットトリックにより3ー0で圧勝。
得失点差でポーランドをかわしたイングランドが決勝トーナメント進出を果たした。
この試合で勢いをつけたリネカーは続くパラグアイ戦でも先制点を含む2ゴールを記録。
3ー0でパラグアイを退けると準々決勝にこまを進める。
準々決勝の相手はマラドーナ率いるアルゼンチン。
試合はマラドーナの「神の手ゴール」と「60メートル5人抜きゴール」の前に負けをきっするが、リネカーはこの試合でも一矢報いる1得点を記録。
通算6ゴールで大会得点王の栄誉を勝ち取った。
1990年ワールドカップイタリア大会ではイングランドは4位で大会を終え、リネカーはこの大会でも4得点を記録し大会通算10得点の記録を残している。
代表デビュー1984年5月26日スコットランド戦代表通算80試合48得点

メキシコ大会で得点王に輝いたリネカーは86/87シーズンよりスペインのバルセロナへ。
3シーズン在籍し国王杯とカップウィナーズカップ獲得に貢献するが
監督のクライフと折り合いが会わず89/90シーズンよりトッテナムへ移籍。
ここでガスコインと絶妙のコンビを見せ、移籍初年度に24得点で自身3度目となるリーグ得点王となると翌シーズンにはFAカップを獲得。
91/92シーズンには2度目となるプレミアリーグ年間最優秀選手賞を受賞した。

1992年に代表を引退すると晩年は日本に渡り名古屋グランパスにてプレー。
活躍が期待されたが度重なる怪我によりその期待を果たせず、1994年シーズンを最後に現役を引退した。
現役引退後はテレビのスポーツ番組でプレゼンターを務めながら4人の子どもの父親として母国にて暮らしている。

余談だが代表通算48得点で迎えた1992年5月17日ブラジルとの
親善試合において自ら得たPKを外してしまい、ボビー・チャールトンの記録に並ぶ事が出来ず、その後数試合でも得点を記録出来ないまま代表を引退している。

1974年にレスター・シティでキャリアをスタートし、1994年に名古屋グランパスでキャリアを終えるまで、レッドカードはおろか、イエローカードを受けることさえ1度も無かった。サッカー史に残るクリーンなプレーヤーとして、今なお多くの尊敬を集めている。

Bobby Moore ボビー・ムーア

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フルネーム ロバート・フレデリック・チェルシー・ムーア
Robert Frederick Chelsea Moore
ニックネーム ボビー
国籍 イングランド
生年月日 1941/4/12 - 1993/2/24
出身地 バーキング(ロンドン)
ポジション DF(CB)
身長 178cm
体重 72kg
代表デビュー 1962/5/20(通算108試合,2得点)
所属クラブ
1958-74 ウェストハム・ユナイテッド
1974-77 フルハム
1976 サンアントニオ・サンダー(アメリカ合衆国)
1978 シアトル・サウンダーズ(アメリカ合衆国)
主なタイトル
1966年 ワールドカップ優勝

常に冷静沈着で、高度なディフェンス能力により奪ったボールは、
正確なパスにより的確にフィードされ、チャンスを創りだす事にも優れた。
60年代最高のイングランド代表ディフェンダーでありウェストハムの象徴的存在、その紳士的な態度から 抜群の信頼を寄せ、クラブでも代表でも長くに渡りキャプテンを努め、「生まれながらのキャプテン」として賞賛された。

1941年4月12日、ロンドン東部の町バーキングで生まれる。
幼い頃からの憧れのチーム、地元ウェストハムにてキャリアをスタートさせ、トップデビューは1958年9月のマンチェスター・ユナイテッド戦。
当初はあまり出場機会に恵まれなかったが1961年に新監督、グリーンウッドが就任すると彼の目にとまりレギュラーとして定着、すぐに才能を開花させた。ウェストハムではリーグ制覇こそ成し遂げられなかったが1964年にFAカップ初制覇を成し遂げると、彼自身も史上最年少となる23歳でプレミアリーグ年間最優秀選手賞を受賞、1965年にはカップウィナーズカップ決勝で1860ミュンヘンを破り欧州タイトルも獲得する。
16シーズンに渡ってウェストハムのディフェンスラインを統率した彼は常にクラブの象徴でありクラブ年間最優秀選手賞も4度受賞した。

1962年5月20日ペルー戦にて代表デビューを果たすと同年に開催されたワールド杯チリ大会にて全4試合にフル出場、翌年には若干22歳でキャプテンを任されるまでになり、代表通算108試合中90試合をキャプテンとしてプレーした。
1966年、母国開催となったワールド杯では彼の統率するディフェンスラインは最高の守備力を発揮、準決勝ポルトガル戦にてエウゼビオのPKを許すまで無失点で勝ち進み、決勝では延長戦の末ベッケンバウアー等素晴らしいタレントを誇った西ドイツをも下し、イングランドに初のワールドカップをもたらすと同時に自身もこの大会の最優秀選手に選出されている。

続く1970年ワールド杯コロンビア大会にてムーアを悲劇が襲う。
直前合宿を行っていたコロンビア、ボゴタのホテルに滞在中彼はそのホテルの宝石店にて625ポンドのエメラルドをあしらった金のブレスレットを盗んだ罪で現地の警察につかまり4日間拘留された。
すぐにFAが介入しムーアは釈放されたが、本大会ではそのショックを引きずり満足なパフォーマンスが出来ず、ベスト8進出に終わってしまう。
この事件の真相は明らかになっていないが、当時の中南米の国々と欧州の国々との外交摩擦からこの事件がでっち上げられたと言う説が有力である。余談だがこのような時代背景があった為、当時の対ブラジル戦での試合終了後のムーアとペレとのユニフォーム交換の写真は南米と欧州の和解の象徴としてワールド杯で最も有名な写真の1つとして残っている。

この後、ムーアは代表引退、それを機にウェストハムを去ることを決意。
新天地をフルハムに求めここでカップ戦を含め150試合以上に出場。
3シーズン在籍後、アメリカに渡りここで現役を引退した。
現役引退後、体調を崩したこともあり指導者としての活躍は数えるほどしかなかった。
そして1991年に癌を発症。2年間の闘病生活の後、1993年2月24日癌のため51歳の若さでこの世を去った。イングランド史上最高のDFであり世界最高のキャプテン、ボビー・ムーア。全てのDFの理想、ボビー・ムーアは1993年2月24日、永遠の眠りにつく。その日、イギリス中が喪に服した。
癌との闘病生活を世間に公表してからわずか9日後のことだった。
当時ウェストハムのスタジアムの門にはウェストハムのファンであるかどうかに関わらず多くの人々がマフラーを結びつけ追悼の意を示したと言う。
ウェストハムのファンにより今でも愛され、伝説としてあがめられているムーアは、今も熱狂的なサポーターが陣取るスタジアムの南スタンドにその名前を残している。

Wayne Rooney ウェイン・ルーニー

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フルネーム ウェイン・マーク・ルーニー
Wayne Mark Rooney
ニックネーム ワンダーボーイ
国籍 イングランド
生年月日 1985/10/24
出身地 リバプール
ポジション FW(CF,ST),MF(OH)
身長 176cm
体重 73kg
代表デビュー 2003/3/12
属クラブ
2002-04 エバートン
2004- マンチェスター・ユナイテッド

天性の得点感覚とテクニックを備えるだけでなくパスセンスも有り
ゲームメーカーとしてのポテンシャルも高いイングランド期待の逸材。
各クラブの監督もその潜在能力を高く評価しておりアーセナル名将ベンゲル監督に「私がイングランドに来てから見た中で最高のプレーヤー」
とまで賞賛される程の才能の持ち主。

熱狂的なエバートンファンの家族の中で育ち自らもエバートンのアカデミーにてその才能に磨きをかける。14才で早くもエバートンのU-19に抜擢され01/02シーズンには21試合に出場し17得点を記録、
更に FA ユース杯ではオーウェンの持つ最多9ゴールに後1つと迫る8ゴールを挙げチームの準優勝に貢献し能力の高さを証明して見せた。
同シーズン4月、弱冠16才ながらトップチームに昇格すると4月22日サウサンプトン戦にて初めてトップリーグのベンチに座り翌02/03シーズン開幕トッテナム戦にてリーグスタメンデビューを果たした。
U-14から各年代のイングランド代表として活躍している事もありイングランド国内ではすでに注目される存在であったがその名を世界中に知らしめる事となったのは2002年10月19日に行われたリーグ戦(アーセナル戦)。完成されたスペクタクルフットボールで2001/02シーズンのリーグチャンピオンに輝いたアーセナルを相手に、エバートンはなんとか同点に持ちこたえていた。
後半36分から途中出場を果たすと1ー1で迎えた44分にイングランドの歴史を変える25メートルの素晴らしいミドルシュートを決めオーウェンが1997年5月に記録した17才145日のプレミア最年少ゴール記録を塗り替えチームを勝利に導き更にアーセナルのリーグ戦不敗記録を30で止める決勝点でもあった。04/05シーズンより約50億円という多額の移籍金でマンチェスター・Uへ引き抜かれ、現在まで着実な成長を遂げている。

2003年2月12日、ロンドンで行われたオーストラリア戦にて代表デビュー、17才111日でのデビューは、20世紀最年少記録のオーウェンを上回る所か1879年にジェームス・プリンセスが樹立した17才252日を上回り言うまでもなく最年少イングランド代表出場記録となった。
同年9月6日に行われた欧州選手権予選マケドニア戦では、それまでオーウェンが保持していた18才147日という最年少得点記録を塗り替える同点弾を叩き込み、17才317日最年少ゴール記録を樹立している。
2004年欧州選手権では、その若さでエリクソン監督の信頼を完全に勝ち取りその期待に応える大活躍を見せ、通算4得点という数字以上の印象深いものであった。
準々決勝ポルトガル戦前半27分の骨折により、ルーニー、そしてイングランド代表の大会は終演を迎えたが、今後その力でチームを牽引し久々のタイトルをもたらしてくれる事に期待したい。

監督批判やサポーターへの挑発行為に始まり、取材のドタキャン、音信不通など当たり前、明らかなハンドでのゴールを「あれは神の手だった」と呼べば、ある者は観客席からの野次に突如カンフーキックをくらわせた。だが、その一方で誰にも真似のできないすばらしいプレーを披露する彼らは、まさに非常識の我が道を突き進み、そして称賛を得る。マラドーナ、カントナ、ジョージ・ベスト、エジムンド、ガスコイン、ロマーリオ……。そんな彼らの系譜を継ぐ者の1人がルーニーである。
リヴァプールの売春宿の常連。というレッテルを貼られ、ナイトクラブでは暴力行為を働く。さらには人前で婚約者に平手打ちをくらわせたとも報じられるなど、ピッチ外で多くの話題を振りまくルーニーだが、ピッチのなかでもその活躍ぶりはまったく色あせない。イングランド代表でキャプテンのベッカムと罵(ののし)り合いを演じてみれば、チャンピオンズリーグでは納得いかない審判の判定に拍手で応え退場。仇敵(きゅうてき)リヴァプール戦でゴールを決めたときには、「歌ってみろよ」とばかりに手の平を耳に当て、“コップ(ゴール裏)”に陣取るリヴァプールサポーターの目の前でけんかを売ってみせた。
ルーニー以前のイングランドでは、「ホットテンパー」と言えば“永遠の悪ガキ”ガスコインがまず思い出されたが、今ではその代名詞もこの20歳の若者の手に渡った感がある。まるで試合中に吹き出たアドレナリンが、自らの肉体だけには収まり切らずそのまま噴き出すかのように。そんな印象を強く抱かせる彼の爆発に、監督たちは若さ特有のものと擁護するが、審判に向かって「F**K」を20連発見舞うことを若さで片付けてしまっていいものか……。未だ底を見せない彼のプレーぶりを含め、この愛すべき怪童からはまだまだ目が離せそうにない。

Frank Lampard フランク・ランパード

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フルネーム フランク・ジェームス・ランパード
Frank James Lampard
国籍 イングランド
生年月日 1978/6/20
出身地 ロンフォード(エセックス)
ポジション MF(CH,OH)
身長 183cm
体重 75kg
代表デビュー 1999/10/10vsBEL
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1994/95 ウェストハム・ユナイテッド 0 0
1995/96 ウェストハム・ユナイテッド 2 0
スウォンジー・シティ 9 1
1996/97 ウェストハム・ユナイテッド 13 0
1997/98 ウェストハム・ユナイテッド 31 4
1998/99 ウェストハム・ユナイテッド 38 5
1999/00 ウェストハム・ユナイテッド 34 7
2000/01 ウェストハム・ユナイテッド 30 7
2001/02 チェルシー 37 5
2002/03 チェルシー 38 6
2003/04 チェルシー 38 10
2004/05 チェルシー 38 13
2005/06 チェルシー

抜群のキャプテンシーを擁しチームを統率、2列目からゲームをコントロールしながらセンスある飛び出しによって得点も狙えるイングランド代表MF。
イングランド代表にも選ばれた名DFを父に持ち、ハリー・レドナップが叔父、ジェイミー・レドナップが従兄弟というフットボールの名家の出身。高い決定率を誇るミドルシュートを始め、長短を問わない正確無比のパス、更には守備力まで兼備する。しかし最も筆頭すべきはそのフィジカル面にあり、90分間絶え間なく動き続けるスタミナはもちろん、シーズンを通して常にトップコンディションを崩さない鋼の肉体は驚異的と言う他ない。

11才でウェストハムに加入、育成機関で英才教育を施され95/96シーズン、弱冠17才でトップデビューを果たす。
(ウェストハムトレイニー(育成機関)はランパード以外にもリオ・ファーディナンド(リーズ)、ジョ-・コール(ウェストハム)など素晴らしいプレーヤーを育成している。)
シーズンを重ねる事に才能を開花させ97/98シーズンよりレギュラーに定着、以後チームの中心となり活躍する。(ウェストハムでの試合出場148試合、23得点)
しかし2001年5月、叔父であるハリ-・レドナップ監督の辞任、
それに伴い父親のフランクSrコーチの辞任によってチームを去る事を決意し01/02シーズンよりチェルシーへ移籍する(移籍金推定18億円)。
移籍後、そのパフォーマンスは更に磨きがかかりチームをFAカップ決勝に導くなど素晴らしい存在感を示し、04/05シーズンにはMFながらチーム最多の18得点を記録、50年振りとなるリーグ優勝を成し遂げ、サッカー記者協会主催のプレミア最優秀選手に選出された。

イングランドUー21代表としてもキャプテンとして活躍、1999年10月10日ベルギー戦にてフル代表デビュー、2002年ワールド杯ではメンバーから外れたが2004年欧州選手権では全試合に出場しベスト8進出に貢献、代表において今や欠かす事の出来ない選手の1人として認められている。

現在代表では、ベッカム、ジェラード、J・コール等と共に黄金の中盤を築き、6月母国を栄光に導くため鉄人ランパードは今日もピッチに立つ。

Gordon Banks ゴードン・バンクス

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フルネーム ゴードン・バンクス
Gordon Banks
国籍 イングランド
生年月日 1937/12/30
出身地 シェフィールド
ポジション GK
身長 183cm
体重 84kg
代表デビュー 1963/4/6(通算73試合,0得点)
所属クラブ
1953-54 ミルスポー・スティールワークスFC
1954-55 ロマーシュ・ウェルフェア
1955-59 チェスターフィールド
1959-67 レスター・シティ
1967-72 ストーク・シティ
1975-77 フォートローダーデール・ストライカーズ(アメリカ合衆国)
主なタイトル
1966年 ワールドカップ優勝

イングランド史上最高の守護神と名高く、その驚異的なセービングと判断力に常に安定した力を発揮する事でイングランドの一時代を築いた。
絶対的な信頼をおける存在である事から、その名になぞられ
Banks Of England(イングランド銀行)の異名を持つ。

ミルスポーやロマーシュといったアマチュアクラブを経た後、
当時ディビジョン3にあったチェスタ-フィールドとプロ契約を結ぶ。
バンクスが加入した翌年、チームはFAユースカップの決勝に進出するが、ボビー・チャ-ルトン率いるマンチェスター・Uの前に惜しくも敗れてしまった。
しかし、その後移籍したレスタ-・シティでは1963年のFLカップ優勝を果たしFAカップでは2度に渡って決勝の舞台に立った。
この時の活躍から1963年4月6日スコットランド戦にて代表デビューも果たした。
代表デビュー後は正GKとして君臨、1966年ワールド杯では予選リーグから準々決勝アルゼンチン戦までを無失点に抑え勝利に貢献、準決勝ポルトガル戦82分にエウゼビオの1失点を許すまでの443分の無失点記録を打ち立て母国開催のワールド杯優勝に大きく貢献して見せた。
1970年大会ではベスト8に終わったものの1次リーグで対戦したブラジル戦では見事なまでのスーパーセーブを連発、中でも前半18分にペレが放った完璧なヘディングシュートを驚異的な反応で弾き出し、このプレーは今尚語られるワールド杯のハイライトとなっている。

代表通算73キャップ、1972年10月22日の悲劇(自動車事故)から右目を失明し引退を余儀無くされてなければ、代表通算キャップは容易に100を超えていた事であろう。

その後アメリカにて再起をはかるが、怪我前の素晴らしさは影を潜めてしまった。
それでも1977年にはNASL最優秀GKに選出され有終の美を飾り、そのキャリアに終止符をうった。

彼のハイライトは恐らく1970年ワールドカップのブラジル戦だろう。前回大会優勝国のイングランドと、成熟したペレ率いるブラジルがグループリーグでぶつかることになる。ブラジルが優勢に試合を進め、18分に大きなチャンスを得る。カルロス・アウベルトのダイナミックな縦パスが右サイドへ渡りそジャイルジーニョがセンタリング。それをペレが完璧なヘディングシュートを放つ。バンクスはトスタンに釣られてシュートとは逆のニアサイドにいた。少なくともペレがシュートを放った瞬間はニアサイドにいたはずだった。しかしバンクスはこのシュートを止めることに成功する。ペレは信じられない様子だった。神様ペレに「私が見た中で最高のセーブ」と言わしめたスーパープレーだった。
まさにイングランド史上最高のGKであった。
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